【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第65回】今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ(その6) ─国語科教科書の教材提示論─

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」

植草学園大学名誉教授

野口芳宏
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
第65回 タイトル

国語の授業名人として著名な野口芳宏先生が、60年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を多様なテーマで綴る好評連載。今回のテーマは、【今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ(その6)─国語科教科書の教材提示論─】です。全ての国語科の先生方、必読です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

8、学年別漢字配当の意義

学年別漢字配当は、やはり必要である。その必要性は、学力の達成度の評価にとって不可欠だからなのだ。三年生の子供の漢字の読み書きの学力の測定、評価上、その指導範囲、習得範囲を定めておかなければ、当然混乱が生ずる。三年生には、これだけは必ず教え、習得させなければならないという範囲は特定されるべきだ。
但し、それはあくまでも、学力の評価上のことであって、それ以上の漢字を教えてはならないということではない。配当表の範囲を越えて、例えば子供の名前や姓を漢字で書いてはいけないということではないのである。つまり、学年別配当漢字の配当はあくまでも「最低限」あるいは、「最小限」を示したものであって、それ以上の学力をつけてはならないという禁止ではないのである。この点の誤解がかなり広範囲に亘って共有されているようだ。
教科書の教材の表記も頑なにこれが守られている。先に私が例示した『言葉と作法』という幼児に広く用いられている教材文は、漢字配当表には全く囚われていない。幼児教育では、学力の評価はないのでその点の束縛は考慮しなくてよいからだ。
幼児教育の世界でこのようにしてかなりの漢字が読めるようにしてやっても、小学校に入ると平仮名ばかりの表記教材になるので、むしろ一部の子供達にとっては、育てられた学力を活かせないという笑えない悲劇が生じることがある。
学年別漢字配当の本来の意義を知れば、一年生の時からかなりの漢字を子供に提示してもよい訳だが、それは当分の間不可能であろう。残念ながら、当分の間漢字の読字力強化は望めまい。
漢字の読字力は、心ある私立の保育園や幼稚園、子ども園などに期待するしかない。子供にとっては十分に学べる事実が実証されているのに、その成果が生かされないのは残念という他はない。

9、古典の振り仮名提示の功罪

次のような事例は、教科書出版社にほぼ共通している(カッコ内はルビ)。

終日(ひねもす)、 菜(な)、 いつぱい(いっぱい)、 づつ(ずつ)
俳句(はいく)、  山路(やまじ)、 草(ぐさ)、 閑か(しず)、 蟬(せみ)

このような教材のルビ付き提示は昔から当然のように行われてきたことで、格別の問題は生じてはいない。当然のことのように考えられて疑う者もいない。
しかし、仮にルビがなかったらどういうことになるか。当然子供の大方は読めなかろう。そこで、子供はどうするか。

A、何もしない。
B、親に聞く。
C、友達や先生に聞く。
D、自分で調べる。辞書を引く。

Aは残念ながら論外だが、現実の子供の大方はこの類であろう。こういう子供にはルビが有効かもしれないが、予習もしないだろうから積極的なルビの有効性、生産性はさほど期待できまい。
B、Cの子供は「聞く」「問う」という意味で積極的・意欲的である。「問う」というのは「解」を欲するからであって、当然「解」を期待する。また、この場合のやりとりは勉強に関することであり、望ましいコミュニケーションでもある。そういう生産性のあるやりとりを「ルビなし」が促し、刺激することになる。ここでの「読めない」「分からない」という一時的な「困り感」はマイナスではなく、プラスのそれである。私はこれを常々「分からなさの自覚」と呼んで学習のレディネスとして重視している。Dは最も望ましい。このような「自学」「自力解決」に挑む子供を育てることが教育の理想であり、目的でもある。
このように考えて、私は小学校の国語教科書は原則的に「ルビなし」にすべきだと考えているのだが、いかがか。その実現は程遠いことだろうから、私は自分の子供向け著書ではルビなしにしている。このことについては前回で述べたので参照して貰えれば有難い。ルビなしによって生ずるマイナスや不満は一件もないことも前回稿で述べた。
身近に尋ねるような人がいない場合も多く考えられるので、近頃はルビを振ることも取り入れている。現実的な実状を考えれば、それも一策だと言えようからだ。だが。その場合には「左ルビ」を採用している。一般に縦書きのルビは右側に振るが、これだと縦書きの場合には漢字よりも先にルビが目に入る。それで用が足りれば漢字は軽く見る程度で読み進めることになるだろう。それでは漢字の読字力はつかない。
左ルビにすれば、まず漢字が目に入り、何と読むのかという「分からなさの自覚」に基づいて左に目を移す。そこにはルビがある。短い時間だが、ここには「分かりたい」「知りたい」という「自覚」との出合いがある。
横書きの場合には「下ルビ」にする。分かり方のメカニズムは縦書きの場合と同じである。私の考えに賛同する仲間と共に、幼児向けの絵本や、音読読本を作っているのだが、幸いにして理解者、賛同者が少しずつだが増えているようで、嬉しいことだ。

挿絵。鶏の世話をする子供たち

10、古典教材の口語訳提示の功罪

ある教材は次のようである(カッコ内はルビ)。

山路(やまじ)来て何やらゆかしすみれ草(ぐさ)       松尾芭蕉(まつおばしょう)

山道を歩いてきたら、ふと見つけた道ばたのすみれ草に、なんとなく心が引かれるよ。

三年生の教材として俳句が登場するようになったのは、多分平成18年以降、つまり教育基本法の改正後のことであろう。
「伝統的な言語文化」という用語は平成20年3月に告示された指導要領の第2章第1節国語に初出する。「第3学年および第4学年」の「2、内容」の最後の〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕の(1)アに「(ア)易しい文語調の短歌や俳句について、情景を思い浮かべたり、リズムを感じ取りながら音読や暗唱をしたりすること。」――とある。
正直のところ、私にとっては隔世の感一入である。嬉しいのだ。ある時期、「伝統的」という言葉さえ耳にしないようなことがあった。桑原武夫の「第二芸術」論なども影響してか、俳句や短歌が教科書に登場することは殆どなかった。ましてや、それらを作らせることなど思いもよらなかった風潮がひところは支配的だったようにも思う。「隔世の感」と言ったのは、これらを踏まえての思いである。

さて、教材に戻りたい。「易しい文語調の短歌や俳句」を掲出し、その「口語訳」を前掲のように紹介してあるのが、現在の一般的な教材のあり方である。私は「口語訳」は載せない方がよいと考えているので大方の批判を浴びることになるかもしれない。口語訳不要の理由は単純だ。「分からなさの自覚」を奪ってしまうからだ。「どんな意味だろう。」「どこが良いのだろう。」という素朴な疑問を持つ間もなく解が示される「過保護」「お節介」が気になって仕方がない。「教師が教えこむのでなく、子供に発見させる」「考えさせる」ことが大切だなどとよく指導主事などが口にされるようだが、教科書自体がそれに反しているとは言えないか。
「分からないから勉強が楽しみだ。」「先生に教えて貰える。」という素朴ながら根本的な「学びの原点」「学びの期待」が忘れられているように思われて残念だ。
また「山道を歩いてきたら」は「山路来て」の訳として妥当なのだろうか、とも思う。「山路」は「上り坂」「登り坂」である。その緩急はいろいろだろうが、いずれにせよ山道を「歩いてきたら」ではなく、「登ってきたら」の方がふさわしい。「山路」は平坦ではない。話者にとっては、「疲れ」や「汗」を内包している「山路」ととらえるべきだろう。
文芸作品は厳密には一義的ではない。ある程度読み手の自由な解が成立する。だからこそ、口語訳の一義的な解の紹介はむしろない方がよいのだ。それらを含めて担任の「指導」に委ねるべきなのだ。目下の所、全ての教科書出版社が例に示したような体裁をとっている。このままでよいのか。このままがよいのか。考えてみたいことだ。

11、旧仮名遣いの読み方ルビ

次のようなことも申し合わされたように一般化している(カッコ内はルビ)。

ア、雪とけて村いつぱい(いっぱい)
イ、一足づつ(ずつ)
ウ、を(お)りとりて
エ、鼓打たう(とう)

これらの、読み方ルビは必要か。
子供は、正しくは読めなかろう。誤った読み方をするだろう。それを正してやるのが「指導」であり、「教育」なのだ。ここではこうして読むのだと教えてやればよいだけのことだ。「読み間違えないように」という配慮は不要なのだ。間違えさせて、否定をし、正解を示し、従わせるのが「教育」の正道なのである。自ら進んで問うことも、調べることもしない子供が「間違う」のは当然であり、それは悪いことではない。「転ばぬ先の杖」は、時と場合によっては必要だが、探究力や思考力を育てる授業にあっては、時に「要らざるお節介」「大きなお世話」「過保護」にもなるのである。


12、閑話休題「否定」の生産性

「否定の生産性」というのは私の造語だが、私はよくこの語を使う。
「否定をするな」「叱るな」「子供の立場に立って」「自己肯定感を高めよ」というような言葉が広まっている。子供を常に「喜ばせ」「嬉しがらせ」「楽しませ」ることが良しとされる風潮が日常化されている。私はこれらを束ねて「軟派の教育論」と呼び、むしろ「硬派の教育論を」と提唱している。反響は芳しくない。嫌がられる。
しかし、私の授業を実際に見た多くの方は、「優しさを感じた」「子供達が喜んでいる」「頷いている」と異口同音に言ってくれる。「是々非々主義」は本来当然の理なのだが、世の中全体が軟派に傾いている現在では「怖い」「強圧的」などと否定されかねないのだ。
私は、誤答に対しては「間違い」「バツだ」「違う」と明言する。これにムッとしたりする子に私は出合ったことがない。残念そうに引き下がるが、二度、三度とチャレンジしてくる。そして、逆に自力で正解に至る子も出てくる。そうならない子もいる。最後には、私が正解を告げ、その理由を話す。みんな納得する。
曲折を経て、多少の苦労をして望ましい解に至るところに、学びや成長の本物の喜びが生まれるのだ。だから私はよく次のように言う。

ア、間違いだ、と分かってよかったねえ。おめでとう。

イ、良かったなあ、今日学校に来て。来なかったらずっと間違いのままだったことになるものね。


ウ、間違うというのはとても大事なことだよ。全然間違ったことがないなんて人は一人もいないんだ。
沢山の間違いに気づいて、段々すばらしい人間になっていくんだよ。

このような言葉掛けが「優しい」「子供が喜んだ」「また、あんな授業を受けたい」などと言わしめるのだと思う。御批判を期待している。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ


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