提言|川上康則 学校や教員が、今すぐ考えたい5つのこと 【緊急検証! 教員のなり手不足問題、私はこう考える! #2】

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緊急検証! 教員のなり手不足問題、私はこう考える!
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杉並区立済美養護学校 主任教諭

川上康則

教員のなり手不足問題は深刻であり、日本の学校にとってその解決が目下の急務です。現在、文部科学省が進めている働き方改革や給特法に関する議論は確かに重要ではありますが、果たしてそれだけで解決となるでしょうか。教育関係者がその他にできること、するべきことは何かを考える7回シリーズの第2回目です。特別支援学校の教員として障害のある子どもに関わりながら、学校や教員の在り方について情報発信を続けてきた川上康則さんに聞きました。

川上康則(かわかみ・やすのり)
1974年、東京都生まれ。公認心理師、臨床発達心理士、特別支援教育士スーパーバイザー。障害のある子どもたちに対する教育実践を積むとともに、小中学校等からの相談にも応じている。主な著書に「教室マルトリートメント」(東洋館出版社、2022年)、共著に「不適切な関わりを予防する 学校『安全基地』化計画」(東洋館出版社、2023年)、「一人一人違う子どもたちに『伝わる』学級づくりを本気で考える」(明治図書出版、2023年)などがある。

本企画の記事一覧です(週1回更新、全7回予定)
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 提言|川上康則 学校や教員が、今すぐ考えたい5つのこと(本記事)

学校にできることは何もないのか

教員のなり手不足を解消するために、何ができるかを教員の立場から考えたとき、私たちにはどうにもならないことばかりだと感じます。例えば、なり手不足の原因の一つには定時退勤ばかりを求められることや、本来業務である教育活動に手が回らないということがあります。ほとんどの教員は、指導が充実すれば子どもたちと笑顔で向き合えることを知っていますが、それができない現実があります。今の授業以外の業務量が維持されるのであれば、教員の負担を軽減するための解決策は、授業時数を減らすことしかありません。しかし、それは学校の裁量ではできません。このほかにも現場ではどうにもならないことが多いので、私の周りでは、あきらめというか、無関心な状態になっています。したがって、効果の大きいことについては「何もできない」が大前提とはなりますが、それでも小さいことについては、できることがまだあるように思います。現場で働く教員の立場から、教員のなり手不足問題の解消につながる5つの提案をしたいと思います。

1つ目は、 マイナスの要素をなくしていくことです。私は、「学校はブラック」という、今の世間のイメージを消すことばかりに必死にならなくてもいいと思っています。ここまできたら、開き直って「ブラックです」と言い切ったうえで、何がブラックなのかを一つずつ挙げ、それらのマイナスの要素を一つずつ潰していけばいいと思うからです。

ある産業が人手不足になったら、働く人を集めるためにブランド価値を上げようとするでしょう。そのための方法は、2通りあります。持続可能モデルにするか、魅惑モデルにするか、そのどちらかです。

持続可能モデルとは、プラスの要素はそのままで、マイナスをもたらしている要素をピックアップして、なくしていくという方法を積極的に取ります。 マイナスがなくなれば、維持していけるからです。その一方で、魅惑モデルとは、魅惑を売り出すモデルです。マイナス面には手をつけず、こんなにプラス面がありますよと、 あたかも事態が改善したかのように錯覚させる効果があります。

教育現場に当てはめて考えてみれば、皆さんもご存じの「#教師のバトン」プロジェクトに代表されるように魅惑モデルだけで何とか乗り切ろうとしています。教師という仕事の魅力を現場レベルで発信してもらうという目論見が見事に大外れして、結果的に、大量の愚痴と不満、先行きが見えないことへの 嘆きばかり集まってしまったのは記憶に新しいところです。

持続可能モデルと魅惑モデルの発想は、名古屋大学の内田良教授が主張されていらっしゃったことなのですが、今、学校がしなくてはならないのは、持続可能モデルで行くと決断し、マイナスをもたらしているあらゆるものをなくしていくことであるのは明白です。

例えば、 これは東京の一部の地域で話題になっていることなのですが、6月、7月になると、インターナショナル・スクールや 海外の現地校などに通っていた子どもたちが、夏休みの期間だけ、日本の現住所がある地域の学校へ一時的に通学を希望してくることがあります。受け入れる学校では、たった数週間の体験的な受け入れのためであっても、担任が転入と転出の書類の手続きをしなければなりません。教科書を準備し、出席番号をずらして名簿を作り直し、指導要録を用意し……など、あらゆることをやらなくてはならないのです。もしもその期間に宿泊行事が入っていたら、さらに1人プラスして手続きをやり直さなくてはなりません。システムや事務的な手続きが、社会の情勢や各家庭のライフスタイルに合っていない現実があります。そして、その手続きをいつまでも見直さないことによって、教員がたった数週間のための煩雑な手続きを行わなければなりません。このようなケースが複数名いれば、事態は極めて深刻になります。

コロナ禍の3年間は、人の動きが少なかったですし、「コロナ禍なので受け入れは難しいです」と学校は断ることもできました。しかし、今はむしろコロナ禍以前よりも活発な海外との行き来が行われるようになり、こんなところでも大きな影響をもたらしています。

その解決策として、転入ではなく、数週間の体験入学を柔軟に認めるというやり方が考えられます。煩雑な事務手続きがいらないことになりますし、教育委員会も学校裁量で可能になることを後押ししてくれれば、持続可能なモデルになるでしょう。

このほかにも、現場に大きな多忙感をもたらしているものとして、周年行事が挙げられます。学校が10年ごとに記念行事を行っても、在籍している子どもたちにとって全く関係のない話です。大人側の自己満足で、それが現場を苦しめているのであれば、思い切ってやらないという選択肢もあってよいのではないでしょうか。

それから、宿泊行事についても、「やることが前提」という流れを一気に見直してはどうでしょうか。今は家族で気軽に旅行に出かけられる時代です。仕事が多すぎて困っている状況にある教員が、本来業務である授業を差し置いて計画を練ることだけで精一杯なのであれば、検討の余地はあると思います。もちろん、私も諸々の学校行事を通して子どもたちが成長していく姿を見てきましたから、行事をすぐに取りやめるべきだとは思いません。しかし、「これまでやってきたから」という前例にとらわれているのであれば、一度、「何のために行うのか」を本気で検討してもよいと思います。

このように、現在進めている「働き方改革」では注目されていない部分について、各学校レベルで、マイナスをもたらしている要素を根本から洗い出し、それらをなくすことに取り組む価値はあるのではないでしょうか。

教員に求められるのはセレンディピティの発想

2つ目は、教員がセレンディピティ(serendipity)の発想を持つことです。これは、「予想外の発見に出合って嬉しく思う」という意味です。

学校は、様々な想定外・予想外に出合える場です。例えば、今まで様々な活動に乗り気ではなかった子どもがある日突然、目覚めたかのように取り組み始めたり、前向きになったりすることがあります。そんなとき、「あぁ、この子は、本当はこんな表情をするんだ」、「納得できる関係性のもとではこんなに変わるのか」などと成長や変化に気づける瞬間があります。

しかし、周りを見ると、 どうも同じように思っている人はあまりいないようです。むしろ予定調和を好み、想定外が起きることを、「リスクが高い」と感じている人のほうが圧倒的に多いようです。実際に、想定外を嫌う先生たちが仕切っているために、窮屈になっている学校はたくさんありました。それは、サッカーのPK戦で、ボールが飛んでくる場所が最初からわかっていて、ゴールキーパーがそこで待っていて受け止めるようなものであり、 学校が本来もっているおもしろさを失わせています。想定外を嫌う先生たちばかりの学校では、子どもたちも主体性や自主的な意欲を発揮することができません。窮屈で息苦しい状況の中で、大人の顔色を見ながら行動することになり、そのマインドが染み付いたまま、自分たちで考えることもできないのです。そのような学校にたまたま教育実習に行くことになった大学生は、思い描いていたような、子どもたちが生き生きと過ごす学校のイメージを打ち砕かれてしまうでしょう。こうやって教員になることを諦めさせているような学校もあるのではないかと思います。

学校では、教員が予想していなかったようなことが、次々と起きるものです。それらを楽しいと言える人こそ、教員に向いていると思います。もしも多くの教員がセレンディピティの発想を大切にし、想定外を好まない教員たちの勢力が弱まっていけば、学校は変わっていけると思います。そして、想定外のことが起きたときにも、これが学校の魅力であり、醍醐味なんだよ、と伝えられる教員が増えて、大学生が教育実習に来たときに、「学校っていろいろな予想外が起きるけどおもしろいな」と感じてもらえるのではないかと思います。その結果、窮屈さや息苦しさが軽減され、教員になりたいと思える人が増える可能性が高まります。学校を、セレンディピティを楽しめる人が集まる場所にしていくことによって、教員という仕事の魅力や奥深さがどんどん社会に広がっていくのではないかと思います。

病休者を減らすために現場レベルで考えたいこと

3つ目は、教員のキャリア観を変えることです。現場の教員が苦しんでいる理由の一つとして、何度も病休、復帰、病休、復帰を繰り返している教員がいて、その代替教員が見つからず、空白部分を残ったメンバーでカバーしなければならないという現実があります。そしてそのことが、健康なメンバーの疲弊感を増幅させていることに、あまり触れられていません。

制度が保障されている以上、病休と復帰を繰り返すことについて、周りがとやかく言うことはできません。しかし、それがなぜ繰り返されるのかについてはもう少し分析し、問題提起してもよいのではないかと思います。これは憶測の域を出ませんが、病休の理由の中には「自分には教員という道しかない」と思っているから、ということがあるように思います。特に、教員養成系の大学、教育学部出身者の場合、高校生の頃から「教員になる」ことを目指して大学を選んでいます。しかし、実際には「教員には向いてないかもしれない」と感じる場面はあります。そのような状況になったときに、「自分には教員という道しかない」というキャリア観しか描けていないとしたら、教員という道から一度離れて、別の道を模索することができません。「転職してもやっていける」という自信をもてなければ、教員という仕事にこだわり続けることになってしまいます。果たして、そうしたケースはどれだけいるでしょうか。そして、そのことによって、マイナス面をカバーせざるをえないメンバーの疲弊感はどれだけのものでしょうか。

反対に、「教員以外にもやれることはいろいろあるはずだ、他の業界で自分の持ち味が発揮できる仕事を探そう」、と発想を切り替えられる人たちは、実は早々に離脱する道を選んでいます。病気休職者のメンタルケア問題を、職場復帰という視点だけで捉えるのではなく、次のキャリアを見定めるという視点で考えたり、あるいは、病休まで追い込まれる前に、「世の中には教員以外にも仕事は多数ある」というキャリア観を早期に形成しておくことも含めたりできるとよいのではないかと思います。

現在のところ、教職に就いて1年目・2年目での早期退職は、周囲からは「せっかく教員になったのに」と惜しまれる傾向がまだ残っています。しかし、「別の生きるすべを見いだした人たち」と捉え直すこともできます。教員という仕事が上位で、世の中の他の仕事が下位という意識をもっていると、休職しても、あるいは「自分は教員には向いていない」と感じていても、それでも教員という職業にしがみつかなければならないと思うことが十分に考えられます。これでは、その人だけでなく、周囲も含めてみんなが長いトンネルから抜け出せません。こういう角度から現状を変えていく必要があるように思います。

私たちには職業選択の自由があります。「自分には教員という道しかない」というキャリア形成は、マイナスに働く危険すらあります。教員養成段階や教育実習の大学生であれば「何が何でも教員になりたい」という人よりも「教員以外の道も模索している」と答えられる学生のほうが逞しいと感じます。初任者研修であれば、「数年先を想定するキャリア」の課題を示す際に、「教員であり続けること」を前提とするのではなく、そうでない道も十分に想定し得ることを示すことが大切でしょう。

本業である「子どもと向き合うこと」ができない現状を見直す

4つ目は、教員が「働き方改革」の意味を問い直すことです。最近、私が憂慮しているのは、定時退勤を強調するあまり、いかにして授業中に別の業務をするかに関心が集まっていることです。特別支援学校でも、タブレットでYoutubeなどを子どもたちに自由に見させておいて、その間に職員室から業務用PCを教室に持ち込み、事務作業を行うという教員がいました。そうでもしなければ、定時出勤、定時退勤を実現することはできない、ということは分かります。効率よく仕事を進めていくには、授業内に時間を捻出するしかないことも分かります。しかし、子どもとの良質なコミュニケーションのチャンスを削減してどうするのかとも思います。

そうしたことが、教員なりの工夫であり、効率のよい働き方なのだとしたら、もう学校というシステムそのものが「末期状態」です。これで「仕事を回している」というのであれば、世の中の人は「教員って終わっているな」と感じるはずです。

しかし、そういう個人レベルの工夫や効率性を求める努力を責めることはできません。組織としての改善の努力を怠ったツケが、その結果を生み出したのです。本来の業務である授業や子どもと向き合う時間をないがしろにさせてしまうほど、いまだに他の業務を現場に投げ続け、「これ、必要?」と思われる仕事を続けさせている……・。まずはここから着手していかなければなりません。

そのうえで、授業中に子どもに自習させて事務作業をするといった方法で時短や定時退勤を実現するのではなく、「子どもとの向き合い方」を考えたり、「短い時間でも深いコミュニケーションをとる人間関係スキル」を磨いたりする方向に向かうことを提案したいと思います。本業が何なのかを問い、それに特化して磨きをかけることこそを一番の働き方改革に位置付けてはどうでしょうか。

教員不足の現状を保護者と共有する

5つ目は、教員不足の現状を、学校単位で保護者と共有することです。どの学校でも管理職は今、教員の欠員を埋めるための人探しに苦労されているかと思いますが、学校のそのような状況を、保護者や関係者に積極的に伝えて、「現状ではここまで可能、これは難しい」と理解を求めるような工夫をしてもよいのではないかと思います。

水泳指導を例に挙げて考えてみます。これまでプールに入れるかどうかの基準は、天候・水温と気温・警報の有無などで判断されてきました。しかし、安全に水泳指導を実施するという観点から考えれば、「必要な教員の人員数が確保されているか」も基準になると思うのです。人手不足で十分な教員の人数が確保できないのに、プールの授業を行うのは危険だからです。水泳指導のために、他の学年やクラスから教員が応援に出るという無理を重ねている学校もあると思います。そうした工夫でも乗り切れなくなったときに、「それでも水泳は実施します」とするよりも、「教員の人数が確保できていないので、安全の観点から水泳は中止します」、あるいは、「他の学年と合同で行うので、プールの入水回数は少なくします」など、実現可能性を明確にするのはどうでしょうか。

もちろん、これは水泳指導に限定されることではありません。学校のホームページ等を通して保護者に、「今、何年生の教員が何人足りない」と校内の事情を共有することも検討してよいと思います。保護者には教員不足という学校の事情が伝わっていないために、以前と変わらず、多くのことが学校や担任に求められているのであれば、今できることの範囲を明確にし、関係者一同で乗り越えていくという覚悟が求められます。

こうした提案に対しては、「そんなのは前代未聞だ」とか「学校のマイナスを晒すようなことはできない」というお叱りを受けるかもしれません。しかし、教員のなり手不足問題は、もはや学校だけでは解決できないことは明らかです。そもそもこうなってしまったのは、長年、学校だけでなんでも解決しようとしてきた結果ではないかと思うのです。今後は、学校、保護者、子どもが、お互いの立場を尊重しながら話し合い、学校がなんでもやるのではなく、それぞれができることをしていく必要があります。教員の数が足りないときは、情報を開示したうえで保護者の中から協力者を募ることも必要でしょう。

それと同時に、学校は先述したように、子どもと向き合うという、教員の本業以外のことで追い詰めているものがあるのなら、小さいことでもいいので洗い出してなくしていくことが重要です。そして、学校、保護者、子どもが協力した結果、教員が子どもたちと向き合う時間を確保できれば、学校は教員にとっても、子どもにとっても魅力的な場所になります。教員と子どもの関係がよくなれば、保護者も協力的になるでしょう。そうやって学校が変わっていけば、教員のなり手不足問題の解消へとつながっていくように思います。

取材・文/林 孝美

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