記者が感じる「授業取材」今昔【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話㉑】
目次
良い授業をされる先生方、昔と今の違い
以前にも少し触れましたが、私が「教育技術」誌の取材で、学校取材や授業取材を行うようになってから25年以上になります。今回は、この取材を通して出会った良い授業をされる先生方の、昔と近年の違いについて、私の印象をお話ししてみたいと思います。
良い授業をしているのに、自分の言葉で語れない先生
授業取材を始めた当初、私は正直に言えば、ただ先生方のお話を聞いて、それを整理することだけしかできませんでした。それこそ教員免許を取得した大学卒業時と、知識も経験も変わるわけではありませんから、それぞれの先生の授業の良さや工夫など、こまごまと気付くわけもなかったのです。
それが何回も授業取材を重ねるうちに、だんだんと「ああ、この授業はこんな意図で行われているんだな」とか、「この先生はこんなところを工夫されているな」とか、「この子はこんなことで困っていそうだぞ」と、授業中に気付けるようになってきたのです。特に20年近く前に、続けて各県の授業名人と呼ばれるような先生方の取材をさせていただいてから、その傾向が強くなってきました。端的に言えば、良い授業をされる先生の授業は、その意図がとても分かりやすいというのが私の実感で、それを境に少しずつ授業を見る目が養われてきたのだろうと思います。
さて、そうなってくると、授業を見ることがとても楽しくなってくるので、授業後の取材でも、こちらから積極的に質問するようになってきます。そうやって、主体的に授業取材を進められるようになってきた頃に気付いたのは、意外に自分の授業を自分の言葉で語ることが苦手な先生がいらっしゃるということでした。
自分の言葉で語ることが苦手だからと言って、決して授業がよくないわけではないのです。大半が中堅からベテランに差しかかるような先生方ですし、むしろ、授業では子供たちが活発に活動し、思考しており、「ああ、いい授業だな」と思うような授業をされています。しかし、授業後に授業の意図や工夫を尋ねると、それを語ることが苦手で、言葉に詰まったりするのです。
そういう先生に出会うと、私は「ああ、いいんですよ。先生は子供たちを育てるのが本務ですし、それを記事にするのが私の仕事ですから」とお話ししていました。そして、こちらが授業を拝見して推察したことを投げかけ、先生がそれに同意をされれば、それを記事にしていくというように進めていたのです。
授業がうまくいかなくても自分の言葉で語れる先生
それに対して、最近の授業取材で思うのは、自分自身の授業意図や工夫を語れない先生に会うことがないということです。たとえ、思ったように授業が進まなかった場合でも、「こういう意図で、こう進めようと思っていたけれど、子供たちがそうは動かなかった。それはこういうことが原因だろう」、さらには「そこで、こういう変更をした」といったことを、分かりやすくお話しくださる先生が増えたように思います。それはすばらしいことだと思うのです。
以前も少し触れましたが、文部科学省は学習指導要領の告示後に、先生方にも自らが「主体的・対話的で深い学び」を実現してほしいとアナウンスをしていました。それが、しっかりとできている先生が増えてきたということではないかと思うのです。
昔の例のように、良い授業をしていたとしても、それを自分の言葉で語れないということは、経験則による感覚だけで授業を進めているということでしょう。もちろん、それができるのは、先輩方の良い授業はもちろん、日々の子供の反応をていねいに見てこられた結果だとは思います。それ自体はすばらしいことです。ただし、感覚だけで身に付けた方法では、そのやり方でうまくいかなかったときも、感覚だけの手探りで修正を図ることになってしまいます。
それに対して、近年の先生方のように、たとえ授業がうまくいかなかった場合でも、当初のねらいや生じた問題点が語れるならば、自ずと修正の方向性や方法も見えてくることでしょう。それを積み重ねていけば、日々、着実に授業力は向上していくはずです。
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さて、(以前にも同じようなお話をしたと思いますが)これをお読みくださっている先生方は、どれだけ自分の授業の意図や工夫、問題点について、自分の言葉で語れるでしょうか。日々、全時間とは言いませんので、力を入れている教科の1時間だけでも、放課後に思い返して整理をしてみられてはいかがでしょうか。
指導の「型」に明確な意図をもっているか【全国小学校授業実践レポート 取材こぼれ話㉒】はこちらです。
執筆/矢ノ浦勝之