鈴木惠子の「教師として大切にしたいこと」―連載第1回「わからなさがわかるかな?」

連載
鈴木惠子の「教師として大切にしたいこと」

温かく、生き生きと学ぶ子供たちの姿に魅了され、かつてその後姿を追い求めた先生方が全国にいた鈴木惠子先生。子供が伸び伸びと自分を開示、表現していくその授業は、授業名人と称された故・有田和正先生から、「日本一の授業」と評されました。変革期の教育現場で自らの足許を見つめ直し、本当に大切なことについて再確認するための連載です。

鈴木惠子(すずき・けいこ) 静岡県藤枝市の元公立小学校教諭。教育委員会指導主事、管理主事、小学校校長等を経て退職。好きなものは花と自然。

第1回 「わからなさがわかるかな?」

2022年5月に、「明日の教室」京都校にお招きいただきました折に、「教師として大切にしたいこと」という演題をいただきました。

GIGAスクール構想推進への大きな期待を背負って、先生方が新しい教育を切り拓こうと奮闘されている今だからこそ、原点に立ち返り、「教師として大切にしたいこと」を確認し合うことも意味のあることかもしれません。

困難や多忙化の中でこそ、教師であることの誇り、生き甲斐を皆さんに感じていただきたいという思いでいっぱいです。
この連載では、「明日の教室」でお話しさせていただいたことを、さらに広げて書いていきたいと思います。

「教師として大切にしたいこと」……答えはたくさんありそうな気がしますし、人によって考え方は異なるのだろうと思います。

改めて自問自答してみましたが、私の答えの行きついたところは、

(1)共感力
(2)子供ファースト
(3)熱量

の3点でした。

(1)共感力 ~子供の気持ちがわかること~

大切な教師の資質、姿勢として、私が真っ先に挙げたいと思うものは、「子供の気持ちがわかること」です。一言で言えば「共感力」といえるでしょうか?

吉田松陰は塾生からとても慕われたといいます。その要因の一つは、他人の気持ちを自分のことのように受け止める、スピリットが柔らかい人だったからだと言われています。

子どもの気持ち……喜びも悲しみも、不満も戸惑いも……柔らかな心で、教師が自分のことのように受け止めることができること……、そこが教育の出発点ではないでしょうか。

自分がしっかりと受け止めてもらえたとき、初めて子供は心を開きます。
受け止めてくれた人の言葉に耳を傾け、その思いに応えようという気持ちが芽生えます。
ですから、子供を理解することなしに、教育は始まりません。

「子ども理解」が教育の出発点なんて、それは誰も頭ではわかっているはず……。

でも、その当たり前なことがなかなか難しいんだよな……、「子ども理解」という教育用語が、とても表面的に使われていないだろうか?……と、現役時代に何度となく感じてきました。

それは、ちょっとした鈍感さが生むものだと思います。

意外と教師って、教室の空気が読めていなかったり、子供の心が見えていなかったりして、無神経に言葉を発してしまうことがあるのではないでしょうか?

「はい他に?」

一番よくやってしまいがちなのは、子供が発言した後すぐに「はい他に?」「はい次?」などと言って、間髪を入れずに次の発言者を指名する場面です。

「はい、他に?」とは、何て空しい受け答えでしょう。

せめてその発言をしっかり受け止める「間」ぐらいとりたいなと思います。
すぐに次の子が話し始めたら、その子の発言が無かったことになってしまいます。

「あれ? 今僕が言ったことは先生の意に添わなかったんだな」と、子供はがっかりして、もう言うのをやめたり、次から忖度して先生が喜びそうな解答を探したりするようになります。

先生の方にはそんなつもりはなく、無意識に出てしまう言葉だとは思いますが……。
「はい、他に?」と言われた子供の疎外感、寂しい、残念な気持ちに心を寄せられたらいいですよね。

意図的指名をした後で、子供から、 「先生、どうして、あの時、私が言いたかったって分かったの?」 と嬉しそうに聞かれたことが、皆さんもきっとあると思います。

「だって、ゆかさん、ノートに〇〇って書いてあったでしょ? それに、ようすけさんが発言している時、うんうんって頷いて、すごく何か言いたそうだったじゃない!?」などと、答えたことがあるんじゃないでしょうか?

「何か言いたそう」……と感じる心も共感力ですね。
子供たちの「言葉にならない声」を、「形にならない動き」を、見逃さないで受け止め、取り上げ、価値付けること、これは私にとって現役時代、永遠の課題でした。

「教えてあげましょう」

教師はよく「間違いは宝です。」と言いますね。

「教室はまちがうところだ」という、蒔田晋治さんの素敵な詩が、教室の前面に掲示されている学級にもよく出会います。

担任の先生の願いが伝わってきて、とても温かい気持ちになります。
この詩のような学級がつくれたら……、この詩のような授業ができたら……、どんなに楽しいことでしょう。
間違いを乗り越えた後にこそ、本当の学びがあるのだと、子供たちに伝えたいですものね。

だから先生は、「間違ってもいいから言ってごらん。」と言います。
「間違っても誰かが教えてくれるから大丈夫だよ。」と優しく励まします。

ただ、その言葉が教室に、「教える者」と「教えられる者」の微妙な上下関係を生むことには案外、無頓着です。
もちろん、教えることは、より理解を高め、定着させるために有効な教育活動のひとつですから、「教え合う」という双方向の、対等なものなら大歓迎です。

でも、残念なことに、「教えられる側」の子供って、たいていいつも同じ子供たちではありませんか?

教える側の子供の心のどこかに、「自分は教えてあげる側の人」という傲慢さがあると、「教えられる側」には知らず知らずのうちに劣等感が植え込まれます。
目には見えないけれど、その蓄積は大きいです。教える側の自尊感情は高まるかもしれないけれど、教えられる側の自尊感情はへこんでいきます。


能力差があるのは仕方ないことです。
小学校1年生に入学した時点で、すでに能力差があるのは、残念だけれども歴然たる事実です。
そこに蓋をして隠そうというのではありません。

でも、プライドを潰してはいけないのです。
ですから私は、教室の中で「教えてあげましょう」と言う言葉は、意識して使わないようにしていました。
子供たちには、誰も彼も、学び手として謙虚であってほしかったのです。

では何と言っていたかといえば、
花子さんが今どこでつまずいちゃっているのか、そのわからなさがわかるかな?」
と問いかけていました。

「教えてあげること」ではなく、「わからなさがわかること」を求めたのです。

「花子さんのわからなさがわかるかな?」と問いかける場面のイラスト

そう問われると、子供たちは一生懸命花子さんの気持ちに寄り添おうとします。

「花子さんが間違えたのは、多分ここをこう考えちゃったからじゃないの?」とか、
「ああ、そうか!花子さんはここまでは正しく考えていたんだよね。」とか、
「ぼくもよくミスをしちゃうのでわかるんだけどね…」などと。

高いところから教えてあげるのではなく、花子さんと同じ土俵まで下りて行って、一緒にわからなさやつまずきに共感し、共有するのです。

自分を理解してもらえて、初めて花子さんは「言ってよかった。」と思います。
「花子さんのお陰で、新しい発見があったね。」と価値付けてもらえて、初めて間違いは生かされます。

ちょっとしたことなのですが、先生に「間違える子」への共感力があるかないかによって、授業の風景空気も、随分違ったものになってきます。

間違いから本当に学び合える「謙虚さ」が育つかどうかは、教師が「教えてあげましょう」と投げかけるか、たとえば「わからなさがわかるかな?」と投げかけるか……先生から発せられるその言葉選びによって変わってくるのです。

共感力のある謙虚な学習集団を育てることによって、共存感情溢れる楽しい授業が可能になるのだと思います。

イラスト/岡本かな子

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