先師・先達に学ぶ(その1) ー森信三先生と寺田一清氏(上)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第50回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
先師・先達に学ぶ(その1) ー森信三先生と寺田一清氏(上)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第50回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第50回は、【先師・先達に学ぶ(その1) ー森信三先生と寺田一清氏(上)ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 国民教育の師父、森信三先生

森信三先生は高名な教育哲学者である。私ごときが先生について拙文(せつぶん)を書かせて戴くなど不遜の謗(そし)りを免れまいことは十分に承知の上だが、どうしても書いておきたい思いが募ったのでお許しを乞いたい。私は森先生の謦咳に接したことはないし、格別先生の業績について研究をしたこともない一読者であり、一実践者に過ぎない。

その私が森先生についての思いを書きたいと思ったのは『致知』という雑誌の今年(2021年)の6月号に、「追悼 寺田一清氏」という1ページの記事が載ったことによる。寺田一清氏は令和3年3月31日に95歳の天寿を全うして逝去された。この方は教育者ではない。本職は、大阪の呉服商の方なのだが森信三先生を生涯の師と仰ぎ、森先生の教育の理論と実践を世に広めるべく、実に50年以上に亘って、専心尽力された方である。

森信三先生の、非凡、偉才、偉大は申すまでもないことだが、寺田一清氏との出合いがもしなかったとすれば、「国民教育の師父」とまで広く知られ、親しまれる森先生の存在はなかったのではないかと私は思う。これは全く私の一人合点なのだが、森信三先生と寺田一清氏のお二人を知る方ならば、恐らく大方の方が私の考えに同感されることと思う。

さて、「高名な教育哲学者」と書いたのだが、現在の、あるいは現職、現役の学校教育者の中にはぴんとこない方があるかもしれない。あるいは全く知らないという人もあろうかとも思われるのだ。と言うのは、森先生の著書は、学校の教員向けの教育書を主として刊行しているいわゆる教育出版社からはほとんど出版されていないからである。

また、私の狭い見方によれば、森信三教育学は関東以北よりは、関西以南の地域でより広く知られ、小、中学校以上の教育関係者よりは、幼児教育関係者の世界でより広く知られ、公立教育機関よりは、私立の教育機関の関係者により広く知られている方だと思われるからである。

森信三先生の御著書の大方は、一般社団法人「実践人の家」から、あるいは㈱登龍館から刊行されている。超ロングセラーの『修身教授録』も、致知出版社からの刊行である。これらの出版社の読者の大方は、教育者というよりは一般社会人、それもかなりハイレベルの読書人である。かなり大部の部数が刊行され、読まれているのだが、あまり大きく宣伝するような売り方はしていない。

逆の言い方をすれば、大掛かりな広告をしなくても、かなりの読者に渇望される力を持った本だ、ということにもなる。それは、ハイレベルの読書人が、読後の感動を広く伝え、それに応えた読者がさらに読者を増やした結果ともなる。読者の口コミほど説得力のある広め方はないからだ。

ことのついでに月刊誌『致知』にも触れておきたい。この雑誌は店頭にはない。1年分の誌代を前払いした読者にのみ年間を通じて郵送される特別雑誌だが、読者は実に10万人超である。執筆者は一流企業人、一流の学者、一流の宗教人、一流の作家、求道者が多い。出版しさえすれば毎月10万人の読者の手に渡るという月刊誌はそうざらにはあるまい。返本率ゼロの予約販売制のハイレベル雑誌であり、私もざっと20年に及ぶ定期購読者である。ある時期は内容の充実に惚れこんで、定期購読者をかなりの数紹介し、版元の社に喜ばれた。愛読者の全国組織「木鶏クラブ」の活動も活発である。関心のある方はネットでの照会をお薦めしたい。キャッチコピーは、「人間学を学ぶ月刊誌」である。

元に戻って哲学者森信三先生は、寺田一清氏と出合うことによって自説、自論を広く人々に知らしめることになった方で、その意味では弟子に恵まれた学者と言える。これほどに献身的に生涯かけて師の為に尽くすような弟子を持つ教育者もまたそうあるものではあるまい。

一方、寺田一清氏もまた大変な幸運者と言えよう。これほどまでに心の底から師事できる生涯の師との出合いに恵まれた弟子もまた数少ないのではあるまいか。

このお二人の出合いの場面が、先の追悼文の中に書かれている。

二人の出会いは昭和四十年、寺田氏が恩師の勧めで森先生の全集を購入したことがきっかけでした。初めて面会を果たした時の先生の話に感動した寺田氏は、五分とかからないうちに、この人こそ自分の生涯の師と思い定めたといいます。時に森先生七十歳、寺田氏三十八歳。以来、寺田氏は五十年以上にわたり、森先生一筋の人生を歩んでこられたのでした。(101ページ)

この感動的な出合いは、森先生の広く知られる名言の一つ「人間は、一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」とぴったり合致している。

この寺田氏との出合いについて、森先生は最晩年に「あんたとは宿世(すくせ)の縁によって結ばれたと思う」という言葉を贈った由である。「宿世の縁」とは「前世からの因縁」の意であり、まさに哲学者の名言と言うべきであろう。

2 躾けの三原則

㈱登龍館との御縁によって私もいくつかの保育園や幼稚園に出向いて話をさせて貰うことがある。職員室や理事長室に通されると森信三先生の名言が書かれた色紙や扁額にしばしば出合い、感激を新たにする。最も広く知られている一つに「躾けの三原則」というものがある。次がそれである。

一、挨拶
一、返事
一、履物揃え

簡潔この上ない三つですぐに覚えられるし、忘れない。この三つの示し方にはいくつかのバージョンがあるが根本は変わらない。このことについて森先生は次のように述べている。

第一、朝必ず親に挨拶をする子にすること。

第二、親に呼ばれたら必ず、「ハイ」とハッキリ返事のできる子にすること。

第三、履物を脱いだら必ず揃え、席を立ったら必ずイスを入れる子にすること。

以上三つの躾けが真に徹底すれば、もうそれだけで「人間」としての軌道に乗るというわけですから、ちょっと考えたら不思議なくらいです。では、何故そんな分かりきったことを徹底させたら、それでわが子を「人間」としての軌道に乗せられるかというと、第一と第二で「我」がとれるからです。つまり、「挨拶」と「返事」で一応人間としてのをぬく秘訣なのです。ですからこの二つの躾けが徹底しますと、子どもはいつの間にやら素直になって親の言うことをよく聞くようになるのです。

何とも明快、整然、すかっとする一文だ。くどくないし、具体的で、誰にもできそうである。但し、三つのどれにも「必ず」という言葉が「必ず」入っている点が重要だ。「いつでも、どこでも、唯一つの例外もなく」ということであり、それを先生は「真に徹底すれば」と言っている。厳然、厳格、一歩も退かぬ気迫がある。そこが肝腎なのである。

言いたくはないが、指導要領などの文言とは格が違う、と思わざるを得ない。時空を超越して万古不易の真理を、平明簡潔に示して類がないと言うべきであろう。恐らく「挨拶、返事、履物揃え」の三原則を身につけ、例外なく日常に実践するほどの者ならば、万引き、いじめ、窃盗などの反社会的行動とは一切縁がなくなるに違いない。

森先生は、

わが子を人間としての軌道に乗せるには、そんなに色々とたくさんのことはいらないのですが、ほとんどのお母さん方はこの点についてご存じないようです。

と述べている。(森信三先生講述『わが子の人間教育は両親の責任!!──家庭教育二十一ヵ条』寺田一清編 発行㈱登龍館 平成21年4月 第36版)

「そんなに色々とたくさんのことはいらないのですが」という先生の言葉は重い。役にも立たない饒舌の騒音を吹き払って、単純不変の真言こそを世に広めたい。

3 職場再建の三原則

 時を守り、
 場を清め、
 礼を正す。

この「職場再建の三原則」も広く知られ、多くの保育園や幼稚園で守られ、実践されている。有名な至言の一つであり、私の訪問する幼児教育の園でも頻繁に目にする。

これもまた「三原則」であり、二つでもなく、四つでも五つでもない。三つである。森先生は様々な名言をしばしば「三つ」に要約されている。三つなら覚えていられる。覚えているから忘れない。忘れないから日常に生かされる。生きて、職場を動かし、導いてくれる。三つは誠に適切だ。

但し、三つに絞るということはそう簡単にできるものではない。しかもその三つが、時空を超えて不易の価値を保ち続けるということになると尚更の難事になる。森先生は、その難事に挑まれ、多くの名言、名句を残されている。凄いことだ。

さて「職場再建」の三原則である。この「再建」は「よりよくする」ほどの意味と捉えるべきで、「衰えたもの、すたれたものをもり返す」という意味とは解さない方がよい。マイナスの状況になくとも「よりよくする」努力はどの職場にも必要だからだ。その第一が「時を守り」である。時間は公共財である。一部の違反者によって多数の公共財が無駄になる。いかなる場合にも「時を守る」という一事を全員が守るだけで大きな実りが得られる。

私は担任時代に、授業に1分でも遅れると「40分も遅れるとは何事だ」と叱った。当時の学級定員は40名だったからである。

二つめの「場を清める」とは、物理的な「清め」も然ることながら、むしろ精神的な「浄め」に力点のある戒めと解したい。作業としての掃除というよりは、働く場を聖域と捉え、真剣、誠実な心の在り方を保つ「職場の清め」であることが肝要であろう。

三つめの「礼を正す」は、互敬の念を身につけるということであり、それは自らの身を慎むという謙虚、敬虔の情を体得、体現することである。

職場は物心両面に亘る神聖な「生産の場」である。そうであるからこそ、そこに働く人々は、時と場と礼の三つを、守り、清め、正すことが大事な条件となる。教員の不祥事は、こういう職場からは生まれまい。

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2021年8/9月号より

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