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【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第71回】今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ(その12) ─不登校、苛め過去最多・「良薬口に苦し(下の1)」─

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」

植草学園大学名誉教授

野口芳宏
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」バナー

国語の授業名人として著名な野口芳宏先生が、65年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を多様なテーマで綴る硬派な連載。今回はいよいよ、昏迷を続ける教育界における様々な課題の根本的解決を目指した提案が為されます。教育行政担当者、学校管理職にとって必読の提言です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、65年以上にわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

これまでの要約

これまでの要約をしておきたい。「不登校、苛め過去最多・『良薬口に苦し』」というテーマを取り上げて、上、中、中の2と三回に亘って私の考えを述べてきた。ポイントを述べれば次のようになる。

① 不登校・苛めは教育の敗北、失敗。(過去最多、11年連続で増加)
② 敗北、失敗の指導策が改められることなく踏襲されている。
③ 道徳の教科化もその功は見えない。
④ 中教審の答申の現実離れと空廻り。
⑤ 明治天皇の「教学聖旨」の憂慮に酷似。「教学聖旨」は教育の昏迷を救った。
  だが、現在の昏迷は、過去最多の連続である。
⑥ 現在の教育昏迷の要因は経済格差にある、という誤解、誤認。
⑦ おめでたい「子供天使観」の虚妄。子供の正体は「無知、未熟、未完」。

詳細は記述の本文に当たって貰いたい。「腑に落ちないあれこれ」はまだあるのだが、「不登校・苛め」に絞っての「対策、対応」をまとめておきたい。

10、被害者、受難者は子供なのだ

不登校になっている子供達は、気の毒である。子供は、誰もが学校に行きたいと考えている。それが一般的で、常識的な考えであろう。

環境という条件で考えてみれば、現在の学校環境は昔から見れば、楽園であり、ユートピアだ。完備とまでは行かずとも、冬は暖かく、夏も涼しい。室内はいつも明るいし、教育に必要な器材もかなりの充実ぶりである。

先生は優しいし、指導は懇切である。ごく一部に貧困はあるようだが、一般的には寒さに凍えることもないし、飢えに苦しむこともない。学校給食は毎日残菜が出る程に豊かである。

このように恵まれた中で、それでもなお「学校に行きたくない」「学校に行けない」というのはどういうことなのだろうか。卒寿を迎えようとする昭和世代には考えにくい状況である。――そんなに単純な問題ではないよ、という声も聞こえてきそうだが、単純に考える原点に立つことも大切であろう。

医学的に、心理学的に、精神医学的に考えれば、際限の無い分析ができそうだが、それらによって子供の不幸、気の毒が果たして解消されるのだろうか。

私の本職は小学校の教員である。38年間を子供のいる学校でだけ過ごした教育の実践者である。私の考えは「体験に基づく実感」に支えられている。研究者でも、学者でもない。体験のあり方、実践の仕方を常に改善、工夫することに努め、そこで得た実感に基づいて物事を判断することにしている。

その立場に立って言えば、子供は現代の教育を受けながら、いつの間にか、学校に「行かない子」「行けない子」に育てられてきてしまった、のではないかと考えるのだ。親や、先生の教え方、導き方に従っている内に、思いがけないことになってしまった、のではないか。このように考えると、不登校や苛めに悩む子供は、受難者であり、被害者だということになる。

つまり、現在良しとされている教育のあり方のどこかに、何か重大な考え違い、勘違いがあるのではないか、ということである。だが、それを言うのにはかなりの勇気がいる。だから、腹では思っていても誰もが口を噤んでいるのが現実だ。これを同調圧力などと呼ぶらしい。

「義を見てせざるは勇なきなり」は論語の言葉だが、正義ではあっても、それを行動に移す勇気がなければ、結局のところ何の役にも立たない、という意味だ。所詮は万事「徳」の問題なのである。

11、不登校、苛め、暴力は子供の告発

不登校、苛め、暴力の三つを、仮に「今どき子供三難」と呼んでおこう。この三難は、子供の側からの、「声なき告発」「声なき悲鳴」「声なき絶叫」と、私は考えている。子供らは、言葉で自分の苦しみや悩みを伝える力を持たない。そこで、行動、現象、つまり、「体を張って」無言で、今の世情によって進められている学校教育のあり方への告発、悲鳴、悲憤を表しているのだ、と私は考えるのだが、このように表立って言う人、このような考えの人に、私は出合ったことがない。学校現場の教師からも、教育行政担当者からも、である。年輩の親、今は祖父母に当たる人達からは漏れ聞くことはあるが、それは「声を密めて」のことなのだ。

その中味は、「体罰」や「教師の怖さ」や「昔の雷親父」などであることが多い。とても今の世情に受け入れられそうもないので「声を密めて」言うしかないのだろう。

別の言い方をすれば、同調圧力に抗うだけの「勇気」を大人自体も持たない。「弱さ」を身に付けてしまったのかもしれない。そうなのだ。「弱さ」である。

敗戦後80年が経つ。この長い時間の中で、徐々にではあるが、確実に、子供も、大人も、親も、教師も、マスコミも、みんな「弱く」なってしまった。そういうようにすべく、そうなるべく「教育」は進められてきた。「優しさ」「思いやり」「寄り添い」という言葉が巷間に溢れ、今も溢れている。

曽ての大和魂という言葉が孕んでいた「不撓不屈」「忍耐」「負けじ魂」「鍛え」などという言葉は学校は言うまでもなく、世の中から消されてしまった感が強い。そして、今は「ハラスメント」という流行語が急速に広まって、強い言葉や、核心を突いた言葉は言えなくなっている。軟質の、当たり障りのない、虚飾の言葉がはやっている。そういう同調圧力がいよいよ広まり、強くなって、「本音、実感」の「真言」や「忠言」が影を潜めてしまっている。

とうとう「子供の告発」や「子供の悲鳴」も聞こえなくなり、大人の「聞く耳」の機能が麻痺してきてしまったように思われる。最も恐るべきは、そのような「自覚症状」さえもが、人々になくなってきていることだ。 体を張って訴えかけている子供からの告発、悲鳴、絶叫に気づきたい。気づかねばならない。

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12、危ふきは、その元を尋ぬべし

「危ふし」は「心配、不安」の意。そういう事態に到ったならば、その「根源」に戻って考え直さねばならない──ということである。その場しのぎの間に合わせではなく、根本的な解決をすべきだとの意である。

私の考える「根本的解決」は次の三点への着目、省察である。大方の批判を得たい。

① 敗戦と占領政策の影響の吟味、再考
② 日本固有の教育理念への回帰、分析
③ 西欧文化への拝跪の功罪の吟味

① 敗戦と占領政策の影響の吟味、再考

日本の敗戦は昭和20年8月、西暦では1945年であり、それは私が国民学校の4年生の時である。8月14日までは、松林に入って大きな松の木に鋸で左右に一本ずつ長い鋸傷をつけ、松脂を絞って竹の筒に集めて学校に持って行き、それを大きな桶に注ぎ入れてから教室に入っていた。8月15日からは、その仕事はなくなった。戦争に負けたからだ。玉音放送は、電波事情が悪く全く聞き取れなかった。

さて、敗戦と連合軍による国土占領の二つは、日本人のそれまでの考え方を大きく変えることになった。これは「精神的武装解除」と呼ばれているが、それは見事な成功、成果を生んだ。その後遺症が現在の「教育氷河期」を生むことになる、というのが私の考えの根本にある。このような私の考えは『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(高橋史朗著、至知出版社、平成26年1月初版)によるところが大きい。参照願えれば幸いだ。

戦争は、正義感の衝突である。相手国の不正を自己の正義で破るというのが両者の共通する主張である。自国の戦いが不正義だと考えて始まる戦争は存在しない。米国による日本の占領政策の根本は書名に明らかなように、日本が「二度と立ち上がれないように」──がその中核である。

簡単に言えば、「大和魂」を骨抜きにすることだ。「見事に骨抜きにされた」というのが私の実感で、私はそれを残念、無念だと考えている。「骨抜きにされてよかった」とは到底考えられない。「子供の告発」と私が言う「子供の三難」は、米軍の日本に対する占領政策の成功と決して無関係ではない。

こういう言い方を公然とする教育者は例外的に少ないのが日本の教育界の現実だ。忽ち「逆コース」「戦争賛美者」「時代錯誤」などと後ろ指を指されかねないからだ。「本音、実感」を言えない「閉された言語空間」(江藤淳著、文春文庫)は今も変わらず続いている。むしろ、広まっている。

アメリカはさすがの大国だ。「二度と立ち上がれないように」する為の占領だ、などとは絶対に言わない。「民主化」の美名の下に着々と、実に巧妙に、日本人に感謝されながら、占領政策を進めた。見事だ!

以下は私の個人的見解だが、「骨抜き」にするのに絶大な効果を上げたのが、「団結心」の破壊であり「一億火の玉」という国是にも近い大和魂を壊滅することにあった。「御国の為に」「命を惜しまず」死ぬ時には「天皇陛下万歳」と叫ぶほどの日本人の愛国心と団結心、団結力は、占領政策によって見事に破砕された。

現在の教育界に広まっている「個性重視」「自主性」「主体性」「自ら考え、自ら判断」「多様性への寛容」などの用語の非を口にする者はいないだろう。「自由、平等、平和」が善で「差別」「強制」「指示」の悪は広く共有されている。いずれも、現在の教育界の共通理念にさえなっているようだ。

全体よりも、「個」が大事なのであり、それが正しくかつ善なのだという考え方だ。

これらへの盲信は危険なのだが、それを公言する者がいない。「危ふきは、その元を尋ぬべし」には程遠い。日本人、日本国が、大国とされていた中国と戦って勝ち、大ロシア帝国と戦って勝ったのは、まさに「命を賭けた団結力」「大和魂」の成果であろうから、占領政策の根本を団結力と魂の破砕に絞ったのはアメリカの炯眼という外はない。

経済的に豊かになり、80年もの平和に恵まれ、生活の日々が快適になり、治安も行き届いている現在の日本は、ユートピアに近い。その中で、子供の残念な現実、社会不安、不祥事、凶悪犯罪などが増えている。その根源、大本は、「利己」や「自分勝手」による「公徳心の低下」にある。間違いない。

学校教育で言えば、「特別の教科 道徳」の実践が有名無実であり、殆ど効力を発揮していないことが大きな問題である。教育基本法の第一条は「教育の目的」であり、その冒頭は「教育は人格の完成を目指し」である。この冒頭の一文が忘れられてしまっているのが現在の日本の学校教育である。まさに、「根本」が揺らいでしまっているのだ。

「人格の完成」とは、一言で言えば「利他と公益」を重んずること、ということになろう。反対は「私利、私欲」である。私利私欲の人が集えば必ず争いになる。利他、公益を重んずる人が集えば、藹藹たる和気に満たされて楽しくなる。

野口芳宏 先生

イラスト/すがわらけいこ 写真/櫻井智雄


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