【新連載】堀 裕嗣 なら、ここまでやる! 国語科の教材研究と授業デザイン ♯1「文学的文章の詳細な読解」は、無意味だったのか?~文脈を読む力について~
国語科・道徳科において、確固たる理論的裏付けに基づくクリエイティブな教材開発、教材研究、授業実践に定評のある堀 裕嗣先生。50代後半にして時代の最先端を創造的に疾走し続ける実践者(中学校)の1人です。そんな堀先生の待望の新連載(毎月1回公開予定)が、今月から満を持してスタートします。記念すべき第1回では、「文学的文章の詳細な読解が何を培っていたか」について、日本社会全体を視野に入れた考察が展開されます。
目次
1. 羊の顔していても心の中は狼?
1976年だから、私が小学校4年生のときのことだ。真夏のさなか、ピンク・レディーが颯爽とデビューした。同級生の女の子たちは瞬く間にピンク・レディーに夢中になり、教室といい廊下といい、休み時間の学校は「ペッパー警部」を歌って踊る女子たちであふれた。それから50年が過ぎようとしているが、その後あれほどの現象を見たことがないし、おそらく今後も現れないだろう。
ピンク・レディーのセカンドシングルは「S・O・S」である。「ペッパー警部」同様の大ヒット。ピンク・レディーが少なくとも数年は時代を席巻するであろうことを決定づけた曲である。
この曲にこんな歌詞がある。
男は狼なのよ 気をつけなさい
年頃になったなら つつしみなさい
羊の顔していても 心の中は
狼が牙をむく そういうものよ
歌詞を読むと、どうということもない歌詞に見える。よくあるフレーズの連続とさえ思える。しかし、当時の私、10歳の私には、どうしても「羊」が聞き取れなかった。別にミーちゃんやケイちゃんの滑舌が悪かったわけではない。当時の映像をYouTubeで観ても二人ははっきりと「ひつじ」と発音している。私がこれを聞き取れなかったのは「羊の顔をしても心の中は狼」という慣用表現を知らなかったからだ。要するに当時の私に知識がなかったのであり、当時の私の語彙の問題だったわけである。
しかし、話をこれで片付けるわけにはいかない。「●●●の顔していても」の後には、「心の中は 狼が牙をむく」と続いている。要するに後段は「狼」の話に展開するわけだ。とすれば、「●●●」が動物の名前であることくらいは予想されるはずなのだ。要するに、文脈からここにも動物の名前が入るのではないかと予測さえできれば、多少時間がかかるにしても音韻から「羊」は当時の私にも思い浮かんだはずなのである。ミーちゃんとケイちゃんがこの「●●●」を、「イ段・ウ段・イ段」の語として発音していたことは私にも聞き取れていたのだから。
結局この問題は、仲の好かったクラスメイトの秀樹くんに尋ねることによってすぐに解決した。しかしそのとき、「えっ、堀、羊の皮をかぶった狼って知らないの?」と驚きの表情で問い返されたことをもよく覚えている。彼は決して私を馬鹿にしたのではない。ただこんな当然のことを知らない私に、彼は単純に驚いたのである。このとき感じた、羞恥にまみれた小さな瑕(きず)を、私はそれから半世紀近く経ったいまでもはっきりと想い出すことができる。教室の窓側、一番後ろの席、窓からは札幌の冬には珍しいあたたかな日差しが差し込んでいた。
2. 男がいて女がいてゴリラがいるの?
かつて、倉田まり子という美しく清楚な女性アイドルがいた。歌も上手く、将来を嘱望されたが、スキャンダルでテレビから消えていくことになる。そんなアイドルだ。
その倉田まり子に「HOW!ワンダフル」というヒット曲がある。グリコポッキーのCMソングで、そこでは倉田まり子が満面の笑みでポッキーを片手に踊っていたのをよく覚えている。サビはこんな歌詞である。
男がいて女がいて 恋ができるの
あなたがいて私がいて キスができるの
ある日のことである。私の五つ下の妹がこの歌を口ずさんでいた。
男がいて女がいて ゴリラがいるの
これを聞いた母の「?」という表情をいまでも思い浮かべることができる。横には父もいたから、おそらく日曜日の朝方のことだった思う。母は「そんな歌があるわけがない」と、私に「兄ちゃん、この歌知ってる?」と訊く。私が知ってると応えると、「ほんとはどんな歌詞?」と尋ねる。私が「男がいて女がいて 恋ができるの」だと説明すると、両親ははじけるように嗤った。「なんでゴリラがいるんだ」「ゴリラなんているわけない」と。妹は泣きそうな顔をしている。
調べてみると、倉田まり子の「HOW!ワンダフル」は1979年のヒット曲である。となると、このエピソードは私が中学1年生、五つ下の妹は小学校2年生のときのことということになる。「恋」という概念を持たぬ小学校2年生の妹には、「恋ができるの」は前後の文脈から「ゴリラがいるの」に聞こえてしまったのだろう。「恋」は知らなくても「ゴリラ」は知っている。小学校低学年らしい微笑ましいエピソードである。大爆笑するいまは亡き両親を尻目に、私は妹のこの勘違いに笑えなかったことをよく覚えている。それは3年前、自分がピンク・レディーの歌詞を理解できなかったのと同じ構造だったからだ。
ただあのときと違うのは、その頃の私はもう、文脈概念を獲得していたことである。妹は「男がいて女がいて ゴリラがいるの」とは歌っていたが、その後の「あなたがいて私がいて キスができるの」は正しく歌っていたのである。なぜ「あなた」と「私」の「キス」の直前に「ゴリラ」が出得るのか。この疑問についてあれこれ考える程度には、私も成長していたわけである。どう考えてもこの文脈に「ゴリラ」は邪魔だ。幼いということは、文脈を読み取れないということである。当時、そう結論づける自分がいた。ちょうど私が10歳の冬に「羊の顔した狼」を文脈から読み取れなかったように。
かつて向田邦子は、「荒城の月」の「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして」を「春香炉の花の宴 眠る盃かげさして」と覚えていたと言う。そして晩年に至るまで、自分自身としてはその方がしっくり来ると感じていたらしい。それは客を連れて帰った父親が泥酔の後に盃の横で眠り込む姿と呼応しているとのこと。また、来客のために娘時代の向田邦子がよく香炉の香をたかされたことにもよると言う(『眠る盃』東京新聞・1978年10月9日)。情念の女流作家にして言葉とはこうしたものであることに、私は深い感慨を抱く。
3. 受信者の意図こそが大事?
かつて国語科の授業が「気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」(小森茂/当時の小学校国語教科調査官)と揶揄された時代があった。「ごんぎつね」や「大造じいさんとがん」に15時間とか20時間とかの時数をかけて、ごんや兵十、大造じいさんから残雪の気持ちまで問う授業が展開されていたのだから、その揶揄も理解できなくはない。「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」る旨が教育課程審議会から発表された頃(1998年11月)のことである。当時三十そこそこであった私も、プラグマティックな国語にしなければだめだ、これからは言語教育としての立場を一層先鋭化させるべきだと考えていた。それが2002年の学習指導要領改定に繋がっていった。所謂「伝え合う力」の学習指導要領、国語科が表現・理解・言語事項の二領域一事項から、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」「言語事項」と三つの活動領域と言語事項とに改変された学習指導要領の改定である。「ゆとり教育」の改定と言えばわかりやすいかもしれない。十年をひと昔とするなら、ほんのふた昔前のことである。
しかし、20年という月日は、国民の言語感覚、特に若者の言語能力を解体するには充分すぎる時間だったといまにして思う。この20年で人々は「文脈」というものを読まなくなった。いや、「文脈」というものがあることにさえ気づかなくなったと言った方がいいかもしれない。思えば、当時の教育界を席巻した「伝え合う力」の国語教育は、子どもの「主体性」の名のもとに「目的に応じた言語活動」を称揚するものであった。自らの目的に応じて話す、自らの目的に応じて書く、自らの目的に応じて読む、というわけだ。いまから振り返ると、この「主体性」と「目的」という言葉が曲者であった。すべての人が尊重されるべきという社会的気運と相俟って、言語活動においても「発信者の意図」よりも「受信者の意図」こそが大事であるという気運を徹底して醸成したのである。言うまでもなく、その結果がX(旧Twitter)を初めとする昨今のSNSの現状である。そこには、「羊の顔していても心の中は狼が牙をむく」と聞いた子が「羊がわからないのはわかるような表現がなされていないからだ」と叫んだり、「男がいて女がいてゴリラがいるの」と勘違いした子があくまで「ゴリラはいるのだ」と言い張ったりするような議論がある。まったくもって無知な子どもの自己主張のようなものだ。
4. 知らず知らずに培われていたのは何?
おそらく2002年の国語科学習指導要領の改定は大失敗であった。この20年間は、「文学的な文章の詳細な読解」ばかりか、いかなる文章をもまともに読むことを忌避する心性をもたらしたように思う。当時の国語改革は「文学的な文章の詳細な読解」の代わりに、「自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力」「目的や場面に応じて適切に表現する能力」「目的に応じて的確に読み取る能力」や「読書に親しむ態度」の育成を重んじたはずだが、この四半世紀で日本人はかつてと比べてそうした能力を高めただろうか。現在のSNSのやりとりは、当時大々的に喧伝された「伝え合う力」が発揮された姿を見せているか。「借り物の考えを自分の考えのように錯覚し、感情的に論破しようとする能力」や「自己都合に応じて自己欺瞞的に表現・理解する能力」がやたらと発揮されるものになってはいまいか。
しかし、それは実は、2002年要領の理念が間違っていたということを意味するわけではない。改定というものはこれまでの悪しき慣習を除き、今後求められる成果を直接的に得ようとするものである。それ自体は正しいことであろう。ただ問題だったのは、大きな改定をするときに、その改定によってこれまでの慣習が知らず知らずのうちに培っていた何かが失われる可能性がないかと考えることを、それを真剣に検討することを怠ったことである。
おそらくあの「文学的文章の詳細な読解」はごんや大造じいさんの心情を読み取るということに名を借りた「文脈を読む」ということに寄与していたのではなかったか。「羊の顔をした狼」や「男と女とゴリラ」は、現在ならそのフレーズや「恋」という概念を知らなかったという「語彙」の問題として片付けられてしまうだろう。要するに「知識」があるかないかという問題である。しかし、あの時代の国語教育で行われた「詳細な読解」は決して「知識」を教えていたのではなかった。スマホもない、タブレットもない、GIGAなどという発想の欠片もない時代である。辞書こそあったものの、各自の机上に置かれていたわけでもない。要するに、「わからないからすぐ調べる」ということができない状況で授業が行われていたのである。とすれば、子どもたちはわからない言葉が出てくると、この文脈から言ってこの言葉はこういう意味なのではないかと想像しながら読み、それをもとに解釈を創造していく営みを強いられていた。それが無意識のうちに子どもたちの「文脈を読む」力を鍛えることに繋がっていたのである。
あの「詳細な読解」は少なくとも人の行動の裏には心情があって理由があるということを教え続けていたのではなかったか。あの「詳細な読解」は少なくとも人の行動や心情は複雑であるということを手を変え品を変えて教え続けていたのではなかったか。あの「詳細な読解」は少なくとも他人の気持ちを安易に決めつけてはならない、想像に想像を重ねなければ理解できない、想像に想像を重ねてさえ理解できない部分が多いということを教え続けていたのではなかったか。
おそらくあれだけ敵視された国語の授業の「文学的な文章の詳細な読解」は、確かに国語科としての言語教育にはほとんど無意味ではあったが、人を「大人」にしていくための、けっこう大きな別の意味をもっていたのではなかろうか。最近の世の中の、特にSNS上のあまりにも単純な単線思考を眺めていると、どうしてもそんな気がしてくるのだ。
日本人が日本人としてまっとうに、まっとうに、というよりも普通に育っていくためには、例えばちょいとひどいいたずらをしたくなる小ぎつねの心情を想像してみることや、猟銃の筒口から出る「青い煙」の象徴性をああでもないこうでもないと2時間議論し続けた結果として「結局結論出なかったね…」とそのもやもやに浸るとか、議論のあとに先生のまとめを聞いて「どうしても納得できない」と食い下がるとかというような経験が必要なのではないか。それが「言霊言語観」への入り口に至るイニシエーションとして機能していたのではないか。
それが目的に応じて情報を読み取るなどということがもてはやされ、レポートを書くためにこの文章を読むだの、プレゼン作成の資料として複数の資料を比較して読むだのばかりするようになって、完全に「道具言語観」に堕してしまった。いまでは言語が道具であることを疑う若者を見つける方が難しくなってきている。言語が道具であるとすれば、その道具を用いる発話者は「動かない人」「変わらない人」、即ち「完成された人」ということになってしまう。つまり、自らの「主体性」のみを発揮し、自らの狭い「目的」だけに応じて他者の表現を曲解することさえ許されるという感覚に堕してしまうのだ。いや、多くの人たちは自分が曲解していることにさえ気づかない有様にまで堕してしまった。
結果、X(旧Twitter)の140字程度の文章の読解もままならないのに、自分は一端のものだということだけは信じて疑わない、ひどくバランスの悪い人間ばかりになってしまった。そう感じられてならない。
5. ディテールに配慮できる?
連載の最初ではあるが、ごく簡単な例を挙げてみよう。
かつて教育出版教科書の中学1年に「動物の睡眠と暮らし」(加藤由子)という教材があった。そこに次のような段落がある。
動物の睡眠量を左右する大きな要因は、えさを食べるのに要する時間だといえる。草食動物と肉食動物の睡眠量を比較してみると、それがよくわかる。
この第二文の指示語「それ」の指示内容が国語のテストで問われたとしよう。字数指定は「40字以内」である。読者諸氏もちょっとだけ後を読むのを休んで、この問いの解答を考えてみて欲しい。
この解答として、次のように答えた読者はいないだろうか。
動物の睡眠量を左右する大きな要因は、えさを食べるのに要する時間だということ
(37字)
この解答には二つの問題がある。
一つは、主語「動物の睡眠量を左右する大きな要因は」(正確には主部)の助詞の問題である。例えば、次の文を例に考えてみよう。
堀くんは昨日公園に行った。
この文を指示語の指示内容として抜き出し、文末に「こと」をつけるとする。すると、
堀くんは昨日公園に行ったこと
となるわけだが、この文に違和感を抱かないだろうか。違和感は次のように助詞を一つだけいじれば消えるはずだ。
堀くんが昨日公園に行ったこと
ここでは詳しく語らないが、文末に「こと」をつけることによって、文の強調が主語から述語(或いは文全体)へと移るのだ。従って主語から強調の意味合いを消さなくては違和感のある文になってしまうのである。つまり、強調の意味をもつ「は」(副助詞)を強調の意味のない「が」(格助詞)に置き換える必要が出てくるわけだ。
先ほどの長い文でもこの原理は同じだ。従って、
動物の睡眠量を左右する大きな要因が、えさを食べるのに要する時間だということ
に書き換えなくてはならない。これが一つ目の問題である。
二つ目の問題は、筆者が「えさを食べるのに要する時間だといえる」と述べているにもかかわらず、「えさを食べるのに要する時間だということ」と書き換えてしまっても構わないか、という問題だ。「~といえる」には、私の感覚では「細かく見ると他にも説があるが、一般的にはこれが妥当だ」というニュアンスがある。しかし、「~ということ」という文末はそれで決まりという断定のニュアンスがある。要するに、筆者が「~といえる」と言っているものを「~ということ」と書き換えるということには、筆者が意図的につくったニュアンスを読者(=問題解答者)が勝手に「断定」に書き換えるということが行われているわけだ。つまり、こうした細かなところにも、「発信者の意図」を超えて「受信者」が勝手な主体性を発揮して改竄するという構造が見えるのである。
おそらくこの問いの解答は、
動物の睡眠量を左右する大きな要因が、えさを食べるのに要する時間だといえること
(38字)
が正しい。こうした「発信者の意図」を最大限に尊重しつつ文章に対峙するという構え、筆者が施したディテールにまで配慮して言語操作しようとする意識、これが「文脈を読む」ということなのである。自らの目的に応じて情報を活用しようとするのはこれができてからの話である。誤解を怖れずに言うなら、発信者の意図を文脈から読もうとする構えをもたぬ者には、実は発信する資格がないのだ。
国語学力においては、表現活動にしても理解活動にしても、ディテールにこだわれる人ほど学力が高いと言える。「文脈を読む」という訓練は、単なる語彙の問題、知識レベルの問題を超えて、どこまでディテールに配慮できるかという構えをつくることに資する。
※ この連載は原則として月に1回公開予定です。次回もお楽しみに。
【堀 裕嗣 プロフィール】
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ビラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理・100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。
写真/西村智晴
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