学級目標は本当に必要? その言葉が持つ曖昧さと危うさを考えてみませんか?

みなさんの学級には、「学級目標」がありますか? 新学期の始まりに最初の学級会などで決めることが多いのではないかと思います。しかし、それは一体何のために行っているのでしょうか? 学校現場には、私たち教員が日々、何の疑いも持たずに実践していることや、当たり前だと思っていることが数多く存在します。これを筆者は「学校に存在する特有の磁場」と呼んでいます。教室に当たり前のように掲げられる「学級目標」も、この磁場によって長年続けられているものではないでしょうか?
今回は、その存在意義について改めて考察してみたいと思います。
【連載】学校の「当たり前」を問い直す のびのび教員論 #5
執筆/神戸市立小学校教諭 森脇正博
学級目標、それは「魔法の言葉」?
学級目標を掲げるという行為は、新学期が始まるとまず最初に行われるお決まりの儀式でしょう。
どの教室でも「協力し合い助け合えるクラス」「元気に挨拶できるクラス」など、心温まるメッセージが堂々と掲示され、教員も子どもたちも、その目標に向かって歩むべき道が照らされたように感じます。
しかし、この「学級目標」に記された言葉は、果たして本当にクラス全体を導いているのでしょうか?言い換えるならば、私たち教員は、目標を掲げることで安心感を得ているだけで、実際にその効果や目的を深く考えることなく、ただ「当たり前」として受け入れてしまっているのではないでしょうか。目標を掲げること自体が目的化してしまい、その背後にある本来の学びや成長が見過ごされていることはないでしょうか。
「目標を達成する」とは一体?
「学級目標を達成しよう!」という言葉を、学校現場ではよく耳にします。教室に掲げられた学級目標は、児童たちの行動や学級の方向性を定めるものとして扱われ、教員も児童もその目標に向かって日々を過ごします。しかし、その「達成」とは具体的に何を意味しているのでしょうか?
あなたは、明確に答えることができますか?
まず、「協力し合おう」や「元気に挨拶しよう」といった抽象的な学級目標は、達成の基準が曖昧です。「協力」がどの程度できれば達成とみなされるのか。「元気な挨拶」とは具体的にどのような挨拶なのか。一部の児童が協力的であれば達成とみなすのか、それとも全員が同じレベルで協力する必要があるのか。
こうした抽象的な学級目標は、児童の中に「達成した」という感覚があったとしても、数値などの客観性をもって評価できないため、日常の中で形骸化してしまうことがよくあります。掲示された目標が徐々に忘れ去られ、クラスの一部がしっかり従うだけで、多くの児童は形だけのものとして扱うようになります。
このことは、学校目標にも通じます。「21世紀にふさわしいリーダーを育成する」という学校目標があっても、その具体的な行動や成果をどう評価すればよいのか。リーダーシップは多様な形で表れますが、その評価基準は曖昧なままです。
さらに、目標を掲げることで「何かを成し遂げた」という感覚に陥りやすい点も指摘できるでしょう。目標を立てた時点で、その目標に向かって進んでいるという安心感が得られ、結果として「目標に向かって努力している」という錯覚に囚われることがあります。しかし、具体的な行動が伴わず、目標が形骸化してしまうことも少なくありません。形だけの目標に依存し、目標達成のためのフィードバックや具体的な努力が不十分になることは日常茶飯ではないでしょうか。
このように、学級目標や学校目標の存在には一定の意義がありますが、その「達成」をどう評価するかという問題に向き合わなければ、目標は形式的なものにとどまり、真の効果を発揮できません。目標に囚われるのではなく、「なぜその目標を立てるのか」「どう達成するのか」という問いに立ち戻り、実践を見直すことが大切です。