「子供たちのために何かできないか」という初心に返る 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第32回】

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授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

今回からは、沖縄県で算数を中心に授業改善に取り組み、前任校では授業改善アドバイザーを務め、現在は浦添市教育研究所の運営委員も務める美里将寿主幹教諭が、教師を志し、講師として教師の楽しさや苦労を知った、ごく若手の頃までの話を紹介していきます。

美里将寿主幹教諭

「今は自信をなくしているだけで、やっぱり子供たちの力になりたい」

私は高校時代に進路を決めるときには、特に教員を目指していたわけではありませんでした。親は県の職員をしており、「経済的に安定しているから公務員になれ」と言われていたのですが、それに対する反発心もあって、素直に「じゃあ、公務員(教員)になろう」とは思えなかったのです。その気持ちが変わって、「教員になろう」と思うようになったのは、受験に失敗した後のことです。

受験がうまくいかず、「自分はついていない」などとも思っていましたが、よくよく自分の環境を顧みると、本当に恵まれているなと思いました。苦労せず、浪人をさせてもらっているわけで、周囲には苦労して浪人をしている人もいれば、経済的な理由で大学進学を諦めて働いている人もいるわけです。もちろん、家庭環境に恵まれず、もっと小さい頃から苦労している子供もいます。それで、「子供たちのために何かできないか」「力になれるような仕事につきたい」と思うようになり、小学校教員養成課程のある大学に行こうと考えました。とにかく、子供たちの成長を手助けできるようになろうと思ったのです。

「子供たちの成長を手助けしたい」と、教職を選んだ美里先生。今でも授業のために教室に入るだけで、嬉しそうな笑顔が溢れる。

それで、地元大学の教育学部を受験して入学したのですが、先のような理由で教員を目指したため、「特にこの教科を!」というような教科への思い入れがありませんでした。ですから、専門は教育学を選び、入学後もとにかく教員になるために単位を取ればいいという、のんきな感じだったのです。ただ、3年でゼミを選んでからは、子供たちと関わる機会も増えました。社会教育のゼミに入ったのですが、そのゼミの教授が私たち学生を連れて、地域の子供向けにキャンプを実施したり、レクリエーションを実施したりするなど、多様なフィールドワークをしていたのです。公民館などで行われるイベントの実習を通じて、子供たちと多様に関わる機会をもてましたし、私の母親が宮古島の隣の伊良部島の出身で、その母の地元の公民館での実習で、学童のキャンプのお手伝いをするような経験もしました。それで、改めて子供たちと関わることの楽しさや大切さを感じるようになったのです。

その気持ちをもって、3年次には教育実習にも行ったのですが、その経験はひと言で言えば、挫折でした。附属小学校へ行って授業をするのですが、1クラスに7名の実習生がいて、協力しながら一緒に取り組むわけです。指導案も協力して作るわけですが、力不足で睡眠を削って夜中まで指導案を書くこともありました。そうやって一生懸命に考えて授業をやっても、全然思うような授業にはならなくて、子供も乗ってきてくれないので、「教員に向いていないのではないだろうか」と思うようになったのです。

それで大学卒業後は、社会教育ゼミの教授のつながりもあり、那覇市教育委員会の関係機関の青少年健全育成市民会議で事務職として働きました。友達の中には小学校の講師をやりながら、次年度の受験をする者も少なくなかったのですが、教育実習時のこともあり、すぐに教員(講師)として学校で仕事をする自信もなくて、社会教育施設の臨時の事務職員として働かせていただくことにしたのです。そこで、少年の船事業の企画だったり、成人式の企画運営に携わったりしながら1年間過ごしました。この年、社会教育の仕事を通して多様な人と関わりながら、改めて「自分は何をしたいんだろう」と考え直したら、「今は自信をなくしているだけで、やっぱり子供たちの力になりたい」と思ったのです。そこで翌年は、小学校で臨時講師をしながら教員採用試験を受けようと決めました。

学級崩壊したクラスを管理しようとしてしまっていた

那覇市の臨時講師として3年生の担任をしたのが、教師としての最初の仕事です。私は「大丈夫だろうか」と、すごく心配してスタートしたのですが、子供たちとは話をしながらうまく人間関係が築けましたし、特に学級経営で苦労することもありませんでした。もちろん、仕事は大変でしたが、授業は先輩方から教えてもらいながら、何とかやっていくことができました。その学校には男性の先生が少なかったこともあり、力仕事などで頼りにされましたし、単純な体力仕事でも頼りにされると嬉しいもので、何となく自信ももてるようになって、「自分でも小学校の先生ができるな」と思っていったのです。

周囲の先生方との関係も良好でしたし、優しい方ばかりで経験不足の私に自信をもたせてくださいました。家庭訪問のときには、「自分の強みを出していくんだよ」と言われ、アドバイス通りに「教員は初めてですが、若くてフットワークが軽いので、何かあったら言ってください」と経験不足を補う若さをアピールし、保護者との関係もうまくつくれたので、特に困ることもなく1年間を過ごすことができました。ただし、教員採用試験はうまくいかなかったのです。

学校との関係はよく、「あなたは力があるから来年度もやってほしい」と言われ、翌年は5年生を担任したのですが、体育主任を任されました。学校から頼りにしてもらえてとても嬉しかったですし、子供たちとの関係も良好で、多少の行き違いがあっても解決できないということはなかったので、すっかり「自分は教員に向いている」と自信をもつようになりました。ただし、日々の仕事に追われて、この年の採用試験もうまくいきませんでした。

そこで、翌年度は仕事をしながらの片手間の勉強ではなく、採用試験が終わるまでの半年はしっかり試験勉強をしようと思い、夏休みが終わるまでは勉強に専念して採用試験を受け、1次試験に合格しました。その後、9月から改めて別の学校の4年生の担任として講師になったのですが、このときにとても苦労をしました。教育委員会から、講師としての勤務校(学級)を紹介していただいたのですが、「この学級は学級崩壊をしてしまった学級で、人材を探しているのだけれど、先生は前任校で2年間経験があるし、力もあるようなのでお願いしたい」と言われたのです。前任校ではうまくいった経験ばかりで、どこか天狗になっていたところがあったのだと思います。自分は、全然大丈夫だと思ってそのお話を受け、担任になったのですが、伸びた鼻をへし折られるような経験ばかりでした。

特に学級経営については、うまくいきませんでした。1、2年目にやっていたように「子供たちと話をしながら人間関係をつくっていこう」と思っていたつもりだったのですが、後から考えると、学級崩壊をしたクラスということもあって、「ちゃんとしなければ」と思い、管理しようとしてしまっていたのだと思います。今、思うと発達障害だろうなと思うような子も複数いて、授業中に立ち歩いたり騒いだりする。それで注意をすると、教室を飛び出したりするわけです。

担任していないクラスでの授業後、美里先生の周りに集まってきた子供たちを記念撮影。若手のときに学級経営で苦労したというのが嘘のように思える。

今ならそんな子供たちの特性も個性として受け止め、彼らなりのわずかな変化も見とって評価できると思うのですが、そのときは、自分の理想にハマらない子供たちをちゃんとさせようとして悩んでいたのだと思います。周囲の先生方からは、「先生が来られてから、少し落ち着いてきましたよ」と慰められましたが、私自身はすっかり自信をなくして、2次試験の合格通知が来たときも、「本当にできるのだろうか」と少し複雑な気持ちでした。

しかし、このときの苦労はいい経験だったと思います。この失敗があったからこそ翌年、本採用された1年目に、改めて「子供たちのために何かできないか」という、教師を志したときの初心に返ってスタートができました。それで、多様な家庭環境の子供の事実や気持ちを受け止め、しっかり子供たちとコミュニケーションをとりながら、学級づくりをすることを大切にしたのです。

今回は美里先生が、教師を志し、講師時代に成功と失敗を体験した話を紹介しました。次回は、いくつかの出会いを通し、算数の授業改善に取り組んでいった経緯を紹介します。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、11月10日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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