「授業」と「授業の外」の充実(上) ー目の先のことより、その先のことをー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第48回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「授業」と「授業の外」の充実(上) ー目の先のことより、その先のことをー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第48回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第48回は、【「授業」と「授業の外」の充実(上) ー目の先のことより、その先のことをー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 授業の「脱線」の功罪

大方の古いことは忘れてしまっているのだが、格別重要な訳ではないのに心に残っていてふとした拍子に繰り返し思い出されてくる些事がある。なぜなのかは分からない。恐らくそのことが自分のフィーリングや考え方や性格、性分というようなものと何らかの共通点があるからなのだろう。

高校生の折に、隣のクラスの担任が若くて、いつもにこやかな表情をしていたので少し羨(うらや)ましくなり、「若い先生でいいなあ」と言ったことがあった。ところが、そのクラスの友達は「そうでもないよ」と否定した。理由を問うと、「いつでも、すぐに授業に入るんだよ。授業の話しかしないんだよ。だから、何だか面白くないんだよなあ」と答えたのだった。思いがけない答えだったが、「そういう評価はあるかもしれないなあ」と妙に共感したような気分だった。私の共感した部分は、担任の人柄に対してではなく、「授業の話しかしない」のでは「何だか面白くないんだよなあ」という友達の受けとめ方に対してだった。

あれから70年近くも経っているというのに、あの場面がひょいと浮かんでくるのだ。思い浮かんでくると、懐かしさと同時にいつでも「それはそうだろうなあ。無理もないなあ」という思いになる。「授業」が先生の本務なのだから、「授業の話しかしない」でいい訳なのだが、この問題は案外簡単に考えてはいけないことなのかもしれないと思うようになった。

授業中に「脱線」と称して、先生が授業の本筋から離れた方向に話を進めてしまうことがある。その場合、脱線してしまった話の方が面白くて、心がそっちの方に靡いてしまうということもよくあった。しばしば脱線する先生の方が授業の人気が高かったりもした。脱線した話が低俗、野卑であれば真面目な生徒は怒り出すかもしれないが、反対に機智に富み、それなりの品のあるユーモアがあったりする場合には生徒も楽しめる。

脱線しても生徒や学生や子供からそれなりの満足と喜びを以て迎えられるような教師は、なかなかの力の持ち主だと言えよう。雑学などという言葉もあるが、本務外の多くのことについても話せるというのは、その教師が人間としてある種の厚みや重みを備えている証拠とも言える。

イラスト48

2 雨天時の「お話」の楽しみ

私が小学生の頃には体育館はなかった。体育館の代わりに講堂があった。講堂というのは「儀式または訓話・講演などをするための建物または部屋」である。そこで体操の授業をすることもあったが、それは本来の姿ではないので、雨が降れば体操の授業は中止になるのが普通だった。

そんな折には担任の先生はよく「お話」をしてくれたものだった。「お話」は、昔話だったり、先生が子供の頃の話だったり、先生の家の話だったりしたが、そのどれもが、その先生からしか聞けない話だったので面白く、体操のある日に雨が降るのを楽しみにしている子供もいたくらいだった。昔の先生は、「授業以外の話」をいっぱい知っていたし、話してもくれるゆとりもあった。

そして「その先生からしか聞けない話」には、その先生の人柄や好みや苦手のことや食べ物の好き嫌いなどが滲み出ていた。そんなことから子供たちは先生への親しみや気安さを育てもしたものだった。

私の子供の頃というのは4年生までが戦時下であり、4年生の8月以降は敗戦下ということになる。いずれも、日本が最も苦難の中にあった暗い時代と言えるだろう。

だが、子供たちも暗かったかというと、必ずしもそうとばかりは言えない。それなりの楽しみも、笑いも、競争も、勝負も、努力も、幸せもその時なりにあったのだ。子供の世界は、いつの時代でも子供の世界として健康に存在していたのである。

戦時下の親も、先生も、親であり続けようとしていたし、先生であり続けようとしていたと思う。優しさもあり、厳しさもあり、温かさもあり、冷たさもあった。今と大きく変わる訳ではない。だから、その頃のことを思い出してみると、今の子供に負けない楽しみも喜びもあった時代だったとさえ思われるのだ。

3 「授業の外」の楽しみと重み

千葉大学が私の母校であり、中学校課程の国語科専攻生は17人であった。主任教授は荒井栄先生。もともとは漢文学専攻の方だったが国語教育の担当となってからは、専ら意味論に没頭され、高著『言語の意味機能』(法政大学出版局刊)は、ユネスコ協会の推薦学術図書にもなったと聞く。

その主任教授荒井先生は丸刈りの頭髪で、純朴な印象を与えていた。仇名は朴さんだった。酒好きな先生で我々同期は先生を囲んで実によく酒を飲んだ。先生は茨城県の出身で、同郷の女性の「水郷」という小料理屋の常客であった。

荒井先生の意味論の講義は何を言っているのかほとんど分からなかったが、酒席でくつろいだ話はよく分かり、まことに楽しかった。我々は飲み会には必ず先生を誘い、先生も楽しみにされていたので、先生も我々同期を甚(いた)く可愛がり、親しまれた。だから我々は必ず先生を招くのだが、一度たりとも先生に出費をさせたことはない。学生は皆貧しかったが、必ず先生の分は割り勘で我々が負担をした。それが当然の時代であった。今はその美風はなさそうである。

卒業をしてそれぞれの職場に離れたが、年に一、二度は先生を囲む会を続けていた。無論のこと先生は必ず出席されて楽しいひとときを共にしていたのだが、先生が他界された後はしばらく、誰も集まろうと言い出す者がなく、数年は我々の仲間の会は途絶えたままだった。

さて、この思い出を通して私が伝えたかったのは、「授業の外」でのやりとり、楽しみというものの大切さ、重さである。

荒井先生は酒席になると趣味とされていた短歌の話、御自分の学生時代のこと、師範学校から大学に格上げされていった頃のエピソード、旅の思い出などなどお好きな酒をちびりちびりと嗜まれながら、話された。我々も砕けて茶利を入れたりしながら歓談、談笑を楽しんだ。先生の総入れ歯のカタカタする音と共に今でも懐かしく思い出される。

飲み会から分かったこと、楽しんだことは、学生時代の学びの大きな実りだったと思われる。大学4年間の中からあの酒席をすっぽり抜いてしまって、分かりにくい意味論を退屈に耐えつつ聞くだけだったとしたら、我々の大学生活はさぞや味気ないものになったことだろうと思う。

教育というものは、結局のところ、人間と人間とが、肩の力を抜いた関わりの中からこそ本物の実りを生むものなのではないかとも思えてくる。

有島武郎の名作『一房の葡萄』に登場する「大好きな若い女の先生」の言葉と行動の美しいありようは、「授業の外」の「教育力」の巨きさを無言で語ってくれている。

壺井栄の、これも不朽の名作『二十四の瞳』の「女先生」の日々のありようの優しさと愛の大きさは、読む者の涙を誘わずにはおかない。両作とも教育の金字塔だ。

授業は大切であり、その授業を充実することが教師の本来の務めであることは改めて言うまでもなく自明だ。だが、そして現下の教育出版の大方が「授業法」に向けられているようだが、何か、大きなものが欠落してはいないだろうかという思いも感じられるのだがどうであろう。

4 教師の「観」を磨き、高める

中学校国語科教育の専攻生は書道の単位がいくつか必修になっていたのだが、生意気だった私は書道科の免許を取る訳ではないからと、最低限の授業数を最低評価の成績で擦り抜けて卒業した。折しも超就職難の時代で中学校や高校の国語科教員の採用はほとんど絶無との状況下、止むを得ず小学校の免許も取らざるを得なくなった。音楽、図工、体育いずれも全くの苦手、無能に近い私は困り果てたが、結果的には小学校に赴任し、5年生の担任となった。

音楽は教えられないので隣のクラスの先生にお願いし、代わりに体育の授業を担当して難を逃れた。困ったのは毛筆書写である。子供の方がうまいくらいの悪筆だった私には教えようがない。教えない方がいい、直さない方がいい、とまで言われて絶句。一念発起して書道の師に入門して丸5年、一から教わって2段までになった。この書道の師、齋藤翠谷先生がすばらしい方だった。文検で中等教員書道科の免許を取られた努力家であり、その師匠は国定の習字手本を日本で最初に揮毫された鈴木翠軒先生である。

私の師齋藤先生は、先ず私の目の前で墨を摩り、淡墨でお手本を染筆された。また、必ずきちんと正座され、名筆の拓本を手本とされて書かれた。その端然とされた揮毫のお姿は、恰(あたか)も真剣を抜いて構えるような気迫があった。私は息を呑む思いだった。

朱を入れて下さりながら呟かれる言葉が、何とも味わい深く心に染みた。私なりにかなり上達したある時、「何の為に来ているか」と問われた。「普通の文字が書けるようになりたいからです」と答えると先生は、「そうか」と頷かれてから「それならば」と改まって、「野口さんの字を捨てて貰わなくてはいけない。あなたの文字を捨てて、手本の字を書いて貰わなくてはいけない」とおっしゃったのだ。私は、冷や汗が出た。

そのつもりで書いているのに、先生の眼には「手本」への対し方が、初心の頃に比べてぞんざい、粗略に映ったのであろう。いつの間にか頭を擡(もた)げた慢心、不遜を私の態度の中に見取られたのであろう。私は、座り直し、両手を突いてその非をお詫びした。有難い、温かい、そして厳しいお言葉であった。先生のお人柄が発した言葉だ。

私の生涯の人生の師はもう一人おいでである。東京帝国大学医学部を出られた内科の名医平田篤資先生だ。敗戦によって満鉄病院から引き揚げて来られ開業医をされた方である。私の初任校のPTA会長をされていた折に、PTAの役員会の席上で大きな声で叱られたのが出合いである。

気づかなかった私の非に、先生の叱責でやっと気づいた私は、夕方先生のお宅に謝罪に伺った。先生は「分かればよい。お茶でも飲んでいきなさい」と言われ、初めて身近な先生にお会いした。先生との茶飲み話は私を虜にした。松下幸之助、高村光太郎、幸田露伴、果てはシュバイツァー、ゲーテという一級の人物の名が事も無げに出てくる。それぞれのエピソードや格言、それらへの先生の所感、感想、批判など、時の経つのも忘れ、とうとう夕飯を御馳走になって家に戻った。以後どれほど参上したことか。

某日、廊下を走る子供の指導に疲れて伺ったところ、「子供は走るものだ。俺なんか頼まれたって走れない。誰も廊下を走らない学校は幽霊の学校だよ」──私は、小さく狭い目先のことにのみ囚われていた眼を大きく開かれた。正に眼から鱗である。

子供に知識や技術を伝える本分は無論大切だが、それらを広く、深く支える哲学、見識、人格こそがもっと重要なのだ。「授業の外」の世界でもまた子供や保護者の心を捉えて感化、影響を与えられるような人間としての力もまた不可欠なのである。

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2021年4/5月号より

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