『和俗童子訓』(貝原益軒 著)に学ぶ(下)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第36回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
『和俗童子訓』(貝原益軒 著)に学ぶ(下)【本音・実感の教育不易論 第36回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第36回は、【『和俗童子訓』(貝原益軒 著)に学ぶ(下)】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


5 子供には義方を教えることから始めよ(承前)

──口語私訳──

子供を教え育てていく上で肝要なのは、専ら「義方の教え」を前提とすることだ。その場しのぎの調子のいいことを言って済ませるようなことをしてはならない。「義方の教え」というのは、常日頃から、物事の正しい筋道、道理を本にして子供のよくない言動を戒めるべきを言う。このような根本、本質に基づく子供の導きをすれば、子供の将来は必ず幸せになる。間違いない。

これに対して、その場しのぎの一時的な取り繕いをして事を済ませようとするのを「姑息」と言う。子供は頑是なく可愛いので、とかく甘やかし、子供が喜ぶような方向に話を向けてその場を収束させようとしがちである。これは、愛に過ぎがちな女性の特に気をつけねばならない点である。このような育て方を続けると、後になって子供の不幸を招くことになりがちなのだ。

子供は、無邪気で可愛い。その素直な時から我がままや自分勝手を許してはならないのだ。可愛さに溺れて甘やかせば、知らず知らずの内に子供の中に「驕(おご)り」や「自己中心」の心が芽生えてしまう。それでは、その子供本人にとって決して良い将来にはならない。それをよくよく知るべきである。(原文p.211)

──管見、私論──

ここに出てくる「義方」という言葉は日常ではほとんど出合わない。『新漢語林』では

「正しい方向に向かう道の意で、道徳に関する、家庭での教訓をいう」

とある。「義方を教えることから始めよ」というのは、現象的な解決や打開ではなく、まず原理、原則、公理を教えることから始めよ、という趣意であろう。

子供が望ましくない行動をしてしまった時には、世の中のルール、人としてのあり方に従って、その場で本物の正義を教えよということである。望ましくない言動に至った状況や理由は、どんな場合でもいろいろとあるものだ。だが、その言動自体が望ましくないのであれば、正しいあり方を毅然たる態度で教えなければならない。

状況や理由を聞き、話し合っている内に、だんだん子供の言い分に引きずられ、「無理もない」「仕方がなかった」という形でうやむやな対応になりがちだ。そうなると、大切な反省や悔悟を、自分本位の言い訳や言い逃れに転化してしまうことになりかねないからである。「ならぬことはならぬものです」という会津の藩校日新館の教えに学ぶべきである。

そのような教えは「いとけなき時より」するのが肝要であり、幼い時に甘やかせばとかくいい気になって不遜、高慢の気質を育ててしまうことになる。そのようにして長じた子供の再教育はかなり困難なのだ。

私は幸いに幼い頃から父によって厳しい教育を受けたので、今は文字通り「是必〈ず〉後の福(さいわい)となる」状況にある。父は、自分中心の「言い訳」や「口答え」を決して許さなかった。「はい、と言え」と求めた。その時には悲しい思いもするが、後で考えれば父の言うことがよく分かる。

私の「あしき事をいましむる」時の父は厳しく、問答無用のようなところもあったが、日常の父は子煩悩であり、よく私を可愛がってくれた。父の教育のお蔭で今日の私があるのだと、心から泉下の父に感謝している。

現代の子育ての大きな傾向として「叱るな」ということ、「ほめて育てよ」ということがある。私はこの傾向に対して疑問を抱いている。「叱ると子供の心が傷つく」「叱ると子供が自信をなくす」というようなことが言われるのだが、本当にそうだろうか。

そもそも「心が傷つく」ということが「義方」に反している。子供には気づけないが、親や教師から見れば看過できない事態なのだから「いましむる」のである。子供は素直にそれを受け入れ、自らを省み、改めることによって良い方向に向かっていくのである。「傷つく」どころか、感謝するのが本来の子供のあり方なのである。「自信をなくす」という考え方も間違いだ。大人から見れば見過ごし難いことを指摘されて失うような自信なら、それは本物の自信ではない。それは単なる我がままであり、慢心である。「はやく気ずいをおさへて、私欲をゆるすべからず」と益軒は述べているが、まったくその通りだ。──と私は思うのだが、いかがであろうか。

イラスト36

6 子供の好み・学びに、基準あらしめること

(原文)
いとけなき時より、必〈ず〉まづ、其このむわざをゑらぶべし。このむ所、尤〈も〉大事也。婬欲(よく)のたはふれをこのみ、淫楽(いんがく)などをこのむ事、又、ついえ多きあそびを、まづはや〈早〉くいましむべし。これをこのめば、其心必〈ず〉放逸(ほういつ)になる。いとけなきよりこのめば、そのこころぐせ〈心癖〉となり、一生、其このみやまざるものなり。いかにいとけなくして、いまだ心にわきまへなくとも、又、富貴の家にむまれ、万(よろず)の事、心にかなへりとも、道にそむき、人に害(がい)あり。物をくるしめ、財をついやすたはぶ〈戯〉れ、あそびの、はかなきわざをば、せざる理(ことわり)なり。と云(いい)きかせ、さとらしめて、なさしむべからず。(以下略、巻之一)

──口語私訳──

幼い時から、必ず子供が好き好むことがらを親は観察すべきである。何を好むか、ということは非常に大事なことなのだ。

みだらなことに興味を持って面白がったり、下品な言葉や歌を好んだり、また、お金のかかるような遊びをしたがったりすることは、幼い時からやめさせ、改めねばならない。それを怠って子供まかせにしておくと、やがて長じて必ず緊まりのない我がまま者になってしまうだろう。

というのは、小さい時から好き勝手なことをさせておくと、いつの間にかそういう興味関心がその人の心の癖になってしまい、生涯そういう興味から抜け出せなくなってしまうからなのだ。

どんなに子供が幼く、弁(わきま)えもない年頃だからと言っても、また、立派な家柄やお金持ちの家に生まれて、万事子供の好きなことができる立場にあったとしても、子供の好みにまかせていたのでは、人間としてのあり方に背き、とかく世間に害を与えるようなことになってしまう。

生命あるものを苦しめたり、お金の無駄遣いになる遊びをしたりするのは、実に下らないことなのだ。そういうことをきちんと教え訓し、価値のないことにうつつをぬかすようなことはせぬように導かなければならないのである。(原文p.215)

──管見、私論──

改めてつけ加えなくとも論旨は明快で、まことに真っ当な考え方である。人は動物だから「常に動いている」のだが、その「動き、行動」は無闇になされているのではない。必ずそれぞれの必要を満たすべく、目的に合う行動を選択しているのである。その目的が、善であり、利他的であり、誠実なものであればよい。

だが、目先の単なる興味や無益なことであったならば、その「動きや行動」は、有害無益なものに堕する。行動そのものの価値よりは、「何の為の行動か」という「目的」が大切なのだ。親は、価値ある目的の為に行動するようにと常に子供に教え、訓すべきである。子供がそれに素直に従えばその子の人生は大きな価値を生む。世間からも他の人からも愛され、敬され、大切にされて幸せな人生になる。

幼いから、まだ道理が分からないからと、自由気ままに子供の好き勝手をそのまま容認していると、それが当然ということになり、「教え直し」をしようと気づいた頃には、手のつけられない「憎まれっ子」になってしまうのが落ちである。

これらの考えは、観念的机上論ではない。著者貝原益軒は、自ら80年の来し方の見聞、体験を振り返っての実感に支えられた体験的実感論を披瀝しているのである。読者は、襟を正して傾聴すべきであろう。

戦後75年の教育の大きな流れでは、子供の「自主性」「主体性」「個性」を重んじ、大切にそれらを伸ばしていくことが望ましいとされた。益軒が仮に今世に健在であったとしたら何と言うであろうか。恐らく共鳴共感を示すことはないのではないか。

7 人と交わるに温恭の心構えを失わぬように躾けよ

(原文)
志(こころざし)は虚邪(いつわりよこしま)なく、言(ことば)は忠信(まこと)にして偽なく、又、非礼の事、いやしき事をいはず、かたち〈貌〉の威儀(いぎ)をただしくつつしむ事をおしゆべし。又、諸人に交(まじわ)るに、温恭(おんきょう)ならしむべし。温恭は、やはら〈柔〉かにうやまふ也。是(これ)善を行なふ始(はじめ)也。心あらきは、温(おん)にあらず。無礼なるは、恭(きょう)にあらず。己(おのれ)を是(ぜ)とし、人を非として、あなどる事を、かたく戒(いまし)むべし。(以下略、巻之一)

──口語私訳──

心にめざすところや自分の人生の目的には噓や邪悪なところがあってはならぬ。そして、それを語る言葉にも噓や飾りはなく誠実そのものでなくてはいけない。また、無礼なこと、失礼なこと、品位に背くようなことも口にしてはいけない。容姿、身なりも慎んで端正を心がけることの大切さも教えねばならぬ。

さらに、人や世間に対しては、温恭ということが肝要である。温恭というのは、いつも平らな心、和らいだ心を持ち、人様を大切に敬う心を忘れず、人と交わるということだ。こういう心がけが、善を行うことのスタートである。

反対に、荒々しい心を持って人と交わるのは「温」ではない。無礼な行動をとるのは「恭」ではない。自分の考えたり、したりしていることは全て正しく、他の人の言うこと、なすことはみんな間違いというような、自己中心的な考え方は厳しく戒め、改めさせなければならない。
(原文p.217)

──管見、私論──

いじめ問題はとうとう条例の制定にまで及んでいるが、一向に解決、解消ということにはなっていない。制度をいくら改めても教育問題の解決には結びつかない。結局のところ、教育の問題は「道徳」教育の充実によってしか解決しない。

これまでに紹介したり、述べたりしてきた益軒の『和俗童子訓』は、要するところ、益軒の道徳教育論である。子供というものは、好きなようにさせておけば、つまり「教育をしなければ」ろくな者にはならないという、当然の真実が益軒の大前提になっている。極端な言い方をすれば、益軒の子供観は性悪説に近い。「温恭」を教えることによって「善を行なふ始」がようやく身につくのである。

現今盛んに言われている「考え、議論する道徳」や「答えが一つではない問題を多様な見方で話し合う」ことが、どれほどの「いじめ解消」に役立つことになるのか、益軒先生に直々に伺ってみたい気がする。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2020年3月号より

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