「従う」という教育の大切さを思う【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第18回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「従う」という教育の大切さを思う【本音・実感の教育不易論 第18回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第18回目は、【「従う」という教育の大切さを思う】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 「修養団」の講習会への参加

公益財団法人「修養団」の主催する「愛と汗の心を育む・みがく講習会」という研修会に参加する機会を得た。正式には、3泊4日を1回とするカリキュラムが組まれているものだが、私の参加したのは1泊2日のやや略式のそれである。神奈川県横浜市にある私立「いのやま幼稚園」の先生方の研修会に仲間入りする形での参加だった。現職の幼稚園職員が3泊4日の研修を連続して受講するのは困難で、1泊2日でできる特別のカリキュラムを組んで貰っての「講習会」である。

因みに「講習」とは「希望者が集まって、一定期間学問・技芸などを学び習うこと」(『明鏡国語辞典』)であり、平たく言えば「研修会」とほぼ同義と言ってよいだろう。

やや略式の1泊2日の「講習会」ではあったが、私なりに十分にその内容を学び、かつ考えさせられることの多かった2日間になった。体験を思い起こしつつ、思ったところ、考えたところを「不易の教育論」の観点から述べてみたい。

会場は「公益財団法人修養団 伊勢青少年研修センター」(三重県伊勢市宇治今在家町153)で、3階建ての立派な建物である。

まず、驚いたのは、講堂兼体育館の外はどの部屋も畳敷きだったことである。当節は料理屋でも居酒屋でも、大方は洋風に椅子式または掘炬燵風になっていて、正座や胡坐の生活には遠のいている。しばらく正座をしていないことに気付いた。

それを十分承知してのことか、開会式の後の第一講は「礼法、作法の実習」で始まった。講話者も、受講者も畳の間に正座である。立位から正座に移るには、左脚を半歩ほど後ろに引いて、左の脚を折ることから始まる。そのまま低くなると右脚を立てた、いわゆる「立て膝」になり、立てた右脚を後ろに引くと正座になる。講師の説明と実演に従って受講者も何度か正座と立位の移行を練習し、次第にスムーズにできるようになる。全ては「無言」である。

続いて座礼の正式な仕方を習う。背を丸めないよう、背筋を伸ばしたまま低頭する。正面から、横からというように受講生に分かり易く説明される。「お願いします」「有難うございました」などの言葉は正座のまま発し、その後で低頭する。頭を下げながら言葉を発することはしない。「先語、後礼」の方式を教わった。

50畳敷きほどの広さの講堂でマイクなどは使わない。正座、静寂、沈黙、注目が当然のように守られている。1講座はざっと50分であり、しびれが切れた折には胡坐も、少し正座を崩すことも許される。正座からの崩し方、崩した姿勢から正座への移行の仕方も教わった。これは初体験であったが、日常と正座とが離れていた故でなかなかスムーズな移行ができず、少し悲しい思いをした。

緊張の中に第一講を終えたが、この間受講生からの自発的、自主的な発言、発話は皆無であり、専ら講師の言に従うのみであったことにある新鮮さを覚えた。

権威としての指導者の言動に、受講者は黙々と、ひたすら従うのみであるが、そのことが生む清々しさのようなものを実感することができた。久しぶりの感懐であった。

イラスト18

2 童心行、静座行

ここで言う「行」とは、「修行」と同義で「悟りを求めて仏の教えを実践すること」(仏教)、あるいは「精神を鍛え、学問、技芸などを修めみがくこと」の意である。「童心行」というのは、「素直な心に立ち返るための学び」、「静座行」とは、「静かに正座し、瞑想することによって本来の自己のあり方に立ち返るための学び」というほどの意味である。

静座は、心を静めて正座すること、あるいは正座して心を静めることである。外界の全ての音を絶ち、眼に映る全てのものを瞑目することによって遮断する。このようなひとときを持つことによって、日常の生活がいかに物や、事や、動きや、音によってめまぐるしく、喧騒の中で進んでいるかということに気付かされる。同時に、孤独の世界に、静かに浸ることの心地よさ、快感、安堵、あるいは大切さ、ということにも気付かされることになった。それは、思いがけないひとつの贅沢な、自分だけの世界に生きられる時間を持てるということでもあった。

「憧れ」を持つことの大切さを子供に伝えようと、当時担任だった6年生の教室の黒板に「憧れ」と板書し、その板書を教室の後ろから、つまり子供の位置から見ようとして振り返った時に、私は「あっ」と驚いた。「憧れ」という文字の成り立ちについて気付いたのだ。何と、「憧」というのは、立心偏に童という文字だったのだ! つまり「あこがれ」というのは、「子供の心」そのものだ、ということである。

子供は、美しいもの、格好いいもの、善なるもの、強いものにいつも憧れている。そこには「邪気がない」。つまり、それを「無邪気」と言う。大人になるにつれて、打算や利害にとらわれて次第に邪気に染まり、利心、私心、欲心が生まれ、童心から遠ざかっていく。

「童心行」とは、「素直な心に立ち返る」ことである。そして、「静座行」とは、「心静かに、自分を見つめ直す」ことである。

北海道教育大学の函館校に赴任して間もなく、「自己対象化」という言葉を教わった。一般に「対象」と言えば、自分の外界を意味するのだが、その「自己自身」を「対象化する」というのが「自己対象化」である。「人の振り見て我が振り直せ」とはよく聞く古諺だが、「人の振り」を見る前に、いや常に「自己対象化」に努めるならば、自ずと自分のあるべき世界に気付くことができる。そこが大切なのだ。童心行も静座行も、つまり行きつくところは同じ境地、同じ目的地なのである。

「考え、議論する道徳」と「主体的・対話的で深い学び」という二つのキーワードが広まり、当然それは良いこと、望ましいこととして受け入れられているのだが、さて、それは本当に望ましいことなのだろうか、とも私は考えてしまう。

「主体的」になる前に、「虚心に」「無心に」なって、価値ある言葉や考えや権威に耳を傾け、目を注ぎ、それらの真義を受容することが大切なのではないか。

「考える」前に、「学ぶ」「教わる」「教えを乞う」謙虚さをこそ教えるべきではないのか。「議論する」その前に、つまり、「自己主張」の前に、「口を閉ざして」まずは、相手の考えの受容に努めるべきではないのか。

次の一節を味読されたい。(抄訳出)

「総親和、総努力、総幸福の明るい世界の実現」を理想に掲げつつ、その容易ならざる道を「道の軍(いくさ)」と言い、それを進めていく過程で駆逐しなければならない第一のものは「自己中心」と自分こそ正しいという「自己主張」だ。

これは、99年の生涯を社会教育に捧げた「修養団」の創立者蓮沼門三氏の言葉である。(『致知』1998年1月号)

蓮沼先生は、「自己中心」と「自己主張」を「駆逐すべきもの」として忌んだのだ。だが、戦後70年の教育は、皮肉なことに結局のところ、この二つを子供に育ててきたのではないか。そして、今もそれに気付くことなく、相変わらず「個性重視」「主体性尊重」「多様性への寛容」という耳当たりのよいキャッチフレーズを広め、結果として世を乱し、子供らを不幸にし、人心を荒廃せしめてはいないか。──とも思えて仕方がないのだが、読者諸賢の批判を戴きたいところである。

3 五十鈴川での夜の禊ぎ(水行)

童心行、静座行に続く、最も伝統的な「水行」は、今回の参加の大きな魅力であった。

夕食は、全員が正座し、合掌し、「天地の恵みと、人々の労苦に感謝致します」と唱和して戴く。心を清めて戴く静かな夕食の味わいは、常よりも美味しく感じられたのは、あるいは当然のことかもしれない。

暫時休息の後に、これからの「水行」の意義、作法についての講話を正座して伺い、期待を高めた。

「五十鈴川清き流れの末汲みて心を洗え秋津島人」が、合掌して唱和する「禊ぎの和歌」である。

水行の準備を整えて、夏の闇の中を流れる五十鈴川に向かったのが8時過ぎである。禊ぎの場所まではざっと歩いて15分。一切の私語を慎み、静寂の中を足音だけが聞こえる。五十鈴川に近づくにつれて闇が深くなり、大空にちりばめられた星の美しさに心を打たれた。

人間の生み出した夜の電灯の明るさによって、星の光は消されているのが日常である。川の流れの音しか耳に入らない川べりの闇は、本来の星空の美しさを惜しみなく見せてくれる。

禊ぎの川べりに整列、瞑目、合掌の後、身支度を整える。男性はまっさらの白褌の裸身、女性は白装束で川に入る。

数歩川に入ると下半身は水の中である。夏のおかげで心地よい冷たさである。立ち止まり、「えいっ、えいっ、えいっ」と大きな声で気合いを入れ、さらに歩みを進める。瀬の音が心なしか高くなったように思える。

首まで浸かって瞑目、合掌し、声高らかに「禊ぎの和歌」を朗詠する。

「五十鈴川清き流れの末汲みて心を洗え秋津島人」、男女一人残らずの声が一つになって、川から天に昇っていく。二度、三度と唱和するうちに、常日頃の俗塵が洗い流されていく清澄な気分に浸されていく。

やがて川から上がり、着替えを闇の川べりで済ませ、再び整然と無言で宿舎に戻る。

禊ぎの後は特別の計らいで懇親会が開かれ、まことに楽しく、満たされた思いで熟睡した。

4 「従う」ことの教育的意義

朝の8時、全員が礼装に改めて伊勢神宮への正式参拝である。正殿への参拝が許されるので正装、礼装ということになるのだが、ことの外の暑さの今年の夏である。老齢の身にはこの礼装参拝の方が身に堪えた。

正殿参拝は、大きな玉砂利の祀場に正座し、二礼、二拍手、一拝をして終わる。さすがに帰り道では上着を脱ぎ、ネクタイを外させて貰い、生き返った思いがした。

さて、今回の「講習会」を通じて私が最も強く考え、学んだことは、「従う」ということの大切さである。

今回の講習は、言ってみれば全ては受け身であり、教示され、教示に従うという学びであった。「話し合う」とか、「議論する」などということは唯の一つもない。

そして、いかに自分が未知、無知、未見の身であることかを知らされ、世界が幾分か広くなったような清々しさを味わった。

教えを受けることの何と楽しいことか。知らないこと、分からないことに気付き、知る喜び、分かるうれしさの体験が何と充実感を生むことか。

それらを実感しつつ、今の教育に欠けている大きな一つに、「従う」ことの価値を教えないことがあるのではないかと思う。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2018年9月号より

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