主体性、自主性、個性重視の功罪 ー明治生まれの父の教育想片ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第17回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
主体性、自主性、個性重視の功罪 ー明治生まれの父の教育想片ー【本音・実感の教育不易論 第17回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第17回目は、【主体性、自主性、個性重視の功罪 ー明治生まれの父の教育想片ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 父の愛を受けて

「出自」という言葉がある。「出どころ。うまれ」と『広辞苑』にある。「出自を明らかにする」などと使われる。人は、出自によってその人生を大きく形づくっていく。

筆者である私も例外ではない。「私事に亘って恐縮ですが──」などとよく言われるが、「私事」こそ、その人の人間形成に影響を与える最たるものとも言えるのではあるまいか。教育のありようを考える時に、自らの出自、家庭、生育歴を抜きにしては語れまい。私事に亘るが、それを通しての人間形成のありようについて改めて考えてみたい。

私の家は、代々婿養子が続いた。私の父は千葉県師範学校を出て、私の出た小学校の訓導として赴任し、縁あって一人娘の野口家に養子として迎えられた。私はその第一子として実に100年ぶりに野口家に生まれた男児である。一家の喜びは大変なものであったが、私は生来病弱で、人力車で往診をする医者を呼ぶ日々が続いたから、家では心配が絶えなかった。とりわけ責任感の強かった父の心痛は大きく、家族には極秘で、密かに名高い易者を訪ねてその要因を問うた。俗に、「寝釈迦」と尊敬されていた近在で高名な易者は、「宅地の東が大きく欠けているだろう」と言った。図星であり、父は大いに驚いた。「そういう家では長男は育たない」と寝釈迦は断言し、「宅地の改造」を促した。男の子が生まれても早逝した例もあったのを思い出した父は、小学校の教員を1年間休職した。そして、私の為に私有地を公道に寄付をして、宅地を東に拡張する大工事に挑んだ。私が4歳、父が31歳の時である。

易者の言が、果たしてどれほどの信頼性があるのか、その科学的根拠の程は私には分からない。だが、父のこの大決意と断行に対して、私は心の底から感謝している。「至誠神に通ず」などと言えば、時代錯誤とも、神がかりとも嗤われそうだが、現に私は82歳の今も健康に恵まれ、全国各地に出かけて先生方との学びを楽しんでいる。それが東宅地の拡張の功か否かは別として、そこまでして私の健康を守ろうとしてくれた父の愛に深い感動を伴って感謝している。父親という存在のありようを身を以て示してくれたものと思う。

さて、100年ぶりの男児として生まれ育った私は、最も強く父によって教育されたという実感がある。父は、大きな期待と責任感の下に私を可愛がり、大事にし、また、厳しくも育ててくれた。その父の教育のお蔭で今日の私がある、と私は確信している。

その私に対する父の教育のあり方を回想しながら、「教育の不易」というテーマを体験的に考察してみたい。いつものことながら、「本音、実感、我がハート」という発言モットーに基づく私見である。

イラスト17

2 不機嫌を許さず

注意されたり、それを守らないと叱られたりということは、子供にとっていくらでもあることだが、それらは、子供にとっては決して嬉しいことではない。そんな時には、とかく子供は不機嫌になったり、膨れっ面をしたりしがちになるが、父はその点に関しては極めて厳格で、それを許さなかった。「何だ、その返事の仕方は!」「何だ! その顔は」と私を責めた。

自分の非を素直に認め、父の叱責を受容し、反省し、改めるという、子供としての真っ当なあり方、態度を父は強く求めた。それにもなお私が従わない時には、私の自分本位の我儘に父は容赦しなかった。時に鉄拳を振るうことさえもあった。それによって私は、絶対に父に逆らうことはしなくなった。「言葉で言って分からない時には、痛い目にあわせてでも分からせる」というところがあった。「ならぬことはならぬ」を父は貫いた。

叱られたりすれば食欲などなくなる。そんな時「食べたくない」などと私が言えば、「泣きながらでも食え」と父は言った。自分本位の不機嫌、個人的な不快を以て、他の人にまでそれを及ぼすことを許さなかった。「お天気屋は駄目だ」とよく言った。そう言う父は、ほとんど不機嫌という表情を見せなかった。叱る時に怖いのはむろんだが、それが済めば元の平常心に戻った。優しく、明るい父が日常であった。

そのように育てられることによって、私は従順で素直な子供にと成長した。それは大人になっても変わることはない。だから臍を曲げるとか、不機嫌な顔をするということは私の日常にはほとんどない。そのことによって、私自身は、おおむね快活であり、素直であり、楽しい日々を過ごせている。また、多くの人に愛される。結局は、私自身が幸せなのである。そのように育ててくれた父に心の底から有難かったと思う。

3 好き嫌いを言うな

私は、供される食べ物の中で、苦手なもの、嫌いなものがない。何を出されてもおいしく、有難く、楽しく、頂戴できる。これも父の教えである。「好き嫌いを言うな。何でもおいしく戴くものだ」とも教わり、それが徹底された。小さい時からそのように躾けられたから、苦手なものを特に強要されて食べさせられたということもない。

供されたものの全てが口に合い、おいしいということは随分幸せなことである。人によると苦手なものを摘まみ出したり、脇へ除けたり、他の人に譲ったりするが、私から見ると気の毒だと思う。

82歳の今も元気で各地を廻っていられるのは、偏りのない食生活のお蔭でもあろうと思っている。厳しく、甘やかされることなく育てられることは、一見、子供にとって辛いことだと思われる向きもあろうけれど、私はそうは思わない。人間の一生は長い。その長い人生の日々を愉快に、幸せに生きる為には、躾けるべきことを正しく躾けるのが、親として大切な務めであろう。私の父は、そのような考えで私を育ててくれたのだと思う。

4 父の好みや人づきあい

何を好み、何を楽しみ、何を嫌い、何を忌むか。それらは人によって違うのは当然だが、いずれもごく自然な日常の断片として現れてくる。子供は、親のそれらの姿を見ながら成長していく。有形、無形の親の影響を受けつつ子供は成長していくのだ。

ああしろ、こうしろという指図や指示はなくとも、ある程度子供は親に似てくるものであるらしい。一口に勝負事と言われる「碁、将棋、麻雀」の類を父は全く嗜まなかった。煙草も口にしなかった。だから、結局私もそういう文化には関心も興味も持たずに育った。無趣味、不器用とも言えるが、当の私はこのことにも感謝している。そういうことに時間を取られることがなかったのは、私のライフスタイルにとって大きなプラスとなったからである。

父は、読書を趣味としていたので、私も幼児からその影響を受けて育った。母の話では、夜中でも眼が覚めると父はよく本を読んでいたそうだ。それは、晩年になっても変わることはなかった。

生涯に亘って父が愛読していたのは『菜根譚』(洪自誠著)であった。その中のいくつかを諳じていて、折に触れては子供らに聞かせることを好んだ。

また、父は生涯に亘って俳句に親しみ、地域の同好の士に呼びかけて「竹声会」という小さな結社をつくり、毎月の俳句会を楽しんでいた。それらは、子供や家族にも影響を与え、父の歿後は、母が結社を継ぎ、今は私が3代目の主宰を務めている。母は今年99歳の超高齢だが、毎月の俳句会を楽しみに出席し、私も妻も同席して楽しむことにしている。会員は20数名、結社歴は30年を超えている。

さて、「教育における不易」という点から、父の家庭教育のあり方について思うところを述べてみたい。

父は、自分が良いと思うことについてはいろいろの人にそれを紹介し、薦めて同好の会員を増やした。そういう積極的な働きかけに対して、父は「善意の強制。価値ある強制」とよく言っていた。成り行きに委せて手を拱いていたのでは何も始まらない。良いことはどんどん紹介し、誘うのは大切なことだと言い、自らそれを実践した。

例えば俳句結社「竹声会」にしても、父が呼びかけ、父が誘い、中にはかなり強引に勧誘をされた人もいる。だが、今になって彼ら、彼女らは、「あのように誘われなかったら今の私はない」と、一様に感謝している。母も、私も、妻も、父の強い薦めに従わされた形だが、今になってみると、それは本当に有難いことだったと思う。

薦められたり、教えられたりすることはその時点では、面倒であり、億劫であり、いわば「大きなおせわ」のようにも思われるのだが、「人には添うて見よ。馬には乗って見よ」という慣用句もあることだし、そういう話には従った方がよいのだと思う。善意の強制は時空を超えて大切である。

5 自分や個を尊重する世相への疑い

松下幸之助は、晩年書を求められるとよく「素直」と染筆したようである。「素直」というのは「自分本位、自分中心」ではなく、「相手本位、相手中心」になることだ。

夏目漱石は晩年「則天去私」の境涯に至り、この語を好んだそうである。この中の「去私」というのは、つまりは「素直」になることである。「私」を去らねば「我」に執着する。「則天」の境地には至れまい。

私の父は「とかく男は傲慢、高慢になって失敗する。女は虚栄心で失敗する」とよく言っていた。「だから、いつも、謙虚であることを忘れるな」ともつけ加えた。これもまた「私」「自己」「我」「自分」を大切にしすぎることへの戒めである。

私が、千葉大学の附属小学校に転じた時も、校長になった時も、大学の教員になった時も、父の言葉は「いい気になるなよ」という戒めの一言であった。「謙虚を忘れるな」ということである。

お蔭ですべての仕事は大過なく、何とか為し終えることができた。今後も自戒しつつ、余生を楽しみたい。

さて、これらのことから改めて戦後70年の教育のありようを思い起こしてみたい。戦後の教育は、ごく大まかに言えば、戦前、戦中の教育の否定の歴史だったと言えよう。それはひとつの「流行」であったとも言える。

端的に言えば、「滅私奉公」型の教育から、「滅公奉私」型の教育への転換だったとも言えるのではないか。

主体性、自主性、自発性、個性が常に大切にされ、人権、生命の尊重が叫ばれ、その帰結として「多様性」の容認が大切だとされるようになった。ここに挙げた熟語を一貫しているのは「個」の重視、「自分」の尊重である。「個である自分を大切に」ということである。これらは松下幸之助の「素直」や、漱石の「去私」とはいわば対極になる。また「善意の強制。価値ある強制」も、子供の「主体性」や「自主性」の尊重とは相容れまい。

そして、現在の世相、社会の現実を見るに、個の尊重が、協力や和を阻み、多様性の重視が混乱を生んでいる。このまま進めば、日本という国家や社会の団結、一致、協力への道は望めないのではあるまいか。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2018年8月号より

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