「科学の見方」と「アートの見方」、日常の光景は見方で変わる!
この連載では、『13歳からのアート思考』著者の末永幸歩先生の取組から、みん教読者の先生に知ってほしいアート思考のエッセンスをお届けしています。今回は、品川学藝高等学校の授業から、そのエッセンスを紹介。さて、身のまわりの疑問について答えを出すときにすることと言えば? スマホで検索ですね。でも、その答えだけが正解とされる世界は、楽しいでしょうか? そんなことを考えながら読んでみてください。
目次
身のまわりの疑問について、「なぜ?」と考えよう
今回紹介するのは、品川学藝高等学校のリベラルアーツコース、高校1年生の授業からのエッセンスです。
このコースの『未来デザイン講座』で末永先生が担当するアート思考の授業では、『自分なりに見る・感じる・考える』をめあてに、毎回の授業において様々な仕方で対象を見る(捉える)体験をします。
全5回のうち第4回目となるこの日のテーマは、『想像しながらみる』。
「身の回りのギモンについて、『なぜ?』と考えよう」という、一見シンプルな課題から、末永先生の授業は始まりました。
「私は、『なんで風が吹くのかな』『なんで水面に景色が反射するのかな』『月はどこから出てくるのかな』という疑問が湧きました。もちろん、だいたいの理由は分かっているけれど、よく考えてみると案外知らないな、と思って。そんな疑問を1人1つずつ挙げてみましょう。タブレットで検索してみてもいいですよ」(末永先生)
班ごとの話合いに入ると、生徒たちからはこんな声が聞こえてきました。
「なんで空は青いんだろう?」
「宇宙ってどれくらい広がってるの?」
「なんで太陽は赤いの? 太陽が赤かったら常に空は赤いはず……」
そしてどの班も、次々と『疑問』についてタブレットで検索し、情報を共有し合っていました。
「(空が青い理由について、検索結果を読み上げながら)大気中には通常小さな微粒子が浮遊しています。その微粒子によって光が散乱されますが、そのとき波長の短い光がより強く散乱されて向きが変えられます。 したがって太陽からの光のうち、波長の短い青い光が散乱されて……あ、太陽はいろんな色でできてるらしい!」
これらの『疑問』について、授業の後半ではまた別のアプローチをすることになります。
「木が風を起こしている」は間違い?
さて、今回のテーマ『想像しながらみる』に沿って鑑賞したアート作品は、『源氏物語絵巻』の中の一つ、『鈴虫』。いわゆる引目鉤鼻(ひきめかぎばな)という描写技法で描かれた大和絵で、登場する人物の顔はどれも同じく、細い線を引いたような目と鼻で表現されています。
この、人物の表情の乏しさが想像の余地を見る者に与え、『鑑賞者が想像力を働かせることのできる作品』として授業に取り上げられました。
「このように、想像を膨らませながらみる、というのはアートならではの『ものの見方』だな、って思っているんです。そういうことを、小さい子供たちってアーティストのように自然と行っているな、というふうに思います。そこで、私の娘との日常での出来事を一つ紹介したいと思います」(末永先生)
そこで登場したのがこちらの写真。
公園の木なのですが、3歳の娘さんは、この木をすごく怖がって公園に行きたがらないのだそう。
よく見ると、真ん中に『目』に見える“うろ(樹洞)”があります。
そして、この木はその枝をこちらに襲いかかるように大きく広げ、ワッサワッサと揺らして風を起こすのです……!
娘さんの瞳に映る木は、なんて怖いのでしょう!
「風が吹くとすごく嫌がるんですよね。私が『気持ちいいよ』って言っても、『もう嫌だ、帰りたい!』って言うんです。聞いてみたら、風が吹く理由が嫌みたい。ふつう、私たちって、風が吹いたから木が揺れる、と思うけれど、娘は木がこうやって『ウワーッ』っと広げた枝を揺らして風を起こしてる、って思ってるから、この木も怖いし、風はちょっと吹いただけでも嫌がるんです。
困ったな、と思って理由を説明していたんですけれど、あまり効果がなくて。でも、そうしているうちに、娘が見ているその見方って、絶対に違うとは言い切れないんじゃないかな、とも思ってきました。私の考え方と娘の考え方が違うだけかな、と。そして、私がいつも使っているのは『科学の見方』、でも、娘がやっていたのは『アートの見方』なんじゃないかな、って思うようになりました。 木が生きていて手を揺らして風を起こしていると想像するのも、アートの見方をした上での一つの解釈の仕方というふうに思います。逆にいうと、ものの見方を変えれば——いつもしている『科学の見方』を『アートの見方』にしてみれば——同じ日常の光景でも全然違ったふうにみえる、ということがあるんじゃないかと思います」(末永先生)
身のまわりの疑問について、“アートの見方で”「なぜ?」と考えよう
そして授業の後半、タブレットから離れて『アートの見方』でもう一度、最初の課題に取り組みました。
「身の回りのギモンについて、『なぜ?』と考えよう。ただし……思い切り非現実的な『想像の答え』をしよう」です!
「みんなのイマジネーション力が問われます。配ったワークシートには、半分の作文用紙を付けました。作文形式でも、ポエムでも、会話形式で台本っぽく書いてみてもいいし、物語っぽく、SFっぽく、昔話っぽく……文体も自由に、想像の答えを文章で書きます。そして、上の空欄に文章に合わせたイメージで絵を描いてほしいと思います」(末永先生)
はじめに『科学の見方』をした身のまわりの疑問について、『アートの見方』をするとどうなったでしょうか……!?
『想像の答え』を一つ紹介します。
「なぜ海は青く、水面は光っているのか」
昔の海は輝きが無く、色がありませんでした。それは神様にとって、見ていて楽しいものではありませんでした。
ある日、神様は良い事を思いつきました。それは、「海にガラスのくつを入れ、雲にふくまれる青を海に付ける」というものでした。神様は思いを込めてステッキをひと振り。すると、今までに見た事がないような美しさを見せてくれました。
神様はニコッと笑い、雲の上から今も海の輝きを見守っています。
今まで見ていた“海の青ときらめき”が、この解釈で一変! 科学の見方では味わえない世界が広がっていました。
授業者としての末永先生の工夫
授業の最後は、『想像の答え』をお互いに鑑賞する時間に移りました。
ここで、末永先生の授業者としての工夫があります。作品は、そのまま机の上に置いて、展示会形式で自由に歩き回りながら見られるようにしています。あえて、プレゼン形式にはしていません。
その理由を、末永先生は次のように話します。
「一つには、一人ずつ発表するプレゼンテーションにするとプレゼン能力自体も問われてしまうからです。それにプラスして内容も問われ、見るポイントが両方になってしまいますよね。プレゼンが得意な人もいれば、内容はじっくり考えたけれど、みんなの前でプレゼンするのは苦手、という人もいます。そして、指導者としても本人としても、どちらに重きを置いたらいいのか迷うと思うんです。この授業の中では、プレゼン能力は問いません。何にフォーカスすべきかと考えたときに、『みんなで見る』という発表の仕方を選ぶようになりました。
もう一つの理由は、自分が表現したものを、何らかの形でほかの人に見てもらうことは必要だと考えているからです。自分が頑張って出した答えを人に見てもらう、って、認めてもらうことだと思うんですよね。だから、(作品を提出して)先生一人が見るのも一つの方法ですが、この形(展示会形式)だと、全員の作品を全員が見ることでそれが実現します。その方が、その場でしかできない授業になるかな、と思っています。また、代表者だけがプレゼンするのと違い、全員、自分が表現したものを人に見てもらい、認めてもらえます」(末永先生)
また、授業中に思うように書けなかった場合について、末永先生は次のように考えています。
「未完成でも、白紙でも、途中経過でいいと思っています。完成した作品を発表する、ということではなくて、これからさらに考える『きっかけ』や、ここまで考えた過程の『痕跡』、と考えているので、完成するしないはどちらでもいいんです。作品ができていなくても、すらすらと書けた人よりもっと考えていたかもしれない。だとすれば、考えた質としては、書けた人と同じかな、と思います。また、同じ白紙でも、まったく取り組んでいない白紙は良くないですが、同じ教室にいて、席に座っていて白紙だったということは、明らかに考えていますよね。その人の中でいろいろなことが起こっているということです」(末永先生)
「答え=科学的な答え」は絶対ではない
この記事を読む方の中にも、理科や算数など、答えが一つの教科で“誤答”をどう扱ったらいいのか、と悩む先生は多くいると思います。でも、今回の授業のようなものの見方を知ることで、先生自身が『アートの見方』で生徒・児童の答えを受け止めることができ、おのずと対応にも変化が生まれるのではないでしょうか。
「“誤答”も見方を変えれば“誤答”ではなくなる、という見方もできるのでは……?」と、授業のあと、末永先生にお話を伺いました。
「そうですね。それは言えると思います。私も今日紹介した“木と風”の話のように、日々、娘から『なんで光が窓から入ってくるの?』『なんで夜が来るの?』などいろいろ聞かれるんです。話すと理解できる子なので、はじめは一つ一つに答えていたのですが、そうすると科学の答えばかり、一問一答のようになってしまうんです。それってちょっと、つまらないですよね。なんでも私が知っていて、あるいはGoogleで調べればそこにある答えで。なので、『なんでかなぁ?』と問いかけてみたら、娘もいろいろ考えるんです。そして出てくる答えはもちろん想像の答えでしかないけれど、そういうものがアートの考え方にも通じると思いました。
この前、寝室の窓から朝日が差し込んで、枕の上に四角く切り取られた光が当たっているのを見た娘が、『光が寝てるみたい。この子はどこから来たの?』と言ったんです。そこで、『どこから来たのかな?』と問いかけてみると、『光が玄関から階段のぼって、とことこって私の枕のところに来て、私のこと好きだから一緒に寝てたのかな』という答えが返ってきました。そういうのも、その想像の仕方で見た一つの世界の見え方だと思うんですよね。こういう見方があってもいいと思います。
科学の見方でスッキリさせようとするのって、歴史的にみてもつい最近のこと。私たちのひいおばあちゃんの代くらいまで遡れば、日常のこういう出来事も『妖怪の仕業だね』とか、そのように理解していたこともたくさんあったはずなんですよね。それがまったくの間違いとは、言えないと思います。
科学探究も、それはそれで面白いですよね。身近な疑問について科学の答えを考えてみようというのは、既に多くの場でされています。しかし、大抵のことは解明されているので、答えに行き着くまでの道はいろいろあっても『たどり着く答えが決まってしまっている』探究。
でも、アートの探究は『なぜ空は青いの?』という一つの疑問についても考えた分だけ答えがどんどん増えてくる、ということが面白いですね。なので、想像を膨らませていくつもの答えにたどり着く『アートの探究』もある、ということを私は伝えたいと思っています」(末永先生)
いかがでしたか?
『科学の答え』は大切だけれど、『アートの答え』もある……そう考えると世界が広がりますね! 普段から子供に質問されたときのためにたくさん努力されている先生も、ときには検索の手を止めて、「なんでかな?」「どうしてだと思う?」と問いかけてみませんか? 教科を越えた想像以上の学びの機会になるかもしれませんね!
取材・撮影・文/本田有紀子
末永幸歩(すえながゆきほ)
武蔵野美術大学造形学部卒、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。東京学芸大学個人研究員、浦和大学こども学部講師、九州大学大学院芸術工学府講師。中学・高校で展開してきた「モノの見方がガラッと変わる」と話題の授業を体験できる「『自分だけの答え』が見つかる 13歳からのアート思考」は19万部を超えるベストセラーとなっている。