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連載『大村はま先生随聞記』―担当編集者が見た最晩年の横顔― #7 編集者・大村はま

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日本の国語教育のパイオニア、大村はまが亡くなってから20年の時が流れた。小学館の『教育技術』誌記者として3年間大村の担当をした記者が、編集者の目から見たこの稀代の教師の素顔を10回にわたって描き出す連載第7回。

執筆/横山英行 (元編集者・「大村はま記念国語教育の会」常任理事)

「先生は旅人ですね。」「そうよ。」

「人生のレイアウト」などと言うと、人は大概キャリア教育とか結婚のことを思い出す。

経済的で、効率的で、消費優先の世の中だから、ある程度は致し方ないが、自分などの世代には、それはいささか味気ないことに感じてしまう。人生にはキャリアも結婚ももちろん大切だが、問題はそれらによって紡ぎ出される彩り、豊かさ、物語、潤い、しあわせ。そういうものに帰すると思われるからだ。

大村はま先生の担当編集者であった時代には、随分と全国への講演旅行に随行した。三年間に、ざっと数えただけでも十数回の旅があったと思うが、そんな時思わず「先生は旅人ですね。」と申し上げたことがある。先生は間髪をいれず、「そうよ。」と1オクターヴくらい上ずった声で応えられたが、この「旅人」というニュアンス、今の人々には理解できるだろうか? 旅もまた「消費」の一形態の、オーバー・ツーリズムの時代の人々に。

ところが、かつて「旅」というのは、「消費物」と言うよりはむしろ「生産」の一つの形であったのだ。例えば芭蕉にとっても、西行にとっても、『更級日記』の作者・菅原孝標女にとっても、はるかな東国から筑紫へと向かう防人にとっても…。一人一人の思いや情念、そして歌心の旺盛な生産の場であったから。

そして日本の「国語」は、まだ学校もなく「教師」というものにまみえることも稀有なその時代に、そこから生まれたのである。

大村はまの「国語」は、一口に言って、こういう生産性の、創作性の国語であった。情報処理とか、正誤判断とか、「読解」「解釈」「鑑賞」中心の戦後の「国語」ではなく、むしろ戦前の作文指導、書き方指導、読み方指導に力点を置いた国語。自己表現、アウトプット主体の国語の戦後版と言って良いような性格を持っていた。それが戦後の民主教育の「話し合い」にも連動していくような国語であった。

さらには出版文化、自己表現文化にも直接関係する言語情報のレイアウト、デザイン、友や社会への伝達力。そうした力がつくよう、常に配慮された国語であったとも言えるだろう。

大村はまの「エディターシップ」

「先生は旅人ですね。」その言葉とともに、もし今先生が生きておられたなら、ぜひとも申し上げたかった一言がある。それは、「先生は編集者ですね。」ということである。

もちろん、偉そうに言うのではない。一つの賛嘆として言うのである。曲がりなりにも編集者の端くれとして言うのである。生前は、とてもそんなことは言えなかったし、また思いつきもしなかったからこそ、今申し上げたいのである。

先生は明らかにエディターとしての資質をお持ちだった。今でいう「エディターシップ」そのものであった。と言うより、先生は国語教育を単なる漢字の読み書き、読解、文法、鑑賞、作文指導……というようには捉えておられず、もっと流動的な“今”に則した、“自分”と“仲間”の今を輝かせる「生きた言語活動」として捉えておられた。昔からあった国語の静的な、受け身の、反復的な、日課的な営みではなく、動的で積極的な、開拓的で発見的な、今に取材し今に向けて発信し続ける、生きる姿勢のようなものとしてとらえておられたのだ。

実際そこでの「国語」は方法や手段ではなかった。「目的」でさえなかった。それは“人間として生きて暮らす”という「言語生活」そのものであったからである。

先生は国語教師というより、まるで編集者のようであった。なぜなら生徒達に(聴講する教師の卵や、研究者に対しても)、日々の学びを編集し、そのことによって自己を編集し、ついには自分の人生をも編集できるように導いておられたから。多少、我田引水的な面はあるかもしれないが、当時編集者であった私には、強くそう感じられたのである。

そんな先生が、ある日こんなことを言われた。

「今、世の中で盛んに言っている“総合”ね、あれは単元よ。」

“総合”とはむろん「総合的な学習」のことであり、単元とは、大村はまの「単元学習」のことである。もちろん私は「総合的な学習」=「単元学習」だなどとは思わない。その後に行われた「総合的な学習」なるものの数々の不備や試行錯誤を見ているから。大村はま担当の教育編集者としても、これには多くの但し書きを付けねばならないと感じている。しかしそれ以上に今改めて思うのは、あの時敢えてこういう発言をされた大村先生の心である。

大村先生は、あの頃の時の流れを見つめておられて、敢えて一つの“方便”として、こうおっしゃったのだと思う。ようやくそこまで追いついてきた日本の言語教育に対して、ご自分の「単元学習」の胸を貸すおつもりで、しかもそう口にした責任上ご自分も現在の教育のまっただ中に参加されるおつもりで、こうおっしゃったのである。 こういうところがまさに、“編集者的”なのである。
時代の動きを見つめ、時代の流れに合わせて言葉で関わりを持ち続ける、大村先生の決して超越的ではない真骨頂なのである。

最適最高の授業のためには、教室内の机の配置、組み合わせ、レイアウトにまで凝った。
最適最高の授業のためには、教室内の机の配置、組み合わせ、レイアウトにまで凝った。

大村先生は、時代ごとの流行語や話し言葉の変遷にも、気むずかしい「てにをは」的なことは一切おっしゃらなかった。言葉が生きて流れているもの、活動ゆえに変遷していくものであることをよくご存知であったから。この意味で先生は、いわゆる学問的なもの、学者的なものとも一線を画しておられた。従って、“教師は研究者であらねばならない”という先生の言葉も、より寛やかな、実践的な意味として捉えなくてはならない。

大村先生は、戦後、肩にかけるポータブル式のテープレコーダーが発売された時に、真っ先にそれを購入されて「録音」や「取材」を試みられた。国語教育でそれを実行されたのは、おそらく先生が草分けではないか。生徒達を連れてNHKに乗り込み、記者達に逆取材を試みられたというのは、多分その頃のことである。

隅田川の花火大会が1978年に復活してほどなく、新聞数紙の花火報道の記事を切り抜いて教材とし、見出しや本文、写真を比較検討するという単元を実践されたのも先生であるし、雑誌の表4(表紙の裏面)にある鉛筆会社数社の広告を比較検討しながら、それを国語の単元に構成されたのも先生である。

先生は毎週末「読書生活通信」を発行されていた。ガリ版を切り謄写版で刷ったものを生徒に手渡すのであるが、それはそういう編集作業、印刷作業を通して、読書を生活の中に位置づけることが大切なのだということを、身をもって示されたのである。

「自らの人生の編集」に結びつく国語

雑誌『暮しの手帖』の創刊者・花森安治がコラムに書いた「よくできた主婦というのは、買い物籠を提げて日暮れの買い出しに出た序にさえ、本屋に立ち寄って、ずうっと本の背表紙だけでも目で追って帰るものだ」という言葉をよく繰り替えされた。それは、読書の尊重はもちろん、本を“編集”して世の中に伝えること、またそれに基づいて“生活”するということの大切さをよく伝えるエピソードであったからだと思う。先生のお母様が羽仁もと子編集による『婦人の友』の付録の家計簿を愛用されていたことも繰り替えし話されたが、ここにもまたことばの“編集”や“発行”と、それを通じた実生活への貢献というつながりが感じられたものだ。

実際先生は、実生活からよく取材された。市井の人々との生きた会話を愛され、それを随想などにも書かれた。ご自宅のあった東京都世田谷区桜新町のフィルム店主との会話、山形のさくらんぼ学会へ出かけられた折のマッサージ師との会話、京都観光の際のご指名のタクシー運転手・竹越さんとの会話。中でも一番好きなのは、「あまい、あま~い、ぶどう」の話。
桜新町のしもた屋風の家の前に棚がしつらえられ、当時はまだ珍しかった巨峰が山ほど積まれていた。そこに、拙いけど可愛らしい、いかにも子どもらしい文字で、「おねえさんのつくった ぶどう あまい、あま~い」と書かれてあったのだと言う。その家の女の子が書いたものだが、姉は長野の葡萄農家に嫁したのだろうと言うのだ。その一コマの切り取り方が、まさに編集者の“取材”の手法なのである。

この大村先生が常に湛えておられた編集者的な雰囲気は、その教え子の中にNIE(新聞を活用した教育)の日本における最大の推進者・羽島知之氏(日本新聞資料協会常任理事)を見出すことでも裏付けられる。氏は大村先生の影響で、中学時代から新聞の収集や編集に夢中になり、学校の運動会の日に「号外」を出してもいいかと大村先生にかけあい、許可されたという人物である。

大村先生は「学習記録」や「個人文集」、「自叙伝」を書かせるといった、“編集”に密接に関係した学習も推進されたが、その際に学年ごとに作られた執筆のフォーマットを見ると、生徒各人が書きやすく執筆の意欲がわくだけではなく、仕上がったものを教師や他の生徒が目にした時にも、鮮やかにその執筆のコンセプトが浮かび上がってくる「レイアウト」の工夫が凝らされていた。それがまたしても編集者的なのである。

図書室に生徒の「個人文集」を積み上げて読みつつ、大村先生はいつも、教え子たちの進む人生のレイアウトまでを考えていた?
図書室に生徒の「個人文集」を積み上げて読みつつ、大村先生はいつも、教え子たちの進む人生のレイアウトまでを考えていた?

しかし、大村先生における「レイアウト」というのは、単なる学習上の“てびき”という役目に終わらない。それはおそらく子ども達一人一人の人生のレイアウト、人生の編集ということにも直結している感がある。大人になった後、一人一人が「個人文集」や「自叙伝」、まして「全集」などを持てないまでも、心の底に、透明なそれらを持てるまでの“ことば”への“てびき”を、先生は国語教室の中で与えられている。

先生の朋友でもあり、全集『大村はま国語教室』の編集者の一人、故・野地潤家先生が、晩年、大村先生の前で、「先生、私は自分の書いた物には皆作品番号を付することにしているんです。中学の頃に書いた物を作品1として、今は4500番台です。」とおっしゃった時、大村先生はたいそう驚かれて、
「そうお。それは立派ですね。なかなかできることではない。」と感心されていた。そのように、先生は教え子の一人一人がことばによって、自分と人への強い関心をもち、深いこだわり、鮮やかな愛をもてるよう、常に導かれていたように思う。

その後「情報編集力」とか「アクティブ・ラーニング」などという言葉が流行したが、そういう言葉さえ面映ゆく感じられるほど、先生の国語における“編集”ということは、言葉で暮らす人間としての、一つの自明であったように思われる。敢えて言うなら、大伴家持の時代からある日本人の自明の情報編集力が、先生の中には生きて躍動していたのだと思う。

著者プロフィール
よこやま・ひでゆき。1954(昭和29)年、石川県金沢市生まれ。
札幌南高等学校を経て上智大学文学部哲学科に学ぶ。
小学館編集者時代は、『週刊少年サンデー』や『月刊コロコロコミック』の漫画誌、『小学一年生』『小学三年生』の学年誌、『中学教育』『小六教育技術』の教育誌に在籍。2003年から2005年まで『中学教育』の編集長時代に、大村はま先生の担当を務めた。
現在は「大村はま記念国語教育の会」常任理事。「NPO日本教育再興連盟」顧問。

筆者の著書「大村はま先生随聞記」

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横山英行/著

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