「てびき」をキイワードに再発見する 伝説の教師 大村はまの国語授業づくり #6 生徒との会話から生まれた「ほめことばの研究」

日本教育史上突出した実践を展開し、没後20年を経た今も伝説として語り継がれる国語教師、大村はま。現役時代の教え子であり、その逝去の二日前まで身近に寄り添った苅谷夏子さんが、今、改めて大村はまの国語授業づくりの「凄み」を語る連載です。今回のテーマは、単元学習「ほめことばの研究」です。
執筆/苅谷夏子(大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長)
目次
「集める」という暮らし方
伝説の国語教師と呼ばれる大村はまは、その暮らしの日常に「ことばの材料を集める」という習慣が当たり前のように根付いていた。なにも専門的、本格的な「教材」と限ったことではなく、たとえば優れた辞書の編纂者が常にことばにアンテナを立てて過ごすのとほぼ同じような密度で、ことばの実態、ことばと人の暮らしの実際の姿を、興味津々で見つづけ聞きつづけ、集めつづけていた。「取材」といってもいいかもしれない。本はもちろん、新聞の4コマ漫画から店頭で交わされる会話まで、集めれば集めるほど、気づくこと、考えたいテーマ、新たな知見は蓄積し、ことばの世界の興味深さや豊かさは増す一方だったと思う。テレビを観ていても、商店街でも、通勤の途中でも、ふっと目や耳に入ることばの新鮮な一瞬は、子どもたちを率いてことばについて考える契機へとつながっていった。それは理論から出発して発想するよりも多様性や意外性、新鮮さをもっていて、よほど頼りになった。そして、ことばを育てる人として新鮮で多様な材料を持つことは、そのまま教室をいきいきとしたものにする、という現実に裏打ちされた実感があった。これは、伝説の大村はま国語教室から受け止めたいことがらの一つだろう。
大村は著書の中でこういう言い方をしている。
「いい題材に出会うには、ずっとつづけて興味をもって求めているということが大切ではないかと思います。網がずっと張ってあるので、ある日の材料がひっかかりますけれど、ひっかかる瞬間に合わせて網を張るということは、まずできないでしょう。」
「網の目が粗くては、とらえたものも粗いだろうと思います。」
ある日、網にかかった心躍るようななにかは、いつわらざる喜びと共に教室で披露され、生徒を惹きつける。このことは、おそらく国語教育というジャンルに限ったことではないだろう。理系でも、歴史や社会といった分野でも、もちろん外国語などでも、決まった内容の学習という固い枠組みの中に新鮮な空気を呼び込むのは、教師がその手で集めてきた、教師本人も嬉しくなるような「とっておきの材料」が加わる時なのではないだろうか。それを大村は「今日の新鮮な一滴が必要」という言い方で伝えようとしている。
生徒も集める人になる
ずっと網を張ることの苦労と大切さ、だからこその収穫の喜びと手ごたえを知っている大村は、その実感をもとに、生徒たちにも「集める」ことを促した。たとえば新しく知ったことばを集める、好きなことばを集める、読みたい本を集める、新刊書の広告を集める、ふと気になった表現を集める、好きになれないことば、問題だと感じることばを集める、作文の題材を集める、広告に躍る外来語を集める、自分のテーマを決めてそれにまつまるあれこれを集める……そんなふうに、大村教室の生徒はよく何かを集めて過ごした。
集める、ということは、やろうと思えば少しずつでも実行できるし、目に見える形で成果が積みあがるから、達成感も得られた。勉強しなさい、よく考えなさい、という指示よりは、〇〇を集めてみようと言われる方がよほど明るく受け止められた。収集ということは、一度味わいを覚えると楽しいものだ。クラスを率いる大村自身が根っからの「集める人」だったからこそ、生徒の収集を見守る人として最適だった。見守られながら、励まされながら、一緒に喜び合いながら、大村教室の生徒たちも「集める人」としてがんばった。そしてしばしば生徒の集めた資料は、優れたプランの元で新しい単元の材料となり、魅力的な研究(そうだ、大村教室の生徒は自分たちのやっていることを、「研究」という意識でとらえていた!)に結晶していく、それを構想するのは大村の得意とすることだった。外から与えられた整然とした既製品の材料で学ぶのとは、まったく別の味わいが、教室に生まれた。


