【連載】堀 裕嗣 なら、ここまでやる! 国語科の教材研究と授業デザイン ♯6 「語り手の認識」を、読み取れていますか? ~「文脈」を読む力について・その5~

確かな理論的裏付けに基づくクリエイティブな教材開発、教材研究、授業実践に定評のある堀 裕嗣先生の連載第6回。「事実と意見の関係は相対的である」ことを指摘しつつ、中一教材「オツベルと象」を基に、「語り手の認識」の在り方を読み取ることの重要性について考えていきます。
目次
1.事実の文? 意見の文?
次のような文章があるとしよう。
正明が喜一くんをひどく殴った。まったく正明はひどいヤツだ!
この文章は二文で構成されているので、便宜上、文番号をつけてみる。
① 正明が喜一くんをひどく殴った。
② まったく正明はひどいヤツだ!
となる。
さて、①と②はどちらが「事実の文」で、どちらが「意見の文」だろうか。
これに答えるのは簡単である。一般に「① 正明が喜一くんをひどく殴った。」が事実の文であり、「② まったく正明はひどいヤツだ!」が意見の文である。「事実の文」「意見の文」の見分けは、長く学習指導要領にもその重要性が謳われていて、国語教室でも説明的文章を中心に頻繁に指導される指導事項の一つである。教師にも子どもたちにもわかりやすく、且つ納得しやすいタイプの指導事項なので、教師としては国語科には珍しく、どちらかと言うと「指導しやすい」指導事項と認識されている。
しかしここで、改めて①だけを単独で見てみよう。
① 正明が喜一くんをひどく殴った。
ここにはどれだけの「事実」が書かれていると言えるだろうか。
確かに「正明」は「喜一くん」を殴ったのだろう。それは「事実」と言って良いだろう。しかし、「正明」は「喜一くん」をいったい何発殴ったのだろうか。また、「正明」は「喜一くん」をどのくらいの力で殴ったのだろうか。どちらもよくわからない。唯一理解できるのは、どうやらこの文の発話者が「正明」の「喜一くん」に対する殴り方を「ひどい殴り方」だと認識しているらしい、ということのみである。
しかもこの発話者は、「喜一くん」には「くん」と敬称をつけているにもかかわらず、「正明」は呼び捨てている。ここに「正明」と「喜一」という二人の登場人物に対する発話者の差別化が見て取れる。
もはやこれは、立派な「意見の文」なのではないか。
2.意見に熱量が感じられる?
一方、「意見の文」とされる②を見てみよう。
② まったく正明はひどいヤツだ!
当初、この文が「意見の文」と判断されたのは、発話者が「正明」が「ひどいヤツ」だという意見を表明していると捉えられたからである。しかし、これを単語レベルで分解してみるといろいろなことが見えてくる。
② まったく 正明 は ひどい ヤツ だ !
まず着目すべきは、発話者が「正明」に感じているひどさが、「まったくひどい」と大きく、深く強調されていることだ。発話者は「正明」のひどさを「並のひどさ」ではないと表明している。
第二に、「正明」を呼び捨てしていることに発話者の正明に対する判断が表れていることは先に述べたとおりである。
第三に、取り立て提示の副助詞「は」である。前(連載第3回)にも述べたが、「は」には「~だけは」「~こそは」というような強調の意味合いがある。つまり、「正明だけはひどい」「正明こそはひどい」というようなニュアンスだ。ここには「喜一くんはひどくない」「喜一くんはむしろ同情に値する」というような言外のニュアンスが読み取れる。
第四に、「ヤツ」という片仮名表記にも「粗暴なやつ」とのニュアンスが感じられる。この「ヤツ」は、「やつ」「奴」とも書けたはずなのだ。
② まったく正明はひどいヤツだ!
② まったく正明はひどいやつだ!
② まったく正明はひどい奴だ!
この三つを、じっくりと読み比べてみて欲しい。
第五に、文末の助動詞「だ」という断定であり、第六には末尾の感嘆符であるが、これらは説明するまでもないだろう。
「② まったく正明はひどいヤツだ!」を「意見の文」と呼ぶのならば、本来、このくらい丁寧にその「情意性」とでもいうべきもの、発話者の発話における熱量にまで目を向けるべきなのではなかろうか。
3.事実は絶対的? 相対的?
ではなぜ、人々は①を「事実の文」、②を「意見の文」と判断することに疑問を抱かないのか。
① 正明が喜一くんをひどく殴った。
② まったく正明はひどいヤツだ!
それは結論から言うなら、この二つの文が並んで提示されているからである。
①は②に比べれば「事実」に近い。②は①と比べると明らかに「意見」を述べている。こうした「相対的な関係」なのだ。長く学習指導要領に謳われる「事実と意見」は、実は「どちらかというと事実に近い文」や「どちらかというと意見に近い文」、「~と比べると事実に近い文」や「~と比べると意見といえる文」とを見分けるということなのである。
「正明が喜一くんをひどく殴った」という文は、「正明くんが喜一くんを連続して五発殴った」や「正明くんが喜一くんを腫れあがるほどに一発殴った」に比べると、その「事実性」は曖昧である。「正明」に対する呼び捨てや「ひどい」という感受性に基づいた形容によって具体性が乏しくなり、むしろ「意見」に近づいていく。そういうものである。
つまり、私の言いたいことは次である。
「事実」と「意見」の関係は相対的である。
「相対的」なものに過ぎないのに、多くの国語教室では「事実と意見の見分け」「事実と意見の読み分け」が、まるで「絶対的」なものでもあるかのように指導されている。いまなお、指導され続けている。私はこのことを大きな問題だと考えている。
昨今、巷では主張の違い、主に「事実認定」の違いによって泥沼化する事案がマスコミを賑わせている(例えば、フジ第三者委員会と中居正広側弁護士との対立や松本人志側と週刊文春側の確執というような)。また、SNS上のちょっとした発言に対する「事実認定」を巡る批判・非難による炎上事例もあとを絶たない(結果、ネット上の発言は「言葉狩り」の様相を呈し、使えない言葉だらけになっている)。生徒指導上のトラブルにおいても起こったことの「事実認定」にずいぶんと苦労させられることが多くなった(起こった「事実」を確認しないことには生徒指導が進まないので、一つの生徒指導事案の解決が十年前と比べて数倍の時間がかかるようになっている)。
芥川龍之介の「藪の中」(黒澤明「羅生門」として映画化されている)を持ち出すまでもなく、人の認識などというものは「相対的」なものに過ぎない。しかも、その事実に対する認識は驚くほどに曖昧であることが少なくない。それを自分の「事実認定」を絶対化し、そうでない認定をしている者を批判・非難するのでは世の中が立ち行かなくなるのも必然である。
しかも、SNS上の炎上事案を見ていると、投稿者の「但し書き」的な挿入句を読めなくなっている読者が多いことに気づかされる(例えば、「誤解を恐れずに言えば」とか「敢えて断定的に言うとすれば」とかいうような)。投稿者の文末の情意表現も読めなくなっている(「~と考える」「~と思われる」というような)。
「事実と意見」の見分け・読み分けは小学校低学年から高校に至るまで、手を変え品を変えて指導され続けている。もちろんすべてとは言わないが、国語科におけるこうした丁寧さを欠いた、大雑把な指導の在り方が、この社会の悪弊に大きく寄与している気がしてならない。
4.語り手の意見が読み取れる?
次に掲げるのは、宮澤賢治「オツベルと象」(教出・中1)の冒頭である。
……ある牛飼いが物語る。
第一日曜
オツベルときたらたいしたもんだ。稲こき機械の六台もすえつけて、のんのんのんのんのんのんと、おおそろしない音をたててやっている。
十六人の百姓どもが、顔をまるっきり真っ赤にして足で踏んで機械を回し、小山のように積まれた稲をかたっぱしからこいていく。わらはどんどん後ろの方へ投げられて、また新しい山になる。そこらは、もみやわらから立った細かなちりで、変にぼうっと黄色になり、まるで砂漠のけむりのようだ。 (以下略)
「オツベルと象」は、第一文に「……ある牛飼いが物語る。」とその後の語り手を規定し、「第一日曜」「第二日曜」「第五日曜」と、「オツベル」と「白象」の物語を「牛飼い」が語るという構成をとっている。教育出版をはじめとして、中学校教科書には昭和28年以来、約70年の長きにわたって掲載され続けている。いわば「定番教材」の一つであり、多くの実践報告が集積されている。
しかし、その多くは「主題指導」(オツベル・白象の人物像の読み取り)と「表現指導」(オノマトペや比喩の読み取り)に特化されたものが多く、語り手「牛飼い」を取り上げる実践はきわめて少ない。
しかし、この「オツベルと象」の冒頭を読み取るにあたって、私が3節を費やして「事実と意見」の丁寧な読み取りの在り方に言及した意図が、読者にはおわかりいただけるだろうか。
それはこういうことだ。
もしも先の事例が次のような事例だったらどうなるだろうか。
……堀先生が物語る。
① 正明が喜一くんをひどく殴った。
② まったく正明はひどいヤツだ!
こうなると、先の「意見」と呼ばれていた要素が、すべて「堀先生」なる語り手による、登場人物や起こった事象に対する「評価」であるということが見えてくる。そうすると、「堀先生」なる語り手の人物像が浮かび上がってきはしないか。例えば、「堀先生」は、「正明」よりも「喜一くん」に好感をもっているのではないかとか、割と思い込みに基づいて断定的な物言いをする人物なのではないかとかいった要素が見えてくるわけだ。
5.語り手の情報が目白押し?
これを「オツベルと象」に当てはめてみよう。
……ある牛飼いが物語る。
第一日曜
オツベルときたらたいしたもんだ。稲こき機械の六台もすえつけて、のんのんのんのんのんのんと、おおそろしない音をたててやっている。
まずは第一文。「オツベル」を「たいしたもんだ」と評価しているのは誰か。それは語り手たる「牛飼い」なのである。つまり、「牛飼い」は最初に「オツベル」に対する人物評価を表出しているわけだ。
そして第二文はその理由ということになる。ここから読み取れる「事実」は、稲こき機械六台が大きな音を立てて回っているということだけである。しかし、この一文からは「牛飼い」の認識の在り様について、様々なことが読み取れる。
第一に、「稲こき機械の六台も」の「も」からは、「牛飼い」が稲こき機械六台を「多い」と感じていることが読み取れる。また、稲こき機械六台を持っていること、六台同時にまわしていることを「すごい」と感じているのかもしれない。
第二に、「牛飼い」は稲こき機械がまわるときの大きな音を「のんのんのんのんのんのん」などという特殊なオノマトペを使う人物であること、「おおそろしない」などという珍しい形容詞を使用語彙とする人物であることなどもわかる。
第三に、これが最も大きな特徴なのだが、稲こき機械を「すえつけて」、音をたてて「やっている」などから、語り手「牛飼い」はただ事実を事実として伝えているのではなく、視点が「オツベル」に寄り添っているということも理解されてくる。「すえつけて」いるのは他ならぬ「オツベル」であるし、「やっている」のも「オツベル」だからだ。
ただ読んでいては読み落としてしまうが、この二文には「牛飼い」に関するこれだけの情報が内包されているのである。
6.語り手の認識が読み取れる?
次に二つ目の段落を見てみよう。わかりやすいように一つ目の段落とあわせて提示する。
オツベルときたらたいしたもんだ。稲こき機械の六台もすえつけて、のんのんのんのんのんのんと、おおそろしない音をたててやっている。
十六人の百姓どもが、顔をまるっきり真っ赤にして足で踏んで機械を回し、小山のように積まれた稲をかたっぱしからこいていく。わらはどんどん後ろの方へ投げられて、また新しい山になる。そこらは、もみやわらから立った細かなちりで、変にぼうっと黄色になり、まるで砂漠のけむりのようだ。
ここからも「牛飼い」の人物像をさまざまに読み取れるはずだ。
何を措いてもここで重要なのは、「十六人の百姓ども」と、「牛飼い」が百姓たちに対して差別意識を持っているということだ。しかも第一段落で「オツベル」に寄り添う姿勢を持っていた「牛飼い」がである。語り手の評価が表れるような細かい描写を丁寧に読んでいくということは、実はこのように「語り手の認識」の在り方を読んでいくということなのである。
第二段落の三文には、この他にも「牛飼い」の個性的な表現が用いられている。殊に非常に多くの比喩が用いられていることは、「牛飼い」の表現上の特性として顕著と言えるだろう。稲こき機械から立った塵を「砂漠のけむり」と喩えるあたりは非常に独創的でもある。
連載第1回から、私はさまざまな具体例を挙げながら、教材本文のディテールを読むことの重要性を説いてきた。その効果は、実は教材をよく読もうとか、教材を深く読み取ろうなどという次元に止まらないのだ。今回の例になぞらえれば、「オツベル」と「白象」のやりとりや物語内の出来事ばかりに目を向け、作品が最も中心的に提示している「その物語を評価する牛飼い」という最重要のポイントをはずしているにもかかわらず、そのことに気づきさえしない、そんな国語教室の在り方への批判なのである。
PISA型読解力に倣って、学習指導要領が「批評」を読解の目標に掲げて久しいが、実は少なくとも文学的文章教材において、語り手の物語世界に対する評価を読まずして「批評」など成り立つはずがない。作者がその作品のメッセージとして込めた「語り手の物語世界に対する評価」の在り方こそが、その妥当性を測るための対象なのだから。
※ この連載は原則として月1回公開です。次回をお楽しみに!
【堀 裕嗣 プロフィール】
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。
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