【連載】堀 裕嗣 なら、ここまでやる! 国語科の教材研究と授業デザイン ♯2 私はなぜ、「教育技術の法則化運動」に参加しなかったのか?~「文脈」を読む力について・その2~

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国語科・道徳科において、確固たる理論的裏付けに基づくクリエイティブな教材開発、教材研究、授業実践に定評のある堀 裕嗣先生の新連載第2回。史上最大の教育運動「教育技術の法則化運動」に遂に参加しなかった理由から書き起こし、前回同様、ディテールにこだわりつつ「文脈」を読む力について考えていきます。

1.法則化運動は過去のものではない?

安西冬衛に「春」(『軍艦茉莉』1929年)と題された一行詩がある。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

かつて向山洋一が「一文で1時間の授業をつくる」際の代表例として、或いは「視点の授業×討論の授業」の代表例としてこの詩を盛んに取り上げていたので、年配の読者には懐かしさを感じる者もいるかもしれない(『斎藤喜博を追って』向山洋一・昌平社・1979年・他)。いずれにしても、80年代半ばから90年代にかけて、法則化運動の参加者ならずとも、この詩を用いて授業した経験を持つ者は多いだろう。

私が教職に就いたのは1991年のことだが、当時は「教育技術の法則化運動」が隆盛を極めていた。若手中堅の読者は、「TOSS」運動に参加する教師でない限り、既に向山洋一には馴染みがないかもしれないが、いまなお精力的に講演活動を続け、この「みんなの教育技術」でも盛んに発信を続けている野口芳宏、その死後もなお継承者たちが影響下にある実践を盛んに全国発信し続けている有田和正、全国の児童絵画の質を大転換させてしまったと評される酒井臣吾など、「教育技術の法則化運動」はいまなお教育界に多大な影響を与えている。それどころか、現在五十代以上の教育研究者・実践者において、法則化運動に影響を受けていない者(反面教師として機能させた者も含めて)はほぼ皆無だろうと思う。いや、ネット上に掲載される実践報告を参考に授業づくりをしている現在の若手教師たちでさえ、多くの者たちがそうと知らずに多大な影響を受けているはずだ。いずれにせよ、「教育技術の法則化運動」が歴史上、最も大きな教育運動であったことは誰もが認めるところである。

1991年に教職に就いた私の周りには、法則化に参加する教師たちがたくさんいた。札幌にも法則化サークルが複数あり、盛んに例会や公開研究会が行われていた。インターネットが普及していない時代、学校には法則化セミナーの案内ちらしが毎週のように配布されたものである。法則化関連の刊行物の数たるや、当時は月十冊を下ったことはなかったのではないか。それほどの勢いだった。

しかし、私はそれなりの影響を受けながらも、遂に「教育技術の法則化運動」に与することはなかった。書籍はおそらく数百冊読んだと思う。情報を集めるために雑誌も定期購読していた。向山洋一の毎月の動向も関心をもって読んでいた。法則化運動に参加する教師たちとの交流もあった。しかし、最後までいわゆる「看板を担ぐこと」はなかったのである。

実は、その要因となったのが安西冬衛の「春」の授業だった。

2.視点って物理的?心理的?

作者安西冬衛の略歴や、この詩の成立した背景などはここでは措こう。私が当時、違和感を覚えたのは向山洋一の「視点」の扱い方だった。

言うまでもなく、「視点論」は我が国の国語教育界では「西郷文芸学」の支柱の一つである。いまでは教科書でさえ手引きで中心的に扱われるようになったが、この流れをつくったのは間違いなく、西郷竹彦に影響を受けた「法則化分析批評」を中心とした各種分析批評実践、「科学的『読み』の授業研究会」を中心としたいわゆる「読み研」実践、そしてこれらを統括する形で盛んに「視点」を議論し続けた「言語技術教育学会」あってのものである。また、それとミックスする形で「全国大学国語教育学会」に参加する研究者の視点論研究や文体研究、「日本文学協会国語教育部会」の語り手研究の功績も無視できない。いずれにせよ、これらを国語教育界で一般化した功績のオリジンは西郷竹彦にある。

さて、向山洋一の「春」の授業は、ごくごく簡単に言うなら、「視点」を「Point of View」としてのみ押さえていた。韃靼海峡の側面図を描き、飛んでいる蝶を描き、話者の視点の位置として「目」を描く。もちろん子どもによって目の位置が割れる。それを論拠とともに討論させるという構成を採っていた。授業終盤になっても合意形成を図ることは意図されず、活発な議論が展開され、「意見と理由」「主張と根拠」を「討論の授業」の中で定着させようとする試みである。中には最後まで「解」のない授業にアナーキズム型授業である、放牧型授業であるとの批判もあったが、私はそこには違和感を抱かなかった。あくまで、「視点」を「Point of View」として、つまりは物理的な位置づけとして捉えていたところに違和感を抱いたのである。

西郷竹彦は「視点」を、形象理論の延長として捉えていた(「形象」とは語り手や登場人物になりきり、まるでその場にいるような臨場感をもって読むことと捉えていただけれれば良い。若い読者にはテレビ画面を見るのではなく、ゴーグルをつけてVRで見ているとでも想像していただけれればわかりやすいかもしれない)。つまり、「視点」を「Point of View」としてのみならず、視点人物の、或いは話者の、或いは語り手のその描写瞬間の精神性までを包含して「視点」と呼んでいたのである(『西郷竹彦文芸・教育全集14 視点・形象・構造』西郷竹彦・恒文社 ・1998・他)。学生時代から「西郷文芸学」に大きく影響を受けていた私には、この向山洋一の「視点」の捉え方が許せなかった。現象的な子どもたちの討論の活発さや、意見と理由をセットで発言するという「話すこと・聞くこと」領域の指導のために、「視点論」の根幹を蔑ろにしている。他の目的のために「読むこと」の指導自体を放棄している。そんな風に当時の私には見えたのである。

3.助動詞が作品世界をつくる?

前回、「文脈」について大まかに述べた。今回はその2回目である。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

この詩は、蝶々が一匹だけで韃靼海峡を渡って行ったというそれだけの内容の詩である。少なくとも表向きの内容(=表示義)としてはそういうことだ。それを受けて、多くの教師が、「てふてふ」や「一匹」や「韃靼海峡」や「渡つて行つた」の意味を考えさせたり、象徴性を問うたりする。「一匹」で「渡つて行つた」ことから「孤独」を読み取らせたり、「韃靼海峡」という音の響きから情緒的に冷たさを読み取らせようとしたりする。つまり、多くの教師は「てふてふ」「一匹」「韃靼海峡」「渡る」「行く」という大文字の言葉(学校文法的には「自立語」)に着目する。

しかし、この詩の世界観を構成しているのは、「渡つて行つた」の「た」である。もしもこの詩が、

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行く。

であったなら、語り手の位置づけは基本的にその瞬間を見ている以外にはあり得なくなる。まるで世界観が変わってしまう。また、読者の皆さんには、次のような例との違いをも一つ一つ検討してみていただきたい。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行きました。
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つたのだ。
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つてしまった。

いかがだろうか。これらはすべて、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行」までは共通している。しかし、文末がちょっと変わるだけで、「世界観」がまるで変わってしまうのである。「世界観」とはこの例の場合なら、「語り手の立ち位置」とでもいうことになろうか(「立ち位置」という言葉は物理的な位置を指しているのではなく、精神的な立場を含めて用いている)。

ましてや、この詩がもしも、

  てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて来る。

であったとしたら、語り手には「孤独感」さえ感じられなくなり、どこか歓迎するような、温かな趣さえ醸し出されてしまうだろう。ふだんは意識することなく何気なく使っているものの、文末の「助動詞」や「補助動詞」には、その作品世界を根底から覆してしまうほどの大きな機能があるのだ。

4.何があれば国語?

前に述べたように、向山洋一は安西冬衛「春」の授業において、「視点」を「Point of View」としてのみ捉えていた。それは私には、「話すこと・聞くこと」の指導事項のために「読むこと」を利用しているように見えた。他の目的のために教材を犠牲にしているように見えたわけだ。私には当時、国語科の授業というよりは詩作品を利用した特活の授業に見えた。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

これも繰り返しになるが、向山洋一は子どもたちに韃靼海峡の側面図を描かせ、その中に飛んでいる蝶を描かせ、話者の視点の位置として「目」を描かせた。目の位置について意見が分かれた子どもたちは、自らのイメージが正しいと活発に意見交換した。

しかし、最近になって気づいたことがある。

「た」という助動詞には四つの意味がある。即ち、「過去」「完了」「存続」「想起」の四つだ。実は、向山洋一の国語教室の子どもたちは、あの図をもとにした「討論の授業」と称される場で、この四つの派に分かれ、どれがより妥当性が高いかと意見を闘わせていたのではなかったか。私が向山実践を知って30年以上が経って、現在(いま)の私はその可能性を感じるのである。

四派に分かれた子どもたちが、議論に議論を重ねた結果として最後まで結論が出ない。そこで教師が実は「た」には四つの意味があると、子どもの意見を引きながらその違いを説明し整理したとしたら、子どもたちは深く納得し、ことばの難しさ、ことばの豊かさ、日本語の奥深さを胸に焼き付けることだろう。それは見事な国語科の授業であると言える。しかも相当にレベルの高い帰納的な授業だ。子どもたちの実態、子どもたちの活動、子どもたちに起きた現象、それも真剣さを伴ったからこそ起こった現象について、教師が最後に意義づけるのだから。

ただおそらくは当時の向山洋一自身はこのことに無自覚だった。もし彼が自覚的に実践していたのだとしたら、向山洋一という書き手は必ずわかりやすくそれを書いただろうと私は思う。そして、それを書いてくれていたならば、「これは見まごうことなき国語科の素晴らしい授業である」と感じ、私も「教育技術の法則化運動」の看板を担ぎ、数多の法則化戦士の一人になっていたかもしれないと感じるのだ。それが良かったのか悪かったのか、そんな現実には起こり得ないパラレルワールドを夢想することに何の意味もないことはよく承知しているけれども。

5.発話者と発話内容はどんな関係?

本節は少々難解な話になるので、国語を専門としていない読者は読み飛ばしていただいて構わない。
前回・今回と二回にわたって、「文脈」を読むために「ディテール」にこだわるべきというテーゼのもとに綴ってきた。そのためには「文末」とか「助詞」「助動詞」にこだわるべきだとも述べてきた。これらは本稿が学校教育に関する原稿である性質上、学校文法(=橋本文法)に則って論述しなければならない運命に縛られておこなっていることである。私の言う「文脈を読むためのディテールへのこだわり」は、実は時枝誠記による「詞」と「辞」の分類の論理に基づいている。

例えば、「佐藤さんが話される」というときのことを考えてみよう。

この発話は客観的な発話内容としては「佐藤さんが話す」ということを表出している。「佐藤さん」にしても「話す」にしても、これらは概念である。私たちは「佐藤さん」とか「話す」という概念に「概念化」することで認知・認識をしている。「概念化」とは、無数の差異の中に一定の同一性を見出す行為を指す。例えば、「犬」にはゴールデンレトリバーもいればシェパードもいる。チワワもいればミニチュアダックスもいる。ミニチュアダックスだってゴールドもいればブラックタンもいるし、ブラウンもいればイエローもいる。この世に同じ個体は存在し得ない。要するに、無数の差異を伴うわけだ。しかし、私たちの中ではこれらをすべて包含した「犬」という一括りの「概念」が出来上がっている。これが言語の「概念化」の機能である。

「佐藤さん」は世の中にたくさんいて、「鈴木さん」とは異なる。知人の中にはあちらの佐藤さんもいればこちらの佐藤さんもいる。遥か昔小学校の同級生だった佐藤さんもいれば、現在の配偶者の旧姓が佐藤ならかつては配偶者も「佐藤さん」だった経緯をもつ。「佐藤さん」という語は概念的分類を指しているわけだ。「話す」も同様で、この世に「話す」という事例はたくさんあり、話し方も多種多様であるが、私たちは「こうこうこういうことが行われていれば『話す』という言葉の範疇である」と概念化している。つまり、「佐藤さんが話す」という発話をするとき、それは概念と概念とが結びついた結果としての客観的事態であるわけだ。こうした「概念化」の過程を伴う語を時枝誠記は「詞」と呼んだ。

これに対して、「れる」という助動詞は、発話者(=発話の「主体者」)と発話内容(=佐藤さんが話す)という客観的事態との「関係」を示している。つまり、発話者がその「主体性」として、「佐藤さん」に対して、或いは「佐藤さんが話す」という行為に対して、「敬意」をもって捉えていることが示されているわけだ。そこには「佐藤さんが話す」という客観的事態に対するような「概念化」は行われていない。むしろ無意識に、思わず出てしまった発話である。そしてだからこそ、この「佐藤さんが話される」という発話の本質を突いているのである。こうした発話内容の客観的事態と発話者との関係を表す語を時枝は「辞」と呼んだ。このような機能を時枝は、「れる」という辞が「佐藤さん」「話す」という詞を「包み込む」という言い方をしている(ちなみにここで言う「発話」を時枝は「陳述」と呼んでいる)。

時枝誠記の「辞」は、学校文法に則れば「助詞」「助動詞」「感動詞」「接続詞」「一部の副詞」などを指すが、いずれにしても、発話内容が表現しようとする客観的事態に対して、発話者が自らとの関係を表出する機能をもっている。

6.「は」は「が」を凌駕する?

もしも、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」が次のような作品だったとしたらどうだろう。

てふてふ一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

「てふてふが」であれば単に事実として「てふてふが渡って行く」という客観的事態をシンプルに表現するのに対し、「てふてふ」と助詞が一つ変わるだけで「他ならぬてふてふ」という意味が付加されることに気づくはずだ。そして「他ならぬてふてふ」が誰にとって「他ならぬ」のかと言えば、それこそ他ならぬ発話者その人にとって「他ならぬ」のだということも見えてくるはずである。「てふてふが渡って行く」のなら客観的事態をそのまま表現するだけだが、「てふてふ渡って行く」となると、その客観的事態と発話者との関係をも表出されることになるのである。

「が」と「は」はその機能が大きく異なる。「が」という格助詞が単に他の語との関係を表し、発話内容の客観的事態をシンプルに表すのみであるに対し、「は」という副助詞は発話内容の外部との関係を表す。「あの人、頭がいい」と言えば、ただ「あの人」の頭の良さを指摘しているだけだが、「あの人、頭いい」と言えば、「あの人」の頭がいいことは認めるけれども、顔か性格のどちらか、或いは両方が悪いと発話者が認識していることが言外に表出されている。そこにはやはり、発話者(発話の主体者)と発話内容の客観的事態(あの人の頭がいいこと)との関係性が垣間見られるのである。

このように、発話のディテールの多く(本稿の場合は「助詞」や「助動詞」の多く)は、それらが包み込む発話内容の客観的事態に対して「発話者との関係」を付加する。ディテールを読めば、「視点」が決して「Point of View」に留まらず、視点人物や話者、語り手と発話内容の客観的事態との「関係」がどのようなものであるかが鮮明に見えてくるのである。おそらく西郷竹彦は「視点」をこのような視座で捉えていたものと推察する。

7.史上最大の教育運動は何を遺した?

「教育技術の法則化運動」が教育界を席巻したのは既に四半世紀以上も前のことである。西郷竹彦の文芸研(文芸教育研究協議会)の隆盛となるとそれより更に四半世紀前ということになる。既に若い教師の中には向山洋一の名も西郷竹彦の名も知らないという者が大半だろうと思う。しかし、西郷文芸学は専門的に過ぎるにしても、国語の授業をする教師なら、向山洋一の以下の3冊くらいには目を通してみたらどうかと、いまの私は強く思う。

『授業の腕を上げる法則』向山洋一著
『教師修業十年』向山洋一著
『国語の授業が楽しくなる』向山洋一著 

もともとの明治図書版は絶版になっているだろうが、おそらく現在は「学芸みらい社」から新版が刊行されているだろうと思う。

きっと、教材研究を、ネット上にある板書計画を見ることだと捉えている者たちや、ネット上にある指導案を見つけてそのまま追試しようとする者たち、ネット上にある指導案をそうと知らぬままに自分の感覚で改悪して授業してしまう者たちにとって、日常的に感じているであろう「まったく予定通りに子どもが動かなかった」「どこか上手く行かなかった」「なんかしっくり来なかった」といった疑問の要因が、決して教材や指導案にではなく、他ならぬ自分自身のあさはかさにあるのだということがはっきりと認識されるだろうと思う。

教育は「科学」ではない。「科学」にしよう、先行研究を積み上げ、検索可能にし、時代とともに新たに研究成果が次々に発表され発展させていく、そうした試みは80年代以降、多くの人々によって夢想されてきたけれど、その夢想はことごとく雲散霧消してきた。新たな世代は先行研究どころか先行実践さえ振り返ることなく、やはりかつてと同じように思い付きで実践し、思い付きの実践を報告し合うのみである。教職が感情労働であり、具体的な教師個人と具体的な子どもたちとの関数で作用するものである限り、この構造は変わらない。私はせめて、この3冊に提示されたミニマムエッセンシャルズくらいは、なんとか時代を越えて若い教師たちにも受け継がれて欲しいものだと強く願う者である。


※ この連載は原則として月に1回公開予定です。次回もお楽しみに。

【堀 裕嗣 プロフィール】
ほり・ひろつぐ。1966年北海道湧別町生まれ。札幌市の公立中学校教諭。現在、「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問、「実践研究水輪」研究担当を務めつつ、「日本文学協会」「全国大学国語教育学会」「日本言語技術教育学会」などにも所属している。『スクールカーストの正体』(小学館)、『教師力ピラミッド』(明治図書出版)、『生徒指導10の原理 100の原則』(学事出版)ほか、著書多数。

写真/西村智晴

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