あなたは、子どもたちの声をどんなふうに聞いていますか?

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特に教育実習生や、まだ教員生活が短い教師を中心に、「全ての意見を聞いていたから授業が思うように進まなかった」「子どもの意見を聞いて対応していると、いつの間にか別の教科の授業になってしまった」と、子どもの言葉に関する悩みや戸惑いが少なくありません。指導教員や経験豊富な教員からは、「全ての意見を聞いているからそうなるんだよ。取捨選択しなければいけないよ」という助言がなされたりします。ここで疑問が生じますよね。「一方で子どもの声をよく聞こうと言われながら、もう一方では聞くな」とは、はたまたどういう意味だろうと。今回は、そんな「子供の声の聞き取り方」について、考えてみたいと思います。

【連載】学校の「当たり前」を問い直す のびのび教員論 #3

執筆/神戸市立小学校教諭 森脇正博


多くの小学校では全科担任制を基本とし、1つの教室は常に同じ教員と児童たちで構成されています。そこでは、個別に意見をノートに書いたり板書を写すといった「書くこと」、音読・黙読といった「読むこと」も大切にされますが、集団で発問に対する応答や意見に対して議論をする「話すこと・聞くこと」にも多くの時間を費やされています。そのため、授業では、児童相互間のコミュニケーションが重んじられ、教員は様々な方向に飛び交う意見の交通整理を行いながら授業を展開しています。
したがって授業の場面では、「話し合い活動を活発に行おう」「様々な意見を出し合い、みんなで考えよう」と教師が語り、子どもの声が響きあうことは「対話のある・生き生きとつながる・盛り上がりのある」授業として推奨されるのです。

自由闊達な意見交換は素晴らしいですね。
しかし一方で、教員は授業を円滑に進めなければなりません。授業の流れを考えながら、教員は児童のどの意見を取り上げ、どの意見を聞き流すか、という選択を常に行っています。
この選択は瞬間的な判断の積み重ねであるがゆえに一貫性がない場合が多く、それ故に児童に対して予期せぬメッセージ性をを持ってしまうことがあります。
具体的に見ていきましょう。

1 分別される児童の言葉

教員は、例えば学級経営という視点では、全ての児童の声に耳を傾け、親身になって聞き取ろうとする姿勢が必要です。
ところが授業者としての視点では、「ポイントだけしゃべって」「もう少し短く話して」と長々と話し続ける児童の言葉を抑制せざるを得ない場合もあります。

国語の公開授業で、ある児童が
「私の意見は○○です。理由はなんとなくそう思ったからです」
と答えました。
教員は頷きつつも
「なんとなくでは困りますね。他の意見はないですか?」
と、すかさず他の児童に問いました。
すると別の児童が
「私の意見も○○です。なぜなら△△と思うからです」
と答えました。
今度は、
「そうですね、いい意見です」
と板書し、授業を進めました。
一連のやり取りを見ていた実習生が授業後、なぜ同じ意見だったにもかかわらず、前者の意見は取り上げず、後者の意見は取り上げたのかを尋ねると、教員は
「前者は答えとしては正解だったが、理由がなかった。もっと具体的な説明のある解答が欲しかった」
と答えました。
教員は、自分が予想していた解答よりも「低い水準」である、または「無関係」であると解釈した場合は、それを聞くだけに留め、「高い水準」であったり、良い意味で「予想外」だった場合は、それを生かして授業を組み立てたのです。

また、小学校低学年の授業で顕著ですが、児童が思ったことを我慢できずに発する場面があります。それが教員にとって都合が良い場合は「よい気づき・つぶやき」として授業展開の重要なキーワードとして取り上げられ、歓迎されます。
しかし、教員の思い通りに授業が進捗していない場合は、こうした発言を「私語」として扱い、聞き入れなくなります。

このように、教室では、教員は常に多くの児童の声を受信しながら授業を進めています。でも、授業の進行が遅れているときや、話が広がりすぎてしまうときには、すべての意見にじっくり向き合うことができないこともありますよね。そのようなとき、教員は児童の意見を「聞かなかったふり」をして、やり過ごしてしまうこともあります。無視しているわけではなく、授業全体を考えた上での判断です。

しかし、この「聞き流す」対応が児童にどう影響するかを少し考えてみると、意外と大きな影響を与えることに気づかされます。
例えば、ある児童が「よい意見」を出しているにもかかわらず、教員が忙しいときにはそれを深く掘り下げることなく授業を進めてしまうことがあります。そうすると、児童は「自分の意見はあまり重要ではないのかな」と感じてしまうかもしれません。
一方、時間的な余裕があるときには、同じような意見でも取り上げ、クラス全体で議論を深めることもあります。このような場面では、児童は「自分の意見が大切にされている」と感じ、学習へのモチベーションが高まるでしょう。

自戒を込めてですが、私たちは、こうした「聞き流し」や一貫性のない対応が、児童の自信や学習意欲に悪影響を与えてしまうことを意識することが大切です。
もちろん、すべての意見に時間を割くのは現実的に難しいですが、少なくとも児童が「自分の声は大切にされている」と感じられるような配慮が必要でしょう。「今はこの意見をじっくり聞く時間がないけれど、後で取り上げるね」という一言を添えるだけでも、児童の感じ方は大きく変わると思います。

忙しい毎日、教員は瞬時の判断を迫られることも多いですが、その一瞬の選択が児童にとって大きな意味を持つことを、改めて意識し、教室全体の雰囲気がよりポジティブになる環境を作っていきたいですね。

2 教科指導や生活指導に利用される言葉

次に、このような聞き取り方はどうでしょう? あなたは、どう思いますか?
授業中、我慢ができなくなった児童が
「先生、トイレ」
と願い出たとき、
「先生はトイレではありません。トイレに行かせてくださいでしょ」
と言ったり。
体操服を忘れて、
「体操服」
と恐る恐る訴えてきた児童に対して
「体操服がどうしたの? 忘れたの? 体操服では分からないわ」
と皮肉交じりに言った経験のある人は多いのではないでしょうか。
実際には、教員は状況から児童の訴えを理解しているのですが、
「急いでトイレに行ってきなさい」
「体操服を忘れたなら、体育の時間は見学ね」
とは答えず、言い直しを求めたり、教室で目にする
「発表するときのルール」
に従った発言を求めがちです。
忘れ物をしたというバツの悪さから、か細い声で伝えようものなら
「そんな声では伝わらないわ」
と声の大きさすら指導の対象にする場合もあります。
学級経営や授業づくりにおいて、発言の決まりごとを守らせたい気持ちも分かりますが、教員の考え方や思いばかりを重んじた聞き取り方は、児童の心情を無視することになり、児童との信頼関係構築には悪影響だと言えます。

これは授業中に限ったことではなく、学校生活のいたる場面で見られます。休み時間や放課後の教室では、多くの子どもたちが思い思いの会話に花を咲かせています。教員も一緒におしゃべりに参加することもありますが、傍でノートの丸付けや採点をしつつ、同じ空間に身を置いているだけのことも少なくありません。そんなとき
「昨日、ドッジボールをして遊んだの、楽しかったね」
「今日の給食、カレーだよ。私、大好きなんだ」
などの楽しげな会話は教員にとって心地よいBGMであり、聞き流されていきます。

ところが、
「○○って腹立つよな」
「昨日、宿題をしないでテレビを見ていたら、お母さんに怒られてむかついた」
といった、教員にとって「気になる単語」を耳にすると、
「それってどういうこと? 詳しく聞かせてくれる?」
「それはあなたを思ってのことよ。だから叱られたのよ」
と児童の会話に割り込み、説教を始めたりします。

ここで注目して欲しいのは、教員が恣意的な判断によって「気になる」と感じた場合、勝手に子どもたちの私的な会話に割り込んで、教員を交えた会話に一方的に変化させて指導を行っている、ということです。
そもそも子ども同士の「私的な会話」の多くは、教員に聞いてほしいわけでも、聞かせようとしているわけでもありません。
そのため、子どもたちからすれば、
「先生に話をした訳じゃない」「なぜ急に会話に入ってくるの?」
と、驚きや憤懣、反感、拒否といった感情を抱く原因ともなります。
にもかかわらず、教員は常にあちこちから聞こえる声を、自身の教育的フィルターを通して変換・解釈し、本来指導の対象外にあった子どもたちの言葉も指導の対象内領域へと引き込みます。
子どもたちからすればお節介や過干渉と受け取りかねない対応ですが、教員は「生活指導」「教育的配慮」といった名のもとに美化し実行します。
教育現場における特有の磁場によって、教員は子どもたちの言葉を、教科指導の対象と見なしたり、生活指導の対象として聞き取ってしまうことが多いのです。

3 子どもならではの言語感覚があることに気をつけよう

経験豊富な大人からすれば、小学生の言葉は、多少省略されていても声の調子や環境から意図を正しく聞き取り「理解する・了解する」ことは難しくないでしょう。しかし、子どもの世界で使われている言葉が大人の世界とは異なっていることがあり、判断を誤る場面もあります。

筆者の失敗談ですが、学級活動で役割ぎめをするとき、立候補が多くてジャンケンをしました。
ある児童が一瞬で独り勝ちを決めた瞬間、周りで状況を見守っていた児童の中から
「きもっ!」
という声が挙がりました。すぐに気分を害する言葉と受け取った私は
「何が気持ち悪いの!?」
と、その言葉を発した児童に指導を行いましたが、当人曰く
「キモいほど(常識離れして)すごい」という感嘆の声だったのです。
独り勝ちをした児童を含め、子どもたちは全員共通理解をしていました。児童の間では、普段からこのような、大人にとっては誤用と思える言葉の使い方をしていたのでしょう。それと異なった解釈をした私との間に、気まずい空気が漂いました。

また、小学校低学年を担任した際、教室の後方から
「先生、へりくつです」と発した児童がいました。
私は特段へりくつととられるような説明や指示はしていないつもりだったため戸惑いを感じ、その場は
「先生はへりくつを言っていないよ」
とたしなめました。
ところが、その児童はさらに何度となく
「先生、へりくつです」
とくり返しました。そこで、授業後にその児童を呼び、意図を聞いてみたところ、
「へりくつ」という言葉を、
「先生が黒板の前に立っているから、邪魔で字が見えない」
という意味で誤用していたと分かりました。

このように、児童の言葉を額面通り受け止めるのは、時として危険です。

誤用と思われる場面だけではありません。
「私も同じ意見です」「はい、分かりました」
という言葉も、本当は異なった意見を持っていたにもかかわらず、友だちからの同調圧力や、その場をしのぐための「分かったふり」だったのかもしれません。

このように、教員側の「この言葉は、この意味に違いない」という一方的な意味付けや都合の良い判断は、児童との間に不幸を生む可能性があります。
子どもと大人、それぞれの辞書が共通ではなく、異なっているかもしれないことを認識する必要があります。いくら「子どもの声に耳を傾けよう」「心の叫びを聞こう」と思っても、教員の思い込みによって自ら児童理解の幅を狭めてしまっては、児童からは「思いや声を聞いてくれない先生」との烙印を押されかねないと言えるでしょう。

参考文献 児童・生徒の言葉は教員にどのように響いているのか/榊原禎宏・森脇正博/京都教育大学教育実践研究紀要 14、pp. 99-108

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イラスト/難波孝


森脇正博(もりわき まさひろ) 
前京都教育大学附属京都小中学校教諭、 京都教育大学非常勤講師を歴任するなど京都府公立学校教員として25年間勤務。現神戸市立小学校にて総務兼学力充実担当。 教育学修士。 専門は、学級経営、 算数・数学教育、道徳教育等。日本教育経営学会・日本教育行政学会会員。
著書に、「教育経営実践における「笑い」の可能性─「笑い学(教育漫才)」を通じた学級風土の醸成過程に注目して─」(日本教育経営学会、 2023)、『道徳教育のキソ・キホン道徳科の授業をはじめる人へ(分担執筆)』(ナカニシヤ出版、2018)などがある。また、独立行政法人教職員支援機構(NITS) の「Plant 全国教員研修プラットフォーム」内「児童生徒に対する性暴力等を防止するために」研修講師を務める。


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