火中の栗を拾う【玄海東小のキセキ 第7幕】
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宗像市教育委員会主幹指導主事の脇田哲郎は、学級が崩壊した原因を探るべく、玄海東小学校に聞き取りに入ります。すると、4月の段階から3年生のクラスが荒れていることが判明しました。校長や教頭は転校生の問題行動がその発端だと語ります。すぐにでも荒れを収束させたい校長は、あくまで対処療法的な対応に終始するのでした。
目次
半年も放っておかれた学級崩壊
2008年10月上旬に行われた玄海東小学校の学校訪問で主幹指導主事の脇田哲郎は、私語が絶えず、教科書を開かない子供たちの姿を見せつけられた。
宗像市教育委員会に戻る道すがら、脇田は小学校が教育の場として機能しなくなっていることを学校教育の敗北だと受け止めた。授業が成立しない状況は、3年生から6年生まで広がっていたが、特に酷い3年生の学級崩壊をまず食い止めなければならない。
自分が玄海東小学校を担当しようと脇田は決めた。福岡県教育委員会から出向する形で宗像市教育委員会に勤務することになった脇田は、市教委から主幹指導主事の辞令を受けるとともに、県教委から校長職の辞令も出されていた。同校の担当を部下の指導主事に任せることもできたのだが、翌年度(2009年度)から実施予定の小中一貫教育の準備に部下の指導主事は忙しかった。脇田は校長資格を持つ主幹指導主事として校長を指導するという役割を優先したのである。
今後は、脇田が玄海東小学校の校長などから状況説明を聞き、なぜ学級崩壊が起きたのかを探るという聞き取りを行い、それを踏まえて校務掌理権を持つ同校校長が改善策を打ち出すというプロセスをとることになる。
それから数日経った秋晴れの午後、脇田は聞き取りを開始するために玄海東小学校に向かった。
玄海東小学校の玄関に立ち、ふと玄関脇を見ると、庭石に囲まれた小さな池があった。ずいぶん立派な庭だったが、池の水は涸れていた。入口の奥から子供たちの騒ぎ声と、担任たちが子供を叱る罵声が生々しく聞こえてくる。脇田は気が引き締まる思いがした。
玄関ホールには、廊下が左右に走っており、左に曲がれば低学年の教室に行く。脇田はそこを右に曲がり、校長室に向かった。
校長室の引き戸は閉じられていた。脇田はそれが気になった。これだけ学級が崩壊していれば、日々闘いという状況になるはずで、すぐに飛び出していけるように、扉を開けっぱなしにしておくものだがな、と脇田は思った。
引き戸を開けると、校長はそそくさとデスクから立ち上がり、スーツの上着を羽織ると、応接ソファを抜け、会議用のテーブルのところまで来て脇田を出迎えた。
校長室の壁には、波濤が描かれた100号(長辺約1.6メートル、短辺約1メートル)はあろうかという大きな油絵が飾られていた。玄海灘の波濤だろうか。ジョン・レノンが愛用していたような丸めがねをかけた細身の校長がその油絵の前に立つと、余計に体が細く見える。会議用のテーブルは10人ぐらいが囲めるような楕円形のテーブルで、脇田は油絵を背にした校長と対面する形で席に着いた。
脇田は校長に単刀直入に切り出した。
「3年生の授業が成立しない状況になって、どのように指導されましたか」
それに返答する校長の言葉は滑らかだった。
「子供たちはかわいいですよ。子供が悪さしたり、担任の言うことを聞かなかったりしたら、その子を校長室に連れてきて、こんこんと諭しています。担任の代わりに勉強を見たりもしていますよ」
「校長室で勉強ですか」
「ええ、そうです。漢字のプリントや算数のドリルをしています」
校長は担任たちと同じ視点に立っているようだった。子供が悪さをすれば、校長がそれに対応することは必要だが、それだけでは対処療法で終わってしまう。
「ひとりやふたりを個別に生徒指導したところで、荒れが収まりますか」
「子供とはその都度、しっかり向き合うことを心がけています」
校長室で教え諭すことと、子供と向き合うことは、事後指導という意味では同じことを言っているに等しい。子供の問題行動に対する未然防止に向けた予防的な指導を整備していくことが校長の仕事ではないのか。校長には、学校全体で荒れを何とかしようという発想がないようだった。
校長は、子供たちの騒がしさを抑える日々を送るせいで、胃痛に悩まされ、ぎっくり腰に何度もなったとも言った。しかし、それについて脇田は同情を示さなかった。大変なのはむしろ子供のほうだと思ったからだ。
「校長室は子供を指導するところではありません。校長室は学校という組織を動かす学校経営の最前線基地ではないですか。学校全体で子供たちの荒れに対応することを考えてください」
指導主事が行使できるのは学校経営に対する助言にとどまり、具体的にこうしろとは言えない。しかし、つい持論が口を衝いてしまった。
脇田は次の質問に移った。
「なぜ3年生は崩壊したのですか」
校長は、「崩壊……」と言葉に詰まって少し間が空いたあと、「元気がよくて騒がしいとは思いますが」と言葉を添えた。どうしてそこまで言われなければいけないのかという表情が校長の顔に出た。校長には、学級崩壊の危機感がないのだろうか。
「そうおっしゃいますが、授業が成立していないではないですか」
校長の顔を覗き込むようにして脇田はたたみかけた。
「担任は懸命に授業をしてくれています」
そう言って校長は黙った。脇田は「3年生が荒れた原因は何ですか」と聞き直した。
校長は3年生が2年生のときは問題行動を起こすようなことはなかったと前置きして話し出した。
「ところが、2年生の3学期に転校生が転入してから非常に騒がしくなったのです。その転校生は男の子で、人を巻き込む力がありましてね。その子の反抗的な態度に周りの子供たちが同調し、抑えが急速に効かなくなったのです」
校長によれば、その転校生は運動が得意で、遊ぶときにはリーダーになるような男の子だという。性格は激しく、怒るときと沈むときの感情の揺れが大きかった。離婚して実家に戻った母親の手ひとつで育てられたということだった。
「では、ほかの学年は、なぜおかしくなったのですか」
「赴任当初から3年生と6年生が荒れ気味だったものが広がったのだと思います」
「ということは、4月から騒がしかったのですか」
校長の目が虚ろに動いた。前任校長との引き継ぎのなかで、当時の2年生が荒れているという報告はなかったと校長は言った。
「なぜ半年も放っておいたのですか。校長として何も仕事をしていないと言われても仕方ありませんよ」
脇田は自分より数年先輩の校長に対して失礼な言い方をしてしまったと思った。しかし、主幹指導主事という立場上、言うべきことは言わなければならない。
目の吊り上がった子供たちの叫び声が、脇田には悲鳴に聞こえた。3年生の学級崩壊に対する改善策を講じるように念を押して校長との面談を終えた。
重い空気が漂う職員室
続いて脇田は、校長室で教頭や教務主任に話を聞いた。ふたりとも髪型がきちんと整えられ、スーツ姿で校長室に入ってきた。理科が専門だという教頭は、いつも低姿勢で人当たりがよかった。教務主任は脇田が2002年度から2004年度まで宗像市立東郷小学校で教頭をしていたときの同僚で、パソコンを自作することが趣味だった。
そのころ、東郷小学校では算数教育に力を入れていたので、教頭の脇田は算数の授業を参観し、授業で気になった点を書いたメモを担任全員に渡していた。そういう関係があったから、少しは忌憚ない話が教務主任から聞けるかと思ったが、口を開いたのは教頭で、教務主任は同席しただけだった。
校長にしたのと同じ質問をすると、返答は校長と変わらず、転校生の立ち振る舞いが引き金になったという。
「その男の子は、どのような問題行動をとったのですか」
転校生は当初、授業中に頻繁に立ち歩くことが多かった。それが3年生になると、自分の気に入らなければ、友達に暴力を振るい、担任の指示に反発するようになった。
仲間を引き連れて行動することでクラスを牛耳るまでに発展したというのだ。
担任はその転校生を指導するたびに校長に預けた。校長はその子を校長室でこんこんと諭した。度重なる指導に対して転校生の母親は、前任の担任に対して、「なぜうちの子ばかりが悪いのか」と食ってかかるようになった。保護者との人間関係のこじれは担任に負担になったのだろうと教頭は話した。
その担任は病休となり、後任の担任に代わった。校長もその母親のクレームを受け止めたが、それは途中からだった。
「それはもう、すごい剣幕で」
教頭はいかにも困った顔をした。クレーム対応は初動が肝心だ。校長はその担任に、保護者としっかり向き合いなさいと指示するか、初めから校長が対応すればいいのだと脇田は思った。
「どう対策されますか」
そう聞かれた教頭と教務主任は、何を言えばよいかわからないという顔をして黙ってしまった。教室には、職員室とつながる業務連絡用のインターホンが設置されている。担任から支援要請の連絡があれば、すぐにクラスに駆けつけていると、教頭は絞り出すように話した。教頭にも事後指導の発想しかないようだった。
その翌日、脇田は担任たちに話を聞くために再び玄海東小学校に向かった。終業まで時間があったので、3年生の教室に足を踏み入れた。
「また来たと?」
脇田は急にひとりの男の子に話しかけられた。大人のことなど目に入らない子供たちではなかったのか。自分を認識している子供がいるとは意外だった。慣れてくれば、人懐っこいのだ。この子供たちは人とのかかわり方を知らないだけではないのかと、ふと感じた。それならば、人間関係を築く特別活動の手法が効くはずだと直感した。
担任たちが集まったというので、脇田が職員室に入ると、重い雰囲気が漂っていた。担任は50歳代のベテランが多く、どの担任もどっぷりと疲れていて笑顔のかけらもなかった。まずは担任たちとの関係を築こうと脇田は考えた。
「みなさんは一生懸命にクラスを運営されています。いま、直面している問題について、お聞かせください」
担任たちの口から出たのは、子供に対する愚痴だった。
「うちのクラスのAは、立ち歩くだけじゃなく、教室から出るようになったと」
「うちのBは、いくら指導しても言うことをきかん」
別の担任は校長の対応力のなさを漏らした。
「保護者がなんか言うてきても、校長が守ってくれん」
これに他の担任たちも「そうそう」と頷いた。校長が守ってくれないとは、件(くだん)の転校生の母親のクレームに対して、校長が盾にならず、前任の3年生担任と母親の間に入らなかったことを指していた。校長は担任たちから信頼されていないのかもしれない。担任たちには不満が滓(おり)のように溜まっていると脇田は感じた。
脇田は担任たちにも荒れについての原因究明や改善策を尋ねようと思ったが、そうすることを止めた。そんなことをしても、「何かをせないかんことはわかっています。でも、無理です」という返事が返ってくるのが関の山だ。
脇田のなかで、リーダーシップを発揮していない校長と、そんな校長をあまり信頼していない担任たちという構図が浮かび上がった。校長は、どのように荒れた学校を改善したらよいかわからず、お手上げの状態なのだと捉えた。それは教頭も同じで、残るは、教務主任ということになる。
教務主任ならば、学校の教育課程を作成する立場にいるから、学校全体で何かに取り組むことができるし、旧知の間柄だ。脇田は教務主任に自分のアイデアを提案してみようと考えた。
脇田は放課後の教室にいた教務主任に声をかけた。
「荒れを何とかせんといかんやろ。どうする?」
教務主任は返答に詰まった。学校全体での取り組みが必要だとする脇田の考えに教務主任は同意した。
「子供たちの気分を一新するような活動をしてみんですか」
そんな活動があるのかと教務主任は興味を示した。
「どげんするとですか」
「6年生が下級生と集会活動をして遊ぶんよ」
脇田は、声をかけてきた子供の顔を思い浮かべながら、そう提案してみるが、「集会活動ですか……」とつぶやいた教務主任の表情は曇った。当時、教務主任は40歳代前半で、50歳代の担任たちを動かすのはなかなか難しく、年度途中で新しい活動をすることを担任たちはきっと嫌がるに違いないと嘆いた。教務主任は脇田の提案に理解を示したものの、集会活動をやってみようとはしなかった。
校長や担任たちは学級崩壊に対してあくまで即効性のある解決方法を求めていた。しかし、そんな方法があるのだろうかと脇田は思った。
教室を巡回して脇田が気づいたのは、担任と子供たちの間には、叱り叱られる関係しかないということである。子供との信頼関係を築いていないので、担任の指示が子供たちに通らない。脇田は担任たちに、子供との信頼関係をつくりたかったら、子供を叱り過ぎるな、とアドバイスした。
脇田は若いころ、叱る指導を止めると決意したときがある。初任校である福岡県宇美町立宇美東小学校に勤務して7年目、3年2組の学級開きのときだった。担任の脇田が教壇に立つと、女の子たちが怖がるような眼差しで脇田を見ていることがわかった。ある女の子は泣き出しそうな顔をし、ある女の子の顔は引きつっていた。当時、脇田は学校で一番怖い先生と言われていたのだ。子供が言うことを聞かないと、同僚の教員が「脇田先生のところに連れていくぞ」というのが殺し文句になっていたくらいである。
そのとき、脇田はハッと気づいた。厳しく指導すれば、子供たちはついてくると考えていた自分が間違っていたと思った。怖がる子供に罪はない。自分の指導力が足りないせいではないのか。それまで子供を叱るたびに後味の悪い思いをしていた。
何も叱らないうちから子供たちに怖がられたことで脇田は踏ん切りがついた。その日から子供を叱ることを止めた。そんな自分の経験から、叱り過ぎるな、と玄海東小学校の担任たちに指導したのだ。
後年、脇田が還暦を過ぎたころに、担任を受け持ったいくつかのクラスが合同して同窓会が開かれたことがある。叱ってばかりいたそのころの子供たちに謝れるものなら謝りたいと思っていた脇田は、そのとき、もう40歳代後半になった教え子に向かって、「あのころは叱ってばかりだった。自分の指導力がなかったもんやから、ごめん」と謝った。
脇田には、玄海東小学校の子供たちが昔の教え子と重なっていた。
〝二十八度参り〟の末の決断
11月中旬になって、校長は解決策を示した。その解決策とは、3年生のクラスをふたつに分けて少人数指導を行い、新たにベテラン教員を担任に据えて厳しく指導する体制をとるというものだった。比較的騒がしくないグループと騒がしいグループにクラスを分離したのである。
30人ほどのクラスの子供たちがちょうど半々くらいに分かれた。しかも、同じ3年生として教室を隣同士にするのではなく、騒がしいグループのクラスを空き教室の多い3階に移動させた。
少人数指導を行うという理由は対外的には聞こえはいい。だが、このやり方では、法規に抵触する可能性がある。「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」の規定によれば、2008年当時の学級編制の標準は1クラス40人となっており、クラスの人数が40人を超えた場合にクラスをふたつに分けることができるとされていたからである。
ちなみに現在では、その法律は改正され、2025年までに計画的に学級編制の標準を1クラス35人にまで引き下げることとされている。
ひとまず脇田は校長の解決方法を緊急避難的措置として受け入れることにした。その一方で釘を指すことを忘れなかった。
「早めにひとつのクラスに戻してください。クラスを分けたとしても、同じクラスであることを子供たちに理解させる取り組みを行ってください」
これではうまくいくはずがないと思った。力で抑え込むといういままでのやり方の延長にすぎないからだ。
騒がしいグループの子供たちはいったいどうするのだ。教師とかかわらないから、学ぶことの楽しさを教えられることもなく、友達とかかわらないから、人への思いやりや困っている友達を助ける気持ちが育まれることもないだろう。それらを味わわせるのが学校の教育ではないのか。
担任たちの誰かが友達とかかわる活動を始めることを期待したが、そうはならなかった。先に述べたように教務主任も動かなかった。
今後も玄海東小学校を訪問し続けようと脇田は思った。すると、3年生の子供たちは脇田にかかわってきた。「何しに来たと?」と聞いてくる子がぽつぽつと現れたのだ。
「お勉強をちゃんとしてるかなーと思って見に来たんだよ」
「してる~~」
ぜんぜん勉強などしていないのだが、脇田が教室に入ると、子供たちは多少静かになった。騒がしくてもせめて授業が成立する手助けになればと、学校を訪問するたびに脇田は教室に入り続けた。
結局、ふたつのクラスに分かれた3年生は、ひとつのクラスに戻ることなく、年が明けた。脇田が手帳を見ると、玄海東小学校への指導のための訪問回数は28回を数えた。2008年10月から2月まで週に1、2回の頻度で脇田は本校を訪問したことになる。
2月末になり、脇田は玄海東小学校について城月カヨ子教育長に最終的な指導報告を行った。城月は宗像市役所で初めて部長職を務めた女性で、ベリーショートヘアがトレードマークだった。その城月に脇田は、玄海東小学校の校長が実施した措置を報告し、同校の管理職の変更が望ましいという意見を述べた。
「うんうん、そうですか。ご苦労様でした」
城月の反応はこれだけで、いつもの眼光の鋭さはなかった。城月は宗像市の小中一貫教育の旗振り役だ。地域の人や市会議員の目がある。玄海東小学校に関する苦情が来ていることも十分承知している。自分の報告に対して、管理職の変更を含めて学校を今後どうすべきかなど、もっと突っ込んだ話になるかと思っていた脇田は肩透かしを食らった。
実は、玄海東小学校の校長から早期退職届けが提出されていた。城月が脇田に早期退職の事実を持ち出せば、次の校長をどうするかという話になる。城月はそのことを脇田と話したくなかったのだろう。
3月下旬になり、脇田はまた、城月教育長に呼ばれた。教育長室は宗像市役所本庁舎3階にあり、市議会の議場に最も近い場所にある。脇田が教育長室に入ると、宗像市東部に連なる四塚(よつづか)連山がきれいに見えた。
城月は静かにデスクに座り、にこやかな表情で脇田を迎えた。
「脇田主幹、そろそろ異動の時期ですが、どこの学校を希望されますか。糟屋(かすや)に戻られてもいいですよ」
開口一番、城月はそう切り出した。めがねの奥が光ったような気がした。その言葉は脇田が初めて校長として転出することを意味していた。
城月が「糟屋に戻られてもいい」と言ったのにはわけがある。脇田は福岡県糟屋郡にある宇美町の池田隆教育長から、「糟屋に戻ってこい」と強く言われていたのである。第2幕に登場した、「本気を見せろ!」と檄を飛ばして荒廃した中学校に乗り込んだ、脇田が県教委の指導主事時代の元上司だった。
脇田は糟屋に戻ることも考えたが、それはすぐに消えた。
「もしよかったら、玄海東小学校に行かせてください」
その場で脇田は城月に返事をした。城月は笑みをたたえたまま、「わかりました」とだけ言った。脇田はその場を退席した。
脇田に玄海東小学校を立て直すという立派な志があるわけではなかった。しかし、あの荒れた子供たちを見捨てるのかと、自分のなかの自分が脇田に問いかけた。28回も通い続けたのに改善しないままに終わったという責任を感じていた。玄海東小学校のことが頭から離れなかったのだ。
翌2009年4月から、脇田は玄海東小学校に校長として赴任することが決まった。そのときふと、親父に海に投げ入れられたときと同じ感覚が蘇(よみがえ)った。小学1年生のころ、脇田一家は鹿児島県の種子島に住んでいた。海は身近にあったが、脇田は泳げなかった。それを知った父親の栄一は、息子の哲郎を海に誘い、いきなり海岸の岩場から海に放り込んだのだった。父から思わぬ荒技をかけられたが、それを機に泳げるようになり、脇田はクラスで一番泳ぎがうまくなった。
早期退職を決めた校長。そのことを知っていたはずの城月。城月は脇田に次の校長になってもらいたいと考えていたとしても、崩壊した学校に行ってくれとは言いにくい。そんな事情を知らない脇田は自分で行く道を決めた。運命に背中を押されたのかもしれない。
脇田は何としても学校崩壊という荒海を泳ぎ切るしかない状況に追い込まれた。
ライター/高瀬康志 イラスト/菅原清貴 ※文中の敬称は省略させていただきました。