「まとまる」ことを嫌い、避ける風潮(上) ー「ばらばら」への懸念ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第37回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」

植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「まとまる」ことを嫌い、避ける風潮(上) ー「ばらばら」への懸念ー【本音・実感の教育不易論 第37回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第37回は、【「まとまる」ことを嫌い、避ける風潮(上) ー「ばらばら」への懸念ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 地域のつながりの崩れ

房総の南部に属する君津市が私の住まいである。人口ざっと8万人。その一隅の集落は、私の子供時代には70戸ばかりの寒村であった。今は二つの団地や、新しい家も建って250戸ほどになったが、農業振興地域であることに変わりはない。今では寒村というイメージではなく、どの家もまずまずの安定した生活水準を保っている。

さて、この小さな地域でさえも、敗戦を大きな境として、とりわけここ20年ほどの間には様々な変化、変貌が生まれている。

①共同作業がなくなった

昔は、道普請、溝掃除に始まり、田植え、稲刈り、稲扱き、籾摺り、村祭りなどなどは隣近所の人々がお互いに手を貸し合い、借り合っての共同作業によって進められていた。農耕は牛馬に頼っていた時代である。

人々は一様に貧しく、自分だけの力では手間のかかる仕事は手に負えなかったのだ。お互いに協力せねば生きていけなかった時代なので、どの家の家族状況も分かっていた。それぞれの家のそれぞれの事情も出来事もお互いによく理解し合い、助け合ってもいた。だが、世の中の進展に伴って農業の形は畜力から機械にとって代わり、お互いに力を合わせなくとも済むようになった。それにつれて共同作業、手間や労力の貸し借りも不要になっていった。

②子供の姿にも変化

いわゆる餓鬼大将の消失とともに、子供たちがわいわいと群れて遊ぶ姿が消えた。今の我がふるさとに遊び群れる子供の姿はない。登校や下校も、それぞれが一人であり、それに「身守り隊」というボランティアの老人が、下校時間帯に合わせて立ってくれるようにもなった。

伝統的に100年近くも続いてきた子供で作り上げ、子供で運営する天神講や、神社掃除、どんど焼きも姿を消した。子供会も今は解散してしまったし、地区の親子が一緒になって出かけるバスの日帰り旅行も今はない。だから、子供を見ても、どこの子なのか、どんな子供なのか、全く分からない。

③地区の行事も消えた

村祭りには、笛や太鼓の音が聞こえ、神楽舞いが戸毎に廻り歩いて災厄を払ったものだったが、いつの間にか全ては消滅して今の祭りはひっそりとしている。村祭りそのものがほとんど消えている状況に近い。

*   *   *   *

時とともに世情が移り変わっていくのは当然のこと、当たり前のことなのだが、それらは結局のところ人々の心が決めていくことであり、様々な変貌は人心の変化の表れなのだと考えると、単に「当然のこと」として傍観してばかりもいられなくなる。それらは、一つの教育問題として考察する必要があるのではないかとこの頃考えるようになった。「まとまり」「まとまる」という現象の減少、退化、消滅への憂慮だ。

世の中が、徐々に、だが確実に「ばらばら」になっていき、「協力」や「他者への思い」が稀薄になっていくように思えてならない。淋しい思いである。

イラスト37

2 「一致団結。心を一つに」のピンチ

①学級対抗や学校対抗は「団結」の要

このような対抗試合は今も盛んであるが、それらの根本、本質、原点は、学級や学校が一つになって力を合わせ、その結束力を技術や戦力として発揮し合い、競い合うことである。心が一つになった時、それは大きな力となって発揮される。

まとまりに欠ける学級や学校では大きな力にはならない。それでは残念であり、望ましくない、不徳の現象とも言えよう。

②家庭も「心を一つに」が要

家庭も同じである。家族が一丸となっていること、家族が仲良くまとまっていることは、美しく、楽しく、幸せである。

家族がそれぞれに勝手なことを考え、勝手なことをしていたのでは、それは家族ではない。単に同居しているだけのことだ。そのような家庭が生まれている。増えている。家庭崩壊という言葉も生まれている。

「崩壊」というのは、「崩れて壊れること」であり、それは、「建設」の対義語でもある。

「建設」は前向きであり、それは「協力」「心を一つにする」ことによって成る。

学級も、学校も、町も、市も、それぞれの成員の心が「一つになる」ことを望んでいるだろうけれど、それが徐々に困難さを増している。

③成員の「心離れ」も

前にも書いたことだが、学校の職員による「職員旅行」や「送別会」「歓迎会」は、曾(かつ)ては「全員参加」が当然と考えられ、みんながこれを楽しみにしていたものだ。今はそれができなくなっているらしい。

「協力」や「心を一つに」することが、強制、押しつけと解され、それらは「自由の侵害」であり、「内心の自由を認めない」こととも解されることがあるようだ。「個人の自由」は、この先どのように太っていくのだろうか。

一つの団体に属せば、その「団体としての権利」「成員としての権利」は求めるが、「義務」については拒否する。これは明らかな矛盾になるが、必ずしもそうは認識されていないようだ。これらは、このまま見過ごしていてよいものなのだろうか。

3 「協力」の美徳と大切さ

協力一致、一致団結という美徳を否定する者はあるまい。一つの組織を持てば、その組織、団体は必ずや「協力、一致、団結」を求める。そうしなければ組織、団体の保持、継続、発展は望めない。当然である。この原理はいかなる団体においても共通だ。それが自らの団体の利と発展につながるからだ。

だが、自分の属する団体の不利や、他団体との関係になるとその様相は一変する。団体や組織の内部に対立が生まれ、時に争いとなり、抗争、解体にさえ及ぶこともある。

それが、そのようにはならず一団としての強固な一致協力の美を作ったのが曾ての我が国、日本であった。国家を愛し、国家の為には自らの命も惜しまず捧げるという思考、信念が曾ての日本には存在した。その考え方の根底には、日本の皇室の伝統が大きく働いていた。これが私の考えである。

日本の皇室は、常に「国家、国民の安泰」を第一に考え、祈られている。むろんのこと「世界平和、人類の平安」も祈っておいでである。この大御心に応えて大御民である日本の国民は伝統的に皇室を中心に「一致団結」を尊んできた。

戦争を持ち出すのはいささか問題かもしれないが、日清、日露の両戦争の勝利は、日本国民の一致団結、愛国の情がもたらしたものと考えて大きな誤りはあるまい。「三本の矢」の教訓を引くまでもなく、一糸乱れぬ協力は大きな力を生む。二つの勝利は国家を大きく成長、前進させた。

一致協力の美徳を力強く打ち出し、人々がさらに一致団結の気概を自らのものとしていく上に大きな力を発揮したのが「教育勅語」である。

「教育勅語」という文献名を持ち出すと、とたんに反発をする人があるが、そういう人のほとんどは一度も本文を読んだことがなく、本義を尋ねたこともないようである。

「教育勅語」は、全国知事会議でその作成が求められ明治23年に成立したものである。その頃の世情は、欧化思想、欧化主義が世を覆い、日本国や日本人の本来の精神、美徳が軽んじられていた。世相の軽薄、混乱が広まるのを恐れた知事会議が文部省に要請して、日本人としての教育の根本を示さしめたものだ。

その中に次の文言がある。

我が臣民克(よ)く忠に克く孝に億兆心を一にして世世その美を済せるは、之我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す。(現代表記に改め)

「臣民」は「国民」の旧称で国民と同義である。「世世」は代代ずっと、「国体の精華」は、日本の国柄の本当の価値ということ。おおよその口語訳で大略を下に記してみよう。

日本国民は忠・孝の元徳を十分に弁え、尊重し、国民の全てが心を一つにして代々長く長くこの美徳、美風を伝えてきた。これこそが日本という国、国民の真価なのだ。教育という営為を貫く原点は、この国家としての真価を今後とも伝え、発展させていくところにこそあるのだ。

「億兆心を一にして世世その美を済せるは、之我が国体の精華にして」という文言は、教育勅語の要とも言える。

日本国の真価は、「億兆心を一にして」つまり「全ての国民が心を一つにして」元徳を守り抜いてきたことにある、との文言は力強い。ここが肝心なのだ。「協力一致、一致団結」は、近、現代を通じて不変、不動の国家的重要事であったことを忘れまい。

4 「団結」「一致」を嫌う風潮

ところが、である。現代の世相、風潮は「団結」「一致」「まとまる」ことを嫌い、忌み、拒むことこそが重要なのだ、というとんでもない方向に進んでいるように思えてならない。単なる杞憂ならよいのだが──。

先の我が国の「敗戦」は、国民の個々が自覚を欠き、全国民が一つの方向に向かわせられたからだ、という一部の考え方が今も根強くある。この考え方にも一理はあるが、全く正しいわけではない。極端に振れすぎ「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」の愚を犯してはならない。

道徳の平成29年版『指導要領解説』の2ページめには、中教審の答申の中の次の文言を引いた記述がある。

ア、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。」

イ、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である。」

ウ、「(ア、イ)との答申を踏まえ、発達の段階に応じ、答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、向き合う『考える道徳』、『議論する道徳』へと転換を図るものである。」

引用したア、イ、ウの三つの文言を、私は思い出せないほど何回も読み返しているが、どうも釈然としないものが残る。

アの「言われるままに行動するよう指導したりすること」は、「道徳教育が目指す方向の対極にある」のだろうか。私はそうは思わない。知識も経験も乏しい子供の「主体性」をそれほどにまで尊重してよいものだろうか。読者諸賢のお考えは如何か。

イの「多様な価値観」、ウの「答えが一つではない道徳的な課題」「自分自身の問題と捉え」などは、「まとまる」「一致」「団結」を暗に「負の思考」として拒否していよう。

ウの「考える道徳」「議論する道徳」も、「教えること」「教わること」を拒む思想が見てとれる。「団結」をこのように拒む教育思潮は果たして健全、中立と言えるのだろうか。

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2020年4月号より

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