『和俗童子訓』(貝原益軒 著)に学ぶ(上)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第35回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
『和俗童子訓』(貝原益軒 著)に学ぶ(上)

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第35回は、【『和俗童子訓』(貝原益軒 著)に学ぶ(上)】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 『和俗童子訓』推輓(ばん)の弁

『和俗童子訓』(貝原益軒 著)は、今からざっと300年前、江戸時代の1710年に著述されている。著者81歳の体験的実感論だ。現在は岩波文庫で読むことができる。その「解説」によれば、

「かれ(益軒)の教育思想が体系的にくみたてられている書物であるというばかりでなく、わが国における最初のまとまった教育論書である、といってさしつかえない。」

とある。私の大好きな一書である。

「人生50年」とも言われた短命の時代に、81歳にしてなお壮健、しかもその豊富な人生の実体験に基づく教育論であるところに本書の真価がある、というのが私の感懐である。

貝原益軒は『養生訓』の著者として著名、有名、高名を馳せているが、それに勝るとも劣らず『和俗童子訓』の価値は高い、というのが私の考えである。にもかかわらずこの著書についての現代語訳は未刊である。私は機会を得てそれに挑みたいと切望しているのだが、徒らに時を費やしている体たらくで残念かつそれを恥じている。

一言で言えば、現代の高度な文明による理屈、理論過剰な児童教育論よりも、本人の実体験に基づく簡潔、端的な直言の方がはるかに妥当、的確、的を射た警告になっている、というのが私の実感である。私の思いの一端を2回に分けて記したい。抄出は順不同である。了承を乞う。

イラスト35

2 教育は早期から始めよ

(原文)
──およそ人は、よき事もあしき事も、いざしらざるいとけ〈幼〉なき時より、ならひ〈習〉なれ〈馴〉ぬれば、まづ入(いり)し事、内にあるじ〈主〉として、すでに其性(せい)となりては、後に又、よき事、あしき事を見ききしても、うつり〈移〉かたければ、いとけなき時より、早くよき人にちかづけ、よき道を、をしゆべき事にこそあれ。(巻之一「総論」上)

──口語私訳──

およそ人間というものは、良いことも悪いことも、何も分からない幼い時から覚えて身につけてしまうものだ。だから、まず覚えたことがいつの間にか身についてしまい、その子の性分のようになってしまったならば、後になってからその善悪の本来について見たり聞いたりしても、もはや修正や訂正は中々できにくいものだ。

従って、物事の善悪もよく分からない幼い時から、良い人、立派な人に近づけて、物事の善悪をきちんと身につけるようにすることが肝要なのだ。(原文p.206)

──管見、私論──

幼児教育、保育についての考え方の一つに「自由保育」という立場がある。「子供の自主性と自発的な行動の育ちを目的とした保育理念」と説明され、「放任とは違う」と付け加えるのが一般である。対概念としては「設定保育」「一斉保育」などがある。後者は「保育者が主体となって、指導目的に沿って遊びを展開し、クラス全員で行うこと」であり、「日本の基本的なスタイルとしてよく見かける」形だとも言われる。

ここ数年、私は幼児教育の現場をよく訪問する機会に恵まれ、あちこち出かけているのだが、その全てが「設定保育」「一斉保育」の現場である。そこでは、子供の机は小学校と同じに、教室の前にある黒板に向かって整然と並び、一人の先生(保育士)が全員の子供に向けて一斉に同一の「授業」を展開している。「自由保育」を採用している園から私に対する訪問や指導を要請されることは皆無である。

さて、益軒の「いとけなき時より、早くよき人にちかづけ、よき道を、をしゆべき事にこそあれ。」という考え方をどう解するか。益軒は明確に「設定保育」の立場にある。この考え方は、古くて、時代遅れなのだろうか。私はそうは思わない。「古くて、新しい。そして正しい」──つまりこれこそが「本音・実感の教育不易論」と見たい。

ある解説によると、「設定保育」が「日本の基本的スタイル」ということだが、むしろ反対ではないか。現在の幼児教育界はその大方が「自由保育」の実践園である。

机は子供相互が輪になって座る「車座」スタイルで、黒板はほとんど黒板としては使われず、展示板つまり壁同然となっている。子供はそれぞれ何かをしているが、「活動あって指導なし」の状態である。絵本も紙芝居も遊具も沢山あるが、それらが一斉に活用されていることはほとんどない。そういう園が私を招く筈がない。「自由に伸び伸びと遊ばせておけば、自主性、主体性が育つ」と信じているらしいのだが、どうか。

3 愛におぼれてはならぬ

(原文)
衣服をあつくし、乳食(にゅうしょく)にあかしむれば、必〈ず〉病(やまい)多し。衣をうすくし、食をすくなくすれば、病すくなし。(中略)古語に、「凡〈そ〉小児をやす〈安〉からしむるには、三分の飢(うえ)と寒(かん)とをお〈帯〉ぶべし」、といへり。(中略)からも、やまとも、古(いにしえ)より、童子の衣のわきをあくるは、童子は気さかんにして、熱おほきゆへ、熱をもらさんがため也。是を以〈て〉、小児は、あたためすごすがあしき事をしるべし。(巻之一)

──口語私訳──

厚着をさせ、腹いっぱい食べさせていれば多病になる。薄着をさせ、食は腹八分に抑えれば病気は少なくなる。古い諺にも、「三分の飢えと寒さが大切」とある。

支那でも日本でも子供の着物の腋(わき)は開けてある。それは子供というものは気力も体力も旺盛で熱を持っているので、その熱を外へ排する為である。これを見ても、子供を温めすぎるのはよくないことを知るべきなのだ。(原文p.210)

──管見、私論──

四字熟語の一つに「暖衣飽食」がある。「満ち足りた生活、または贅沢な暮らしのたとえ」と大修館の『四字熟語辞典』にある。因みに対義語は「粗衣粗食」である。

今の日本の日常的豊かさは史上に例を見まい。冬は暖房、夏は冷房、暑さも寒さも大きな苦にはならない。学校給食の残量検査を見ても、スーパーマーケットの食品売り場を見ても、家庭の冷蔵庫を見ても、食べきれないほどの食料品で溢れている。衣類にしても同様。住居に至っては「空き家対策」が大きな問題になっている。まさに暖衣飽食の豊かに過ぎる時代である。だが、「病多し」の状況はそのまま益軒の指摘の正しさを裏づける。

今川義元は人質として後の徳川家康、竹千代を預かり、「むごい教育をせよ」と部下に命じた。部下は「得たり」とばかりに、竹千代を早起き、猛稽古、粗衣粗食に追いやった。これを知った義元は、部下を叱り、「むごい教育とは飽食暖衣、気随気儘に育てることだ」と諭したと伝えられる。

子供中心主義という言葉が生まれて久しい。子供に考えさせ、子供に決めさせ、子供の主体性、自主性を重んじて行動させる、という考え方である。今川義元はこの考えに近いが、その狙いとするところは、「役立たずの人間に育てる」ことにあった由である。

子供中心主義は、一見子供の人格、人権を尊重しているかに見えるが、それは「愛におぼれて」いる者にそう映るだけのことであって、本当の愛、本物の愛には遠い。一見子供の人格、人権を軽んじているように見えても、子供の長い人生を考えればそうではない、というのが益軒の考えであり、また、今川義元の考えでもある。その故にこそ益軒は「愛におぼれてはならぬ」と警告するのである。

益軒も義元も、現代とは比べものにならない貧困、困難の時代、社会にあった人だ。「平和呆け」という言葉とは真逆の時代である。その時代の教育はあまりにも古く、今には通じようもない、ということになるのだろうか。一笑に付してよいものだろうか。

不登校、ひきこもり、ニート、いじめなどの現代の子供や若者の負の現象は、教育者の我々に対して何を問いかけているのだろうか。静かに考え合ってみたいことである。「ゆがんだ愛」「目先の愛」は、子供にとっては「むごい」ことになりはしないか、などともしきりに思われることだ。

4 厳に、きびしく教えよ

(原文)
凡〈そ〉子ををしゆるには、父母厳(げん)にきびしければ、子たる者、おそれつつしみて、おやの教(おしえ)を聞(きき)てそむかず。ここを以〈て〉、孝の道行はる。父母やはらかにして、厳ならず、愛すぐれば、子たる者、父母をおそれずして、教(おしえ)行(おこなわ)れず、いましめを守らず、ここを以〈て〉、父母をあなどりて、孝の道たたず。(巻之一)

──口語私訳──

およそ子供を導くには父も母も厳格であるべきだ。そうであれば子供は父や母を恐れ慎み、親の教えを聞いて背くようなことにはならない。こうして、親を敬愛する「孝の道」が自覚されるようになるのだ。

反対に、親が優柔不断で子供の言い分に迷うようになれば、子供は親を恐れず、侮るようになる。教えも聞かず戒めも守らず、親を敬愛する「孝の道」など行われようもなくなるのである。(原文p.211)

──管見、私論──

この辺りの見解については現代の教育思潮からすれば、多くの反対、反論が生まれそうである。とりわけ「人権派」と称されている一部の人々からは、「子供の人権を何と心得るか!」と糾弾されそうである。「まったく、その通り!」という声も聞こえてきそうである。

だが、そのような「子供中心主義の教育」は、現実問題として成功していると言えるのだろうか。観念的には結構だ。理屈としても結構だ。だが現実はどうか、という問題である。現実にそぐわない理想論を私は「観念的机上論」と名付けている。反対に現実、事実に立脚する考え方を「体験的実感論」と呼んでいる。

益軒が『和俗童子訓』を著したのは81歳である。十分なる経験、体験、事実に基づく判断、英知、省察の結晶だとは言えまいか。「父母をあなどりて、孝の道たたず。」と、益軒は300年の昔に予見している。

今の日本では、「先生の言うことを聞かない子」「親の言うことを聞かない子」が不気味に増え続けているように思えてならない。そういう子供が大人になっているということを思えば、現代日本の社会的混迷も頷ける、という気がするのである。

5 子供には義方を教えることから始めよ

(原文)
凡〈そ〉小児をそだつるには、もはら〈専〉義方(ぎほう)のをしえをなすべし。姑息(こそく)の愛をなすべからず。義方のをしえとは、義理のただしき事を以〈て〉、小児の、あしき事をいましむるを云(いう)。是必〈ず〉後の福(さいわい)となる。姑息とは、婦人の小児をそだつるは、愛にすぎて、小児の心にしたがひ、気にあふを云(いう)。是必〈ず〉後のわざはひとなる。いとけなき時より、はやく気ずいをおさへて、私欲をゆるすべからず。愛をすごせば驕出来(おごりでき)、其子のためわざはひとなる。(巻之一)

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2020年2月号より

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