読み書き「同時学習」か「分離学習」か ー石井方式を阻む閉鎖性ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第33回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」

植草学園大学名誉教授

野口芳宏
読み書き「同時学習」か「分離学習」か ー石井方式を阻む閉鎖性ー【本音・実感の教育不易論 第33回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第33回は、【読み書き「同時学習」か「分離学習」か ー石井方式を阻む閉鎖性ー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 「書字力」の前に「まず読字力」

今も昔も「漢字書取」の力を高めることは、国語教育の難問の一つである。昔から漢字書取は、朝自習や宿題の定番であり、その意味では「不易の指導法」とも言える。だが、その成果や結果はとなると、漢字学力の定着や活用の点から見ても必ずしも良策、得策とは言いきれないようである。

同じ漢字を何回も書かせるという機械的方法は駄目だとよく言われるが、「反復」という原理の有効性までをも否定する訳にはいくまい。反復は学力を定着させる上では、一つの良策であることは間違いない。

書字力というのは「字形」の認識と記憶と再生の統合されたものであるが、「書く」という行動の前には、「読む」「読める」という「読字力」が必要になる。十分に読めるという読字力の前提なしに「書字」の力をつけることは困難であるし、また意味もない。

国語の学力については、日常生活に役立つという観点から考えるならば、まず「読字力」の形成に力を入れるべきである。子供がテストを受ける場合に、問題文や教材文の中に読めない漢字が五つも六つも出てくるようになると、もう先に読み進める気力が持てなくなる。「読めない」「分からない」ということになれば、その子供の答案はいい加減なものになるだろう。

従って、まずは多くの漢字を読めるようにしてやることが肝要である。「書字力の前にまず読字力」という原理を確認しておきたい。

イラスト33

2 「読み書き同時学習」論の無理

学年別漢字配当表は、教育漢字をいつ、どの学年で教えるかということについて設けた一つの基準である。これが定められていることによって、どこの学校であっても、またどの会社の教科書を使っていても、一定の教育漢字を習得することができるようになる訳だ。これは、よいことに違いない。

ところで、この配当表は、漢字が「読めて、書ける」ようにする為に「読み書き同時学習」という指導上の大原則を前提としている。この大原則が問題なのである。

先述したように、「書字力」の前提として「読字力」が必要だというのは当然だ。この考えに従えば、「読字力」と「書字力」とを同時習得させるのは無理だ、という結論になる。「まずは読字力をつければよい」のであって、それに力を注げば、書字力の形成は時間はかかるがさほどの無理をせずとも自ずと叶うようになる筈である。これを「読み書き分離学習」と呼ぶ。

この方式を発見し、その効果を実証したのが石井勲先生(故人、教育学博士)である。石井先生の考えた指導法は「石井方式」と名づけられ、幼児教育界ではその効果が実証され、実感され、喜ばれている。但し幼児教育でも一部の実施園でのことだ。

石井先生は、「読み書き分離学習」を提唱するに当たり、分かり易く次のような譬喩(ひゆ)を示して説いている。

「読字力と書字力とは、譬えて言えば赤ん坊の這うことと歩くこととの違いに似ている。這う行動をさんざん経験しているうちに、だんだん筋力がついてきて立ち上がれるようになる。つかまり立ちをするようになる。やがて一歩、二歩と歩けるようにもなっていく。更には歩行もできるようになる。これが自然な発達の姿である。読字力が十分につけば、やがてさほどの苦労をせずとも書字力はついてくる。文字の形が十分に認識、銘記されているからである。読めるようになったばかりの場面で文字が書けるようにしようと考えるのは、這い這いを始めた赤ん坊に、すぐに立って歩くことを求めるようなものだ。自ずと書くようになるまでは専ら読ませることに力を注ぐべきである」

大略このような考えに立って、石井先生は、「漢字は平仮名よりもやさしい。幼児でも漢字は一向に難しくなく読める」ということを提唱され、御自身で幼児に漢字を教え、幼児がぐんぐん読んでいく姿を広く公開して見せた。この画期的な発見と実証の功績が教育学博士号の授与ともなったのである。

3 「石井方式」の妥当性と実践

私は若い頃から石井方式の妥当性に共感、共鳴し、その実践を楽しんだ。考えてみれば、それはさほど奇異なことではない。例えば齋藤という表札を齋藤家の子供は就学前に読める。平仮名も読めないうちに漢字が読める。蔵波小学校の1年生は「くらなみ」という漢字が読める。つまり「早くから」「何回も」同じ漢字を見ているから読めるようになるのである。

私は、台湾の国語教科書や絵本を手に入れているが、それらは全て漢字ばかりである。当然ながら、日本の片仮名や平仮名に相当する文字は台湾にはない。

フランスの子供は幼児の頃からフランス語の絵本を読んでいる。当たり前のことだ。

石井先生は、これらの事実に注目して「大人の社会で漢字表記をしている言葉は子供らにも最初から漢字で出合わせる」ということを提唱し、実践し、その成果を実証的に示されたのだ。

先に述べた漢字の「読字力」が、幼児期からでも飛躍的に伸びる事実を石井先生は示されたのである。これが学校教育にも取り入れられたならば、子供の学力は飛躍的に伸びるに違いない。読書も好きになる子が増えるだろうに、と石井先生も考えた。

しかし、小学校の「学年別漢字配当表」は石井方式とは相容れない。石井方式を積極的に取り入れた指導は批判され、非難さえされることになり、学校教育の中には広まることなく今日に至る。残念至極である。

私は、実践者として石井方式に賛同していたので、学力形成の立場から「読字力」を高めるべく、学年別漢字配当にとらわれずに授業をした。教科書には平仮名で表記されていても、板書は全て漢字に改めていた。だから、「大きな蕪」と書き、「お爺さん」「蕪の種を播く」という具合にした。お婆さん、孫、犬、猫も全て漢字で書くが、子供は一向にそれを苦にしたり、嫌がったりはしなかった。むしろ喜んだ。

但し、子供がノートに写す時には「漢字でなくともよい」と言ったし、強くは「書字」を求めなかった。「読字力の形成は目指すが、書字力の形成は当面狙わない」のだから当然である。

一見複雑に見える漢字も分解すればさほど難しくはない。漢字に関心が高い、積極的な子供は自分の力に応じて「書字」を楽しみ、書字力をも身につけていった。漢字への関心は高まり、読書にも積極的に親しむ姿も見られるようになった。

このような実践は誤解を生まない為に保護者にも、学年主任にも、校長先生にもその趣旨や狙いを伝え、諒解をとっておくことが必要になる。

4 石井方式が広まらない学校現場

授業の目的は学力形成にある。私の実践は「読字力」という学力を飛躍的に高めたと言える。他のクラスの子供には読めない漢字も、私のクラスの子供は読める。1年生の最初から名札は全て漢字で表記するよう親に話した。1学期が終わる頃には、クラス全員の漢字書きの氏名が読めるようになった。子供はこのような実践を歓迎し、親も喜び、読字力という国語の中核学力も高まった。良いことずくめである。

現在の学習指導要領では、学年別漢字配当表の漢字を「読む力」は当該学年で習得させる。だが、書字力については次の学年で習得させればよい、という扱いになっている。事実上石井方式の「読み書き分離学習」の原理が部分的に取り入れられた形になっている。これは嬉しいことだ。

だが、現実の学校の授業では相変わらず「平仮名表記」で「漢字提出は控えめに」という考えが支配的であって、石井方式の考え方は無視されたままである。

但し、ごく一部分の園に限られはしているものの、幼児教育の現場では、石井方式の実施園で大きな成果を上げている。そこでは「漢字絵本」が採用され、『猿蟹合戦』『桃太郎』『山ん婆の錦』などと書かれた表紙の絵本が多くの子供に親しまれて「読字力」を大きく高めている。

それらの園を私は多く訪ねているが、例外なく子供たちは大変楽しんで漢字仮名交じり絵本を読み合っている。

こういう望ましい指導の方法が、なぜ広く学校現場に普及していかないのだろうか。私は不思議でたまらないのだが、次にこの問題を私なりに考えてみたい。

5 「不易の本質」への回帰をこそ

授業の本命、本質、根本は、「学力形成」の一点にある。学力を形成する上で効率的な指導のあり方を踏まえた実践こそがよい授業なのである。石井方式はその典型と言ってよい。

学年別漢字配当表は、全ての教科書の表記法を規制しているが、元々は指導上の一つの目安であり、少なくとも「学力形成」の妨げとなるものではない筈だ。配当表は尊重しているが、更なる高い学力を形成し、そのことによって子供の言語生活が豊かになる教育法、指導法があるならば大いに取り入れられて然るべきであろう。

学年別漢字配当表に基づいて編集された教科書であるべきだということは当然だが、教科書の表記法のみが唯一、最上の表記法であるということにはならない。教科書表記を尊重しつつも、より望ましい表記法があり、それが無理なく子供に受け容れられるならば、それは大いに歓迎すべきことではないのか。

石井方式の長所を学んでいる仲間には積極的な実践を奨励しつつも、必ず付け加える一言がある。次がそれである。

「板書は検定された教科書の表記と同じにしなくてはいけない」という頑なな考えの校長や指導主事の下では、石井方式による学力向上はするな。
そういう考えの校長や指導主事がいなくなったら学力の向上に努めよ。

みんなどっと笑う。だが、実は笑ってはいられない。「学校現場の閉鎖性」や「形式主義」が結構広まっており、実践が痩せてきている。

例えば、「1時間の授業の流れは、本校ではこの順序に従って」と決められている学校があるそうだ。こうなると、「形式」が最優先になって「必要」の影が薄くなる。

ここでは何が必要かという一点をこそ教師は考え、その時々の最も必要なことを連続していく授業が本来である。本時に形成すべき学力のために、今何が必要であり、次に何が必要なのかを、その場の状況に合わせて展開していくべきなのだ。学年や、状況や、教材の特質などを忘れた「形式的順序」の踏襲、従属、定着に何の意味があるというのだろう。

実践者は常に「不易の本質」を求めて歩むべきなのである。石井方式は「不易の本質」に立脚した卓越した実践法なのだ。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2019年12月号より

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