「主体的」の正体を見据えて【本音・実感の教育不易論 第4回】

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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「主体的」の正体を見据えて【本音・実感の教育不易論 第4回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第4回目は、【「主体的」の正体を見据えて】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 「主体的」は戦後教育のキーワード

アクティブ・ラーニングという外来語はそのままは新学習指導要領には登場しなくなった。代わって「主体的・対話的で深い学び」という日本語のキーワードでその狙いが具体化されることになった。やはり、この方が分かり易く、かつ親しみ易い。

言葉というのは、耳にしたらすぐにその意味が分からなければ、言葉としては未成熟で不十分である。アクティブ・ラーニングと聞いても「それ、どういうこと?」と問わねばならないのでは言葉としては不十分である。「主体的・対話的で深い学び」という方がずっと分かり易い。その点ではよかったと私は考えている。

ところで「主体的」という言葉は、戦後教育の中でずっと主軸を形成してきたキーワードと言えよう。『広辞苑』の解説を引こう。「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」。また『明鏡』では「自分の意志や判断によって行動するさま」とある。

新たに「特別の教科」として再出発する「道徳」の授業、指導のあり方について、中央教育審議会の答申を踏まえつつ、文部科学省では次のように解説している。

「(平成26年10月、中央教育審議会の『道徳に係る教育課程の改善等について』の)答申を踏まえ、平成27年3月27日に学校教育法施行規則を改正し、「道徳」を「特別の教科である道徳」とするとともに、小学校学習指導要領、中学校学習指導要領及び特別支援学校小学部・中学部学習指導要領の一部改正の告示を公示した。今回の改正は、いじめの問題への対応の充実や発達の段階をより一層踏まえた体系的なものとする観点からの内容の改善、問題解決的な学習を取り入れるなどの指導方法の工夫を図ることなどを示したものである」と経過を報告した後に、次のような解説を述べている。なお、ライン線と符号は私が付したものである。格別の注意をして読んで欲しい。


このことにより、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」


多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」


との答申を踏まえ、発達の段階に応じ、答えが一つではない道徳的な課題一人一人の生徒が自分自身の問題と捉え、向き合い「考える道徳」「議論する道徳」へと転換を図るものである。

いずれも文部科学省の『学習指導要領解説 特別の教科道徳』(p.2)からの引用である。Ⓐ・Ⓑは中央教育審議会答申の一節、Ⓒは文部科学省の解説である。

2 「主体的」そのものを祀り上げることの功罪

教育の世界で「主体的」と言われる時には、その前提として「良きもの」という限定的思考が働くようである。だが、子どもに期待する「主体性」をすべて「良きもの」と考えてしまってよいものだろうか。私は極めて疑問に思う。子どもの主体性をそれほど尊んでよいものだろうか。

①犯罪を犯す者は、すべて「主体的」である

主体的とは、『広辞苑』が示すように、「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」である。世間で共有されている常識や道徳律によって「導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」が、主体的である。この論に従えば、窃盗、詐欺、殺人等の犯罪を犯す者もまた「主体的」なのである。だから、「主体的」であることが大切なのではなく、「主体性」「主体的」を望ましくコントロールすること、コントロールできることにこそ価値があるのである。「主体的」であることに子どもを導く前に、その主体性のあり方、方向性、善性をまず教えるべきなのだ。

このように考えると、Ⓐの「主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすること」というのが、子どもの時期には非常に大切なことになってくる。知識も経験も乏しい子どもたちが、ある程度の知識を備え、経験も積んだ教師によって指導された時には、「言われるままに行動する」謙虚さが極めて重要になる。生半可な「主体性をもたず」に「素直に受容する」ことこそが大前提ではないのか。

②「主体性」とは、基本的に「自己中心的」である

主体性というのは、辞書にあるように「他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」である。「他」よりも「自己」が優位に立つのである。知識や経験に乏しい子どもが、「他よりも自己を優位に」置くことは危険でさえある。それは、「我がまま」や「自分勝手」や「独りよがり」を助長しかねないからだ。

晩年の夏目漱石は「則天去私」という語を愛した。「天に則り、私を去る」、小さな私を去って、大自然の導きに従うという意である。漱石が晩年に到達した心境とも言われる。

「虚心坦懐」という語は、「心に何のわだかまりもなく、さっぱりして平らな心」の意である。また、公平で私的な感情をまじえないことを「公平無私」とも言う。「私心を去る」「いささかの私心もない」とも言う。「公私混同」は汚職の始まりでもある。

「主体性」は「私」と深くかかわる。

「主体性」「主体的」というのは、その根底に「私情、私心、利己」を置きやすい。それは、戦後になって急速に広まり、知られたいわば格好のよい「流行語」ではないのか。それに対して「私心を去る」「則天去私」「公私の別」などの教えは、「不易」の価値を持つ言葉だとは言えないか。

③「守、破、離」に学ぶ

日本古来の武道、芸道の修業過程をこの3段階で示すことは広く知られ、その真なることが共有されている。

「守」とは、「師や流派の教えを忠実に守り、確実に会得する段階」

「破」とは、「その教えについても考え、さらに発展させる段階」

「離」とは、「流派から離れ、独自の世界を生み出す段階」である。

言うまでもなく、小、中学校の義務教育のレベルは「守」の段階である。ここでは、まさに、私心や疑いや批判を去り、ひたむきに師や親からの様々な教えを身につけるべき段階である。つまらぬ「主体性」などによって、ひたむきな学びの心を曇らせてはならない。

④「主体性」が「主体」を幸せにするとは限らない

親も教師も、子どもの幸せを心から期待している。幸せな人生を送れるようにと希望し、願い、祈り、そのための様々な働きかけをしている。教育は、最終的には、学ぶ者をしてその人生を幸福に導くことに尽きる。

そのためには、努めて子どもの考えや、希望や、好みを尊重することが肝要だ、と考えがちである。つまり、「子どもの主体性」を尊重することが、子どもの将来の幸せを築く基礎になる、と考えがちである。戦後はこのような考え方が主流となり、「子ども中心主義」が広まった。

さて、そのようにして戦後の子どもは本当に幸せになったのだろうか。いつの間にか、「自分中心」「自己中心」の考えが身について、結局のところ「我がまま」「自分勝手」「独りよがり」の子どもが増え、やがては「不平や不満」を誘発、増幅させ、「反省」や「謙虚」を忘れ、「感謝」や「恵み」を知らないという「不幸」に導いたのではないか。

現在の日本というこの国の豊かさや、平和や、安全や、美しさに気づかず、気に入らないことばかりが目に見え、心に映るというのでは、つまりは「不幸」という他はない。しばらくは「私心」を去り、「虚心に」「謙虚に」、先生や親の言葉に耳を傾け、その言葉と愛を、「言われるままに」「主体性をもたず」受容していくことが大切であろう。つまり、「主体性をもたず言われるままに行動するよう指導すること」こそが、「道徳教育が目指す方向」であってよいのではないのだろうか。私にはそう思えてならない。

イラスト4

3 「多様な価値観」とは、成人の応用的判断力

Ⓑの内容は、要するに「多様な価値観を尊重し、考え続けよ」ということである。これも一見尤もらしく見えるが、さてどうだろうか。「時を守れ」「噓をつくな」「長上の言うことには従え」「親に感謝をせよ」「親の言いつけは守れ」「親を大切にせよ」「先生を尊敬せよ」「先生の言うことは聞け」「いじめるな」「盗むな」「親切にせよ」「優しい心を持て」「言葉遣いは正せ」「早寝、早起きをせよ」というような基本は、いつでも、どこでも、どんな時でも正しいのだ。

これらを正しいと「信じ」「守り」「続ける」ことによって「道徳心」が育まれるのである。こういう基礎を骨の髄まで染みこませるのが、小、中学校の道徳教育なのである。これらを信条とし、信念として生きる子が「良い子」であり、そういう子どもが「よき国民」「よき社会人」になっていくのである。間違いないことだ。

このような基礎を教えるべき時に、「しかし、こんな場合はどうだろうか」という「状況論」「例外論」「対応論」を持ちこむことはよくない。基礎が固まらない内に建屋を組み始めるようなもので、結局はその建物が早晩傾き、やがては崩れ落ちることになる。火を見るより明らかではないか。「多様な価値観」の前に、「確固たる基礎づくり」にこそ、我々は努め、励むべきではないのか。

私は、文部科学省の新しい学習指導要領のあり方に反対したり、新しい方向に難癖をつけているのではない。「新しい」ということにとかくひそみがちな、「危うさ」「未知」の部分にも眼を向けていくことの重要さを述べているのである。そういう配慮の下に新しい波を受けとめてこそ、本物の教育になる、と思うのである。「不易」の眼を以て、「流行」に対してこそ、ぶれのない実践になる、と思うからである。

何度も引いている格言だが、どうしてもここにも書いておきたい。

好きか嫌いかは、自分が決める。
良いか悪いかは、社会が決める。
正しいか正しくないかは、歴史が決める。

教育とは、「歴史」に対して責任を持たねばならない。今がよければ良いのではない。「流行」も大切には違いない。だが、それを「不易」の眼で見つめ、王道を歩む志を忘れてはなるまい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2017年7月号より

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