すべからく「根本」「本質」「原点」に返るべし【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第1回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
すべからく「根本」「本質」「原点」に返るべし【本音・実感の教育不易論 第1回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第1回目は、【すべからく「根本」「本質」「原点」に返るべし】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


1 隙間がないから磨擦が起こる

もはや半世紀余りの昔になる苦い思い出である。「子どもは邪気がない」「どの子もみんないい子」「子どもを信じる」「子どもは天使」などというおめでたい「子ども観」を持って教員人生をスタートした。「叱るまい」「責めまい」「いつも笑顔で」とも努め、それに応えるかのように5年1組はみんな「いい子」として私の眼には映っていた。私は、毎日が楽しく、充実していた。

──そう思っていた5月も終わりの某日、ある母親の言葉に絶句した。私の前ではいい子を装っているが、私のいないときのクラスは、ボスとそのとりまきの恐怖で自習にもならない。娘が学校に行きたくないと泣いて訴える、と言うのである。

信じ難いことだったが、翌日は授業を止めて実態の調査に取り組むと、母親の訴えは全て事実であることが判明した。私は、まんまと子どもに裏切られていた。私の軽薄な営みは、子どもからはせせら笑われていたことになる。自分のおめでたさと非力を私は思い知らされた。断崖から突き落とされたような屈辱を味わった。教育、指導、学級経営など、言葉自体は美しいが、所詮は、「断崖の上に立っているようなものだ。いつ崩れるか。いつ突き落とされるか分からない」──私は、自分のクラスを「断崖学級」と密かに呼んで実践の甘からぬことの戒めとした。

全ての責任は私にある。甘かったのだ。子どもに舐められたのだ。いい気になっていたのだ。子どもは決して天使なんかではない。「よし! 二度と舐められるようなことはすまい」「仏の野口」はやめた。「鬼の野口」になるのだ。是々非々。悪や弛みは容赦しない。体罰も辞さぬ。クラスを立て直し、どの子も安心できるよいクラスにせねばならぬ。

そう決意し、そう実行した。どうなったか。表向きは、見違えるように整然とした日々になった。だが、子どもの笑顔が消えた。天真爛漫、無邪気な言動が見られなくなった。子どもは、ボスには脅えなくなったが、替わって私に脅え始めた。そんな子どもが家に帰れば、体罰も加える担任への不満を親に告げる。当然のことだ。そうなれば、親もどこかよそよそしく、前のような親しげな表情を見せてはくれぬようになる。

子どもの為に良かれと考え、良かれと思うことをしていながら、全てが裏目に出、日々は重く、暗く、楽しくない。「思い屈する」という言葉があるがぴったりだ。

私は、この苦悩と失意と忿懣を、深く敬慕する名医、平田篤資先生に訴え、「先生、もう私は教員を辞めたくなりました」と言った。先生は、私の一部始終を聞いてくださった後で「そうか」と頷いて黙された。

やがて、「あんたは磨擦という言葉を知っているか」と、私に問われた。私の苦衷とは何の関係もない。「知ってます」と私は素気なく答えた。「ふうん」と頷いて先生は、「あんたは今磨擦を起こしているね」と言われた。何のことか分からない。憮然としている私に先生は次のように言われた。

磨擦というものは、隙間のない所に起こるのだ。子どもと、あんたの間に今は隙間がない。もし、1ミリでもあんたが子どもより高い所にいれば、磨擦は起こらないんだよなあ。

私は、はっとした。子どもと教師の間に隙間がない! つまりそれは「同じレベル」ということなのだ。そうか! そうだったのか。

先生は、さらに続けて言われた。

1ミリでも上にあんたがいれば、憎らしい子どもが可愛らしく見えてくる。煩い親が気の毒に見えてくるよ。

これが「目から鱗が落ちる」ということか、と私は思った。私は座り直してから、畳に手を突いて先生に申し上げた。

「有り難うございました、先生。目が覚めました。元気が出ました。明日から、また頑張れます。有り難うございました」

私は深々と頭を下げてお礼を述べた。重い足取りで先生のお宅をお訪ねした私は、帰りには足取りも軽くなった。「よし! 明日から、やるぞ」という勇気が湧いてきた。

イラスト1

2 枝葉の繁りは根幹作りから

半世紀もの昔のことで、平田先生もすでにこの世には居られない。往時茫々の感一入だが、あの夜のことを、私はその後何度思い浮かべたことだろう。

目先のことに目を奪われ、どうしたらよいか、どうすべきかという対処、技法に囚われていた私に、平田先生は根本的な哲学を示してくださったのだ。ターニングポイントという言葉があるが、まさにあの一夜が私のターニングポイントになったのだ。私が、「根本」とか、「本質」とか、「哲学」とかいう言葉に眼を向けた「原点」である。

子どものすること、なすことは、未熟で、不十分で、不満足だが、「それが子どもなんだ」「子どもだから」と思えば、「可愛らしく見えてくる」ようになる。怒りや憎しみの対極にある「愛」の心が芽生えてくる。ただし、「1ミリでも高くなれば」である。

親に対してもそうなのだ。決して自分を高みに置いて相手を低く見る心などないけれど、「そんな風にしか受けとめられないなんて、気の毒なことだ」という見方もできるようになってくる。憎悪の心が同情に変わるのだ。「思い方」によって「見え方」が違ってくる。同じ景色が、違う景色として眼に映じてくる。「観を磨く」ことこそが、教育者にとって「不易」の努めなのだとも言える。

枝葉末節、という言葉は、「物事の本質から外れた、些細な部分」と、広辞苑にある。いい言葉だ。春に芽吹き、若葉となり、青葉が繁る夏を過ぎる頃から、紅葉が始まり、やがて枯葉は落葉して、一枚の葉さえもない冬木立となる。常に「変わりつつある」のが枝葉や末節なのだ。

だが、幹や、根元は「不変」「不動」、それを支える地下の「根」は、幹よりも、根元よりも、さらに不変、不動の力強さを身上とする。このように考えてくると、改めて「本質」「根幹」「根本」などという言葉と文字の重厚さを思う。

常に変わり、常に動くのが、時流であり、流行であり、ブームであり、はやりである。そして、それらは常に「新しさ」を看板にして世に現れる。「新しさ」は、「古くさい」もの、「旧式な」ことを軽く見、見下げ、貶め、見下して優位に立とうとする。

その勢いや格好良さに多くの人々は心を奪われ、追随し、追従し、良きもの、良きことと錯覚し、大きな流れを作り、やがてうねりを伴って広まっていく。だが、所詮それらの大方は「枝葉末節」であることが多く、時間の経過とともに、次なる「新しさ」によって力を失い、姿を消し、やがて忘れ去られて消滅していく例が多い。

教育の世界にあっても、この盛衰、興亡、浮沈、生滅の現象はそっくり当てはまる。仏教ではこれを「諸行無常」と喝破した。

常に移り変わるこの世にあって、どう生きることが肝要か。どのように生きるように導くべきなのか。ここが考え所なのだ。

3 不易なものこそが肝要

戦後も70年余りが経ち、教育の世界でも様々な主張がなされてはやがて消えていった。私は、10歳つまり国民学校の4年生の時に敗戦を迎え、その後は戦後の教育を受けて育った世代である。

戦後の「新教育」は、「子どもの主体的学習」が導入され、5年生の時には先生は教えず、「自分たちで調べたことを発表する」という形態に一変した。墨塗りの教科書の外には、調べる本もなく、班ごとに訳の分からない「発表」をし、先生は「質問はないか」と問うが、誰も何も言えないので「はい、次の班」と言うだけの毎日だった。学力なんか全くつかない「新教育」の「経験主義」は、やがて「這い廻り」をやめて「系統主義」に移っていった。つまり、少しずつ昔に戻っていったのだ。

30年前には、「新しい学力観」が日本を覆った。教育や指導という言葉よりも、支援や援助という言葉がもてはやされ、知識や理解よりも、関心や意欲や態度が重視され、子どもを前面に立てる教育が流行した。「ゆとりと充実」もこの流れに続き、結局は学力の低下が問題となり、授業時数も指導内容も現在はその当時の逆になった。

最近は「アクティブ・ラーニング」という言葉が全国を覆ったかに見えたが、この言葉は学習指導要領には登場せずに終わったらしい。代わって「主体的・対話的で深い学び」というキーワードがこれからの学校に広がる気配である。

これからの約10年間、日本中の学校が「主体的・対話的で深い学び」一色になる。そして、それに合う授業ばかりが流行するが、これという実りのないままに10年後には必ず消えていくことだろう。それはまず、間違いない。これまでの教育現場の事実がそれらをすでに証明済みであるからだ。

不登校の児童生徒が減り、いじめがぐんと少なくなり、学力が向上し、子どもの非行や怠学が改善され、モンスターペアレンツも姿を消し、好き嫌いを言わない子どもが増え、子どもの基本的生活習慣が整い、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」「心身ともに健康な」「国民の育成」が「主体的・対話的で深い学び」から可能になるのだろうか。

残念ながら、私にはそうは楽観できない。このまま、従来のように、「新しさ」を求めつつ、「新しい流行」を作っていく教育からは、真の成果、真の充実は恐らく期待できまいと思うからだ。

「新しいものはだめだ」と言っているのではない。新しさを求めることも大切には違いないのだが、新しくはないが大切なもの、重要なことにこそ目を向けてもいかねばならないのである。

4 原点、不易への回帰

めまぐるしく多忙な学校現場の就労時間の過大、過重は、諸外国の教員とは比較にならないと報道されている。これ以上の労力的、時間的負担を増やすことは、無理だ。限界である。もしも、今以上に教員の努力を迫るなら、教員は、「家庭を壊すか、体を壊すか、頭を壊すか」しかなくなるだろう。

では、日本の教育の混迷には救いがないのか。どうしようもないのか、と問われれば、そうだ、とは言わない。必ず、日本の教育の改善、再興、好転、充実、発展は可能である。

それは、何によって可能なのか。一言で言えば、「枝葉末節の多忙」の正体を見極め、「根本、本質、原点」の充実を図ることである。換言すれば、「流行に流されず、不易なる価値をこそ、子どもに体得させること」である。「不易への回帰」が肝要だ。

根本、本質、原点、原理、原則、真理は必ずシンプルであり、誰にも体得可能である。それをさえ身に付けておけば、あらゆる時代、あらゆる事態への対応、活用、応用は可能なのである。根幹を強固に育てさえすれば、枝葉は自ずと繁るのだ。不易なるものを脆弱にして、流行に阿るの愚を犯してはならない。諸賢の批判を乞う。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2017年4月号より

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