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【シリーズ】高田保則 先生presents 通級指導教室の凸凹な日々。♯9 学校現場の「能力主義」とどう向き合うか?

連載
通級指導教室の凸凹な日々。 presented by 高田保則先生
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通級指導教室担当・高田保則先生が、多様な個性をもつ子どもたちの凸凹と自らの凸凹が織りなす山あり谷ありの日常をレポート。情熱とアイデアに満ちた実践例の数々は、特別支援教育に関わる全ての方々に勇気と元気を与えるはずです。今回のテーマは「学校現場の『能力主義』と向き合う」です。

執筆/北海道公立小学校通級指導教室担当・高田保則

はじめに

北海道のオホーツク地方の小学校で、通級指導教室の担当をしている高田保則(たかだやすのり)です。日々、子どもたちと向き合ってきた中で、感じたことや考えたことを記していきたいと思います。
なお、通級指導教室で出会った子どもたちの事例は、過去の事例を組み合わせた架空のものであることをご承知おきください。

今回は、『学校の能力主義と向き合う』というテーマで記してみました。私たち教員は、子どもの力を伸ばすことが仕事のやりがいの一つになっています。しかし、それが行き過ぎると、子どもや教員自身を苦しめることになりかねません。子どもの長所や持ち味を活かして、居心地よく学校生活を送ることができるようになった事例を紹介します。私たち教員が、取り組まなければならないことは何なのかを考えるきっかけになれば嬉しいです。

1能力を測る

私が担当する通級指導教室では、子どもの学び方の特徴を分析するために、WISCという知能検査を実施しています。知能検査は平均からどれくらい離れているかを測定します。100が平均で、測定結果が定められた数値よりも低かったり高かったりする場合、平均よりもゆっくり、あるいは早くその能力を獲得しているという結果になります。

知能検査で測っているのは、子どもの知的能力の一端に過ぎません。例えば、言葉の理解度を調べる言語理解指標では、子どもの語彙の多さや言葉の概念をどれほど理解しているかを測ります。言語理解指標が高ければ、理解力が高いとは限りません。その場の状況を見て考えたり、相手の性格や過去の経緯を察して適切な話し方を選んだりするのも理解力に含まれます。知能検査では、そこまで測れないのです。

2能力が独り歩きする

“もっと速く・もっと多く・もっと上手に”

そう願うのは、ヒトの本能だと思います。私のマイブームは、ベースギターの演奏です。「上手く弾けるようになりたい」と、時間を見つけて練習しています。ヒトは本来、自分の力を高めようと生きています。成長途上の子どもは、なおさらその傾向が強いと、日々接していて感じます。

ところが、本人の願いとは関係なく、知能検査の結果が独り歩きをすることがあります。すると、こんなことが起きます。 理解力が弱いからと言って語彙を増やす指導を始めたり、ワーキングメモリーが弱いからと記憶力を鍛えるトレーニングをしたり、コミュニケーションが苦手だからとSSTに取り組んだり…などです。特に、特別支援教育の場では、ともすると、そういった傾向が顕著になるのではないでしょうか?

苦手なことを無理強いされたら、誰でも嫌になります。私は字が下手です。「あなたの板書は、教員としてあるまじき汚さだから毎日練習しなさい。」と言われ続けていたら、私は教員を辞めていたかもしれません。

一方、平均よりも高い検査結果が出た子にも、奇妙なことが起きます。例えば、言葉の理解が優れている子が上の学年の漢字を練習したいと希望したり、直観やひらめきが優れている子が上の学年の算数の勉強がしたいと言ったりしたら、「まだ早い」と止められることがあるのではないのでしょうか? その子の学習意欲は削がれてしまうのではと危惧します。

3能力主義と向き合う

能力を重視して、人を評価することを『能力主義』と言います。企業の業務改善や働き方を考える場面で、その弊害が指摘され始めています。例えば、仕事の成果が出ないのは、特定の社員の能力不足とみなされてしまい、社員研修を強いられて、離職や病休に陥ってしまうなどです。

学校現場も、能力主義に偏る場面が多く見受けられます。とある学校の公開研究会の研究主題は、『子どもが主体的に学ぶ力を育てる』となっていました。「〇〇力を育てる」というフレーズを学校現場では、度々耳にします。例えば『主体的に学ぶ力』は、学習内容や学習環境に左右されるもののはずなのに、子ども個人の能力の課題になってはいないでしょうか?
また、『主体的に学ぶ力』を子どもに指導できないと感じて、自身の指導力不足に悩む教員もいるのではないでしょうか?子どもの「〇〇力」や教員の指導力って、どうやって測るのでしょうか?つかみどころのないものを追いかけて、子どもも教員もモヤモヤとした思いを抱いているのではないでしょうか?

4困りと評価

「字を書くのが遅い」「計算を間違える」「漢字が覚えられない」「自分の意見が言えない」etc.

私の通級指導教室を訪れる子どもたちは、自らの様々な困りごとを語ります。私はこれまで、子どもと一緒に困りの対処方法を考えてきました。それが通級指導教室を担当する自分の仕事だと思い、何ができるかを考え続けてきました。例えば、字を書くのが遅いと訴える子には、手先の器用さを高めるトレーニング方法を紹介しました。計算を間違える子の誤答を分析して、ミスを無くす方法を一緒に考えました。自分の意見を言えない子とはロールプレイをしたり、意見を書いてまとめる方法を紹介したりしました。

でも…最近、自分の仕事の考え方が揺らいできたのを感じます。

5困っている子の責任なの?

子どもが訴える困りは、その子の努力だけで解消すべきものなのでしょうか?

字を書くのが遅いと感じるのは、他の子と比べるからです。計算や漢字の困りは、テストの成績が芳しくない時に感じます。自分の意見が言えないとダメだと感じるのは、意見を言う子が褒められるからではないでしょうか?

子どもたちが抱える困りには、教職員の評価がべったりと貼りついています。学校は、何かにつけて子どもを評価しているのです。

「〇〇力が弱い」
「〇〇の力が伸びた」
「〇〇できるように指導する」

職員室では、そういう会話が当たり前のようにされています。子どもの実態を分析して、指導目標を設定して、手だてを考えるのは、教員の仕事の本丸だと思います。
でも……。

子どもを育む場であるはずの学校が、子どもの能力を評価する場に偏ってはいないでしょうか?
字を書くのが遅ければ、iPadのタイピングなどの他の手段があります。計算や漢字が苦手なら得意な子に手伝ってもらえばよいのです。ヘルプを要請できるのは、人生を生き抜く上で、とっても大切なスキルです。相手の意見を上手に聞いてあげれば、言った子は気持ち良くなります。互いの意見を言い放しで、かみ合わない学習活動よりも、よっぽど対話的な学びが保障されるでしょう。
子ども個々の書字のスピードや計算力や漢字力を底上げすることにこれほどのエネルギーと時間を注いで、一体どれほどの意味があるのだろう? と最近考えるようになりました。

6評価が個人内に偏っている

学校現場は、子ども個人の評価に偏り過ぎていて、集団の中でのその子の価値を評価する視点が弱いと感じます。そこを意識すると、協働的な学びを行う目的や意味がクリアーになるのかもしれません。

7能力主義の弊害

事例を紹介します。

Aさんは、一年生の時の担任の先生に言われた言葉を時々思い出してこう言いました。
「どうせワタシなんて、バカだから…。」

イラスト
イラスト:tunao ※この連載のイラストは、高田先生の教え子さんに描いてもらっています。

担任の先生は、ことあるごとにクラスの子どもたちに、こんな言葉を投げかけていました。

“これぐらいできなきゃ、小学生じゃないよ”

担任の先生は、子どもたちの学習を励まして発奮させる意味で言っていたのでしょう。でも、学習に苦戦する子どもは、その言葉が重荷に感じる場合があるのです。教員が、こうした類の言葉を子どもの前で口にする背景に、学校現場に根付く能力主義を感じてしまいます。それは、指導力というつかみどころのない能力を上げるようプレッシャーをかけられている教員の焦りから出る言葉なのかもしれません。

算数が苦手なAさんは、できないのは自分の力が足りないからだと思い込んでしまったのだと見立てました。一方、Aさんは手先が器用で、家事を手伝っていました。そんな素敵な持ち味が、能力不足の烙印で帳消しにされていたのでした。

Bさんは、学力が優秀で特に算数が得意でしたが、クラスから浮いていました。

「終わったら、好きにしていいんでしょ。」

それがBさんの口癖でした。授業で学習課題をいち早く終わらせると、数学クイズの本を読んでいました。

“先に終わった人は…。”

授業中の子どもたちに、作業終了後のすき間時間をつくらないために、教員がよく使う言葉です。それは、先に作業を終えた子に、残り時間は自分に与えられたご褒美だと感じさせることにもなりかねません。Bさんは、周りで作業が終わらない子がいても決して手伝おうとしませんでした。その態度がクラスメイトの不興を買っていました。Bさんがこのように考えるに至ったのも、学校現場の能力主義の弊害と言えるかもしれません。

8個性を組み合わせる

高学年になった2人は、同じクラスになりました。Aさんの算数嫌いは深刻になり、Bさんは相変わらずクラスに馴染めずにいました。

私と学級担任は、そんな二人を支援する作戦を考えました。AさんとBさんのペア学習です。

私はAさんに言いました。

「わかんなかったら、教えてもらえばイイんだ。Bさんに話をつけてある。ガッツリ教えてもらいなさい。」

学級担任はBさんに言いました。

「あなたの力で、算数が苦手なAさんを助けてくれないかな。」

Bさんは、算数の授業で練習問題を一番で解き終えるとAさんのところに向かいました。手取り足取り教えるのですが、算数嫌いのベテランのAさんが理解するのは、簡単ではありません。

「わかんないんだって! もっとわかりやすく教えてよ!」

Aさんが逆ギレしました。Bさんのプライドに火がつきました。家や図書室で算数の参考書を読んで、教え方を研究したのです。

イラスト2
イラスト:ranico ※この連載のイラストは、高田先生の教え子さんに描いてもらっています。

その結果、Aさんは、難しい単元のテストで60点を獲得しました。基本問題と文章題の立式でしっかり点数を取って爪痕を残しました。

Bさんは、算数の教え方が上手い奴とクラスに認知されました。授業中にBさんに教えを乞う子が増えていきました。でも、Aさんに呼ばれたら、すぐに駆け付けました。

「ワタシ、Bにお礼がしたいんだよね。」

手先が器用なAさんは、ミサンガを作りました。せっかくだから、クラス全員分を夏休みに作って、二学期にプレゼントしました。Aさんは、手先が器用な子としてクラスに認知され、図工や家庭科の授業のエースになりました。もちろん、Bさんが作品制作で困っていたら、すぐに駆け付けたのは言うまでもありません。

9協働的な学びの場としての学校

子ども一人ひとりが持つ長所や個性を組み合わせると、豊かで居心地のよい学びの場が創られていくのではないでしょうか? 様々な個性を持つ地域の子どもが寄り集まる公立学校だからこそ、協働的な学びが実現できるのかもしれません。そこに、インクルーシブ教育の可能性を感じるのです。

※文献 『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』 勅使川原 真衣/編著、野口 晃菜・竹端 寛・武田 緑・川上 康則/著 東洋館出版社 刊 

高田保則先生写真

高田保則先生プロフィール
たかだ・やすのり。1964年北海道紋別市生まれ。オホーツク地域の公立小学校教諭。公認心理師。特別支援教育士。開設された通級指導教室の運営を任され、新たな指導スタイルを模索している。趣味はバンド演奏。

イラスト/tunao, raniko

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