必ず1日に最低1回は直接声をかけ、すべての子供と関わる 【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」第28回】

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授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」

今回からは、文部科学省の学校DX戦略ICT活用教育アドバイザーを務める、鹿児島市立学校ICT推進センターの木田博所長に、どのようにして教師の道を選び、学級づくりや授業づくりの専門性を高めていったのか、またどんなきっかけでICTの活用を始め、その専門性を高めていったのか、についてお話を聞いていきます。

鹿児島市立学校ICT推進センター・木田博所長

教育実習時に、教えることの責任の重さとおもしろさを感じた

私が大学進学をどうするか考えていたのは、ちょうどバブル景気に差しかかる頃で、私も当初は経済学部か経営学部志望でした。社会全体の景気が良く、教員も含め公務員になる人に対し、「なんで公務員になるの?」と言われるような時代だったのです。しかし、残念ながら第1志望大学の当該学部には合格せず、地元大学の教育学部に進学することにしました。ただ、教育学部を出たら教員にならなければならないというわけではありませんから、卒業時にはトレーダーとか、景気の良さを象徴するような仕事につこうと考えていたのです。

ところが、大学入学後にたまたま勧誘されて入ったのが、キャンプ・カウンセラーというサークルで、子供たちを野山に連れていってキャンプをさせていたのです。もちろん日々、キャンプだけをしているわけではなく、レクリエーションをさせたり、グルーピングをさせたりもするわけですが、その経験を通して、子供たちが目の前で変わっていく(成長していく)ことの尊さ、おもしろさを感じるようになっていきました。

ちなみに、私の大学時代の専門は教育学でした。3年生で専門学科を選ぶときに、希望の教科は他にあったのですが、あまり熱心な学生でもなかったため、希望教科には倍率が高くて進めなかったのです。もちろん、当初は望んで進んだわけではありませんが、そのときにジョン・デューイやウィリアム・キルパトリックなどについて学んだことが、後々教員になって問題解決学習とかプロジェクト学習に取り組んでいく上で、非常に役に立ちました。

その後、教育実習に行き、教えることの責任の重さと同時におもしろさを感じたことが、教員になる大きな契機になったと思います。どうやれば、子供たちが授業に興味をもって入ってきてくれるか、どうやれば授業を通して「やった、できるようになった」とか、「こんな考えができるようになった」という喜びを感じてくれるようになるか。それを考え、工夫し、実際に子供たちがそう感じる場面に関われる仕事って、とても尊いし、おもしろいと思ったのです。

ですから、4年生のときにはもう他の仕事につこうとは考えず、教員採用試験を受けて教員になりました。高校の同級生のほとんどが民間企業に入り、給与も良かったですから、「何で教員なんかになったの?」という感じもあったのですが、私は少しも選択を間違えたとは思いませんでした。それくらい、教員という仕事はおもしろいと思っていたのです。

「みんなの前でほめなくちゃダメ」

子供たちの成長に関わることを楽しみに教員になったわけですが、どんなにこちらが思いをもっていても、最初から全部うまくいくわけはありません。特に初任時には学級づくりに関わることで困惑したことがありました。

鹿児島市では夏に水泳記録会というものがあったのですが、そこに出てがんばりたいと思い、希望する子には放課後練習の指導をしていました。そこに希望して参加した女の子が5人くらいいたのですが、その中にもう少しがんばらせるともっともっと伸びる子がいて、その子に熱心に指導していると、他の子たちから「私たちには指導してくれない」「先生はひいきをしている」と言われたのです。保護者からも、「うちの子はひいきされなくて、力が発揮できなかった」と言われました。私自身は、特に指導のポイントを押さえれば大きく成長しそうな子に、良かれと思って少し熱心に指導しただけのつもりだったのですが、結果的には他の子供や保護者から逆に捉えられてしまったわけです。

その経験を通して学び、すべての子供たちと信頼関係を築くために心がけるようになったのが、「どの子供にも毎日1回声をかける」ということです。できるだけ、どの子も授業の中心に立たせたいと考えていたのですが、授業中には下を向いていて顔を上げない子供ほど気になるので、そういう子にも声をかけていくのです。例えば、Aさんが下を向いていたとすると、Bさんの意見を聞いた後で、「へ~、Bさんはそう考えるんだ。じゃあ、Aさんはどう思う?」とAさんに声をかけます。すると、何らかの意見を言う場合もあるし、「そう思います」と相槌を打つ場合もあるでしょう。ただ、しゃべるのが苦手な子に無理強いすると、その教科や授業が嫌いになってしまうので、そういう子には、「Aさんも、Bさんと同じだと思う?」と投げかけるのです。すると「うん」と答えて、安心した顔になります。そのように声をかけ、子供たちの様子を見ていました。もし、そのときに表情がいつもよりも曇っていたとすれば、授業後に「Aさん、何かあった?」と声をかけていたのです。そうやって、必ず1日に最低1回は直接声をかけ、すべての子供と関わるようにしていました。

初任校時代ではないが、若手の頃の木田先生の授業の様子。

学級づくりで、この失敗以上に今も私の心に強く残っているのは、5年目に異動した2校目で最初に担任したある男の子のことです。その子の名前は自戒の念もあり、今も決して忘れていませんが、Cさんとしましょう。Cさんは人の言うことを聞かず、不規則発言も多い子で、今ならADHDか、あるいは自閉スペクトラム症も重なっている子だと考えられるような子でした。当時は、発達障害という言葉も知られていませんでしたし、私もまだ若手でしたから、とにかくCさんを抑えてちゃんとさせなければならないと思い、授業中にCさんを厳しく叱ることも少なくありませんでした。

すると12月の初め頃、突然Cさんがいじめを受けていることを知ったのです。それも私が気付いたのではなく、クラスの正義感の強い子が「Cさんがみんなにいじめられています」と言いに来たのがきっかけでした。そのとき、同学年を組んでいた経験20年くらいの先生からは、「木田先生、Cさんを叱っちゃダメだよ。Cさんはみんなの前でほめなくちゃダメだよ」と言われたのです。Cさんは、私の言うことは聞かないけれども、その先生のことは大好きで、言うことも聞くような状況でした。

後で考えれば、それは当然のことで、Cさん自身はちゃんとやりたいと思っているけれども、なかなかできない。できないから自己肯定感が下がっていくわけで、だからこそ「みんなの前でほめなくちゃダメ」なわけです。しかし、それが分からない当時の私は、ちゃんとさせようと思って叱る。常に先生から叱られているCさんを見ている子供たちは、「あの子は叱られて当然な子だ」と思ってしまうし、時には自分たちの授業を邪魔するおもしろくないやつだと思うから感情的に怒ったりもする。そんな状況をつくり出してしまっていたのです。

だからこそ、そういう子ほど「みんなの前でほめなくちゃダメ」なわけですが、当時の私にはそれがよく分かっていませんでした。子供たちを集めて「いじめはダメだ」ということも話をしましたし、先輩のアドバイスの意味も十分に分からないまま実践し、なるべくみんなの前では叱らないようにしてきましたが、結果的には、根本的な解決をしきれないまま、その1年間を終えてしまったのです。

その後は、次第に発達障害の知見が広がったこともありますが、私自身もそうした失敗を糧にして勉強もしましたし、子供に対する関わり方も考えたので、同様の問題が起こることはありませんでした。しかし、Cさんのことは、私の教師人生で最大の後悔なのです。

今回は、木田先生が教師を志したきっかけや、若手時代に学級づくりなどで失敗を通して学んだことを紹介しました。次回は、若手時代に次第に社会科の教科指導に力を入れていく間に学んだことを紹介します。

【授業づくり&学級づくり「若いころに学んだこと・得たこと」】次回は、10月13日公開予定です。

執筆/教育ジャーナリスト・矢ノ浦勝之

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