教育界の「不都合な真実」小論【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第54回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
教育界の「不都合な真実」小論【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第54回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第54回は、【教育界の「不都合な真実」小論】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 教育界の「不都合な真実」

最早30年もの昔のことになるのだから書いてもいいだろう。現在はとうに改善されていると思うからだが、果たしてどうか。

管理職対象の行政研修のパネル・ディスカッションの司会の形式的運営に疑問を持ち、そのアンケートに「司会者の司会技術が低い。司会者は技術を学んで欲しい」旨を書いた。今後の県行政のあり方の改善を願っての提言であり、その効を期待した。

ところが、である。私のアンケートがコピーをされて私の所属する教育事務所に届き、「貴管内に、こういうアンケートを書いた者がある。然るべく指導をされたい。」との添え書きがあったと、直々に「指導」を受けた。私は啞然とし、失望した。

別の話である。行政からのアンケート、あるいは調査が時々学校に求められるが、正直にその数値や実態を書くと、そのままは受け入れられず「指導」が入ることがある。珍しいことではなさそうだ。例えば、国旗掲揚、国歌斉唱、長欠やいじめの調査等々についてである。市町村教委、あるいは教育事務所レベルでは、その通りに上部に報告すると、上部からの「指導」が入りかねない。それはあまり歓迎できない。そこで学校現場に「指導」「助言」がなされる。いずれも悪意がある訳ではない。善意の指導ともとれる。正に、「善意」ではあろう。

次は栄進したてのある教頭の話である。格別の用件もなかったので土、日は出勤をしなかった。2、3か月経った頃に校長から問われた。「教頭は、土、日に学校に来たことがあるか」──と。「格別の用事がある時以外は参りません」と答えると、「私は、毎土、日に一度は学校に来ているよ。何か、変わったことがないかと気にかかるのでね」と校長が話したそうだ。

校長は「事実」を話したのであろう。そこに悪意があったとも思えないし、思いたくもない。だが、それを聞いた「校長の補佐役」である教頭の側としては心穏やかではあるまい。校長の言外に「教頭もそうすべきではないか」という「指導」の下心を感じない訳にはいかなかろうからだ。

言葉というものは、発話者の表現行動に伴う「影響力」を持つ。「格別の用事がある時以外は参りません」という教頭の答えも「事実」を伝えたのだが、校長はそこに若干の疑念と不満を感じとったのかもしれない。恐らくそうであろう。だからこそ校長は「事実」を話したのであろう。

教頭としては、今後、校長を見習って土、日にも「一度は」学校に出向かなければならなくなるとすれば「休日」はなくなる。これでは堪らない。「申し訳ありませんが、私はそこまではできかねますので、お許しください」と丁重に頭を下げた由。さて、私の考えである。この校長の「事実」に対して私はプラスの評価はしない。学校に出かける必要はない日だからだ。自分の好みでそうしているならそれは自由だからそれでよい。が、教頭に対して言うのは言葉というものの「影響力」を忘れた軽率である。

行政庁は学校の上部機関であり、校長は学校の責任者である。下部機関や部下は当然上部、上司の指示に従わねばならない。そうでなければ秩序は保たれず、それぞれの任務は乱れてしまうからだ。それは当然のことだ。そうであるべきが大前提である。

だが、そうであればこそ、「上部」の立場にある者の、見識、心構え、人格というものが重要になる。平たく言えば「リーダー」のあり方、「リーダー論」である。一般的には、然るべき立場に立つまでにはそれなりの経験や判断力、見識を積み、それなりの評価を受けたのだから、大きな問題を起こすことはない。大方のリーダーは、「大過なく」それぞれの任を果たして去る。

だが、人騒がせな「大過」は論外としても、「小過」はいろいろありそうだ。そして、日々の実践にかかわる部下の者にとっては、むしろ「小過」によって受ける、あるいは蒙(こうむ)る小さな事々、片々の方が重大ということもある。「部下」の身分が長かった私のあれこれ、あるいは見聞について、「本音、実感の教育不易論の一端」を述べ、考え合ってみたい。

2 リーダーの「不都合な真実」事例

①前述の3件への私見

まず、管理職対象の円卓討議の司会役への私の要望の件である。私の指摘は率直で建設的であり、今も同じ考えでいる。そもそもアンケートは「改善」を目指して来会者の考えを問うものである。主催者に求められるのは、改善への提言に対する謙虚な姿勢である。褒め言葉のみを期待するアンケートなら実施すべきではない。それは安堵と自己満足を生むだけのことだ。何の益もない。リーダー格、あるいはそれに準ずる立場に立った者は、常に「謙虚」をこそ自戒とすべきだ。

次は、アンケートの数字についての行政からの「指導」である。数字の裏付けを問い、確認するのは大切なことだが、行政の立場を守るための「保身的指導」には与する訳にはいかない。報告通りの上部への申告が生むかもしれない不利益については受けざるを得なかろう。そのことよりも、実情報告についての実質的な改善助言や指導こそが当局の課題とすべきことである。

3番めの、土、日も学校に来るという校長の言については、望ましくはきちんと校長と話し合うのが理想だが、それを望む肚(はら)がない校長であれば適当に対する他はない。

②部下の活躍に対する上司のあり方

さる校長に、その職場の教諭を校内の授業研究の講師に招きたい旨、電話での内諾を乞うたところ、「担任業務に専念させたいので不可」との返事に驚いた。私の実体験だが、この上司のあり方をどう見るか。

校長の任の一つに「部下を育てる」ということがあり、それは重要なことである。「教学相長」は『礼記』にあり、「教えることと学ぶこととは、互いに助け合う」の意とされる。講師として招かれれば、改めて学ぶことも大きかろうし、そのことによって担任としての力も高まり、伸びるであろう。「担任業務に専念」は当然の理、その上に磨き、学ぶチャンスが訪れたのを断る校長の考えに、私はリーダー性を疑う。狭量、小心の凡俗というのが私の解釈だが、こういう類は身辺に散見されるように思う。

出版社から原稿依頼があり、校務ではないので自己判断に基づき執筆し、掲載された。校長の指導も得たいと実物を見せたところ「今後は事前に可否を届け、社に送る前に念の為、私に見せよ」とのことだった。この一件、諸賢はどう考えるか。

こう言われた部下は元気を出すか。多分がっかりするだろうし、以後はこの校長の下では書くまいと思うだろう。部下を伸ばし、高めるリーダーではない。事前検閲は越権行為であり、憲法違反だとさえ思う。あるいは校長は善意だったかもしれないが、言葉の持つ「影響力」には気づいていないようだ。部下の成長を妨げ、邪魔をしているようにさえ私には感じられる。

もっとひどいことを言う校長もあった。「こんなことをしている暇があったら、もっと本来の校務に精を出して貰いたい」というのだ。校務に精を出すべき勤務中に原稿を書いたりした訳ではない。校務を何より大切に励むということの成果が認められた者にしか原稿は頼まれないものである。

一編の論文を書いて世に問う背後には、凡俗を超える努力と精進がなければならない。人並み以上の校務への没頭、実践、吟味がなければ、そして相応のレベルの評価がなされなければ原稿の依頼などされるものではない。ましてや、一冊の本を書くほどの事例、実践、手間、労力を体得するのは大変なことである。

単純な言い方になるが、論文や著書を出すほどの教員になるには、並の努力をしていたのでは不可能だ。また、発表をすれば多くの人の手に渡り、目に入る。その論文なり、著書なりの内容が低俗であれば読者は離れるだろうし、そうなれば出版社からの依頼も来なくなるであろう。そういう裁きは当然受けるのは覚悟の上だ。「こんなことをしている暇があったら、もっと本来の校務に精を出して貰いたい」という言葉にはがっくりする。「こんなことをしている暇」とは何事か。「もっと本来の校務に精を出して」とは、具体的にどういうことなのか。そんなことを言う校長にどんな「実践」や「実績」があったのか。

尤もらしいこれらの言葉の裏には、率直なところ、ひがみ、妬み、やっかみがあるのではないか。部下や後輩の活躍、評判、名声、実践、実績に遠く及ばないが、地位だけは間違いなく高い自らの尊厳を保ちたいだけのあがきともとれないことはない。

校長がみんなそうだと言っているのではない。少数ながら、そういう校長もいるという事実、そういうリーダーになってはいけないということが言いたいのである。

③いわゆる出世と無縁の優秀実践者

管理職や行政職に、当然ながら逸早く抜擢されて然るべき秀れた実践者の面々に、私はかなり多く出合ってきた。一度や二度の出合いではない。一編や二編の論文、一冊や二冊の著書との出合いではない。長年に亘り、正に肝胆相照らす仲であり、互敬の念ひとかたならぬ間柄なのである。

むろんのこと、行政も管理職も全く眼中になく、生涯担任、平教諭を貫く、という考えの下に教員人生を送った人も多い。それは初志を貫いた立派な生き方だから大いに賞すべきである。

だが、行く行くは、それなりのチャンスに恵まれれば管理職や行政の道にも進んでみたいという思いを持ちながらも、それが叶わなかったという例も少なくはない。いささか気がかりなので記しておきたい。

以下は、私的な立場からの、だが、長年に亘る私の解しかねる一件であり、私なりの想像もこの際記して批判を乞いたい。

教育界には「目立つ」ことは「目障り」だという不文律があるようだ。「努力しなさい」「頑張りなさい」という言葉に励まされ、努力し、頑張って「目立つ」ようになると、どこからか「目障り」にされ、俗に言う「干される」ことになる。そんな事例がいくつかあった。

本人の人格上の、あるいは言行上の逸脱や極端があったのならいざ知らず、そうではなく、ひたすら誠実な日々を送りながら、論文や著作を物し、講演にも招かれ、取材も受け、その結果「目立つ」ようになった実践者が、そのままある筋からは「目障り」と見なされ「干され」ていく例がある。

これらは、「謂れ無き差別」としか、私には思えない。そして、それは最も低俗な「ひがみ、妬み、やっかみ」の生む誤解、曲解の現象ではないのか。これは教育界に特有のとまでは言わないまでも、明らかに教育界にも多く存在する事実ではないか。

「主体性、自主性、自発性、創造性、個性、多様性」は、いつでも教育界の常用語として、主として子供に求められ、期待されているのだが、それを身を以て体現した者が「目障り」になって「干される」としたら、これはどう解すべきなのだろうか。

如上の事実、現象は、飲み会などではよく話題になるのだが、表立っては問題にされることはない。教育の不易の重大な問題点だと考えるのだがいかがか。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2022年春号より

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