先師・先達に学ぶ(その3) ー東井義雄先生の教育実践(上)ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第52回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第52回は、【先師・先達に学ぶ(その3) ー東井義雄先生の教育実践(上)ー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
1 貧困に苦しんだ少年時代
全くの個人的な思いなのだが、初等教育の実践者、教育者としてその筆頭に推したいのが東井義雄先生である。しかし、私は生前の先生に一度もお会いすることなく過ぎたので、殆どは書物を通じてその偉さ、素晴らしさを知ったに過ぎない。それなのにどうしても、私なりの東井義雄先生論を書かずにはいられない思いが消えない。あくまでも、「私なりの」思いであることを重ねて書いて稿を進めたい。
およそ、「◯◯記念館」と言えば、岡本太郎とか、野口英世、太宰治、横山大観とかという超有名人、超著名人に限られるのが通り相場である。小、中学校の教育に携わった人という立場でのそれは極めて稀である。その極めて稀な一つに「東井義雄記念館」がある。兵庫県豊岡市役所但東庁舎の一角にそれがある。
是非一度は訪ねたいと思いつつ長い間その機会がなかった。だが「念ずれば花開く」の言葉が示すように、ある読書会に招かれた折の「来月は東井義雄先生の記念館でお会いしましょう」という閉会の挨拶に仰天した。「仲間に入れるか」と問うと、数名分の空きがあるとのこと、早速その場で申し込んだ。家に戻ってから「一緒に行かないか」と知友に持ちかけるとすぐに数名が同道することになった。千葉、東京、大阪などからの教員仲間である。
当日は好天に恵まれ、素晴らしい一日になった。知友の『東井義雄の言葉』(致知出版社刊)の著者、西村徹先生に電話で訪館が叶うことになったと伝えると喜んでくれた。大阪からのバス旅であったが、名著の『村を育てる学力』のふるさと、そして東井義雄記念館、更には先生の生家、東光寺への道のりは大変な遠さであると共に、目的地に着くまでの道の狭さや屈曲の多さに驚いた。
私の家もかなりの田舎だが、その田舎育ちの私が驚くほどの山村である。とても自分一人では来れないなと思いつつ、思いがけない夢の実現に感謝せずにはいられなかった。
東井先生の少年時代について、先生は次のように書いている。
寺ですから、毎朝、御仏飯専用の小さな鍋でご飯を炊き、お供えするわけですが、そのお米を洗った白い水は、みんな、流さずに貯えていました。そして、大根を、米粒くらいの大きさに刻みます。それに、貯えてある白い水を入れて炊くと、刻んだ大根がご飯粒のようになります。その上に、パラパラッと、お米をふりかけ、少量の塩で味付けしたチョボイチご飯というのが、私たちの常食となっていました。見たところは、白いお米のご飯なのですが、大部分は大根でした。それを口に運ぶと、大根の匂いと白水の匂いが入りまじって、呑み込む度に、何か決心のようなものをしないと、素直に喉を通ってはくれませんでした。
山の中の小さな学校ですから、一年生と二年生を一緒にして、校長先生の奥さんが担任なさり、三年生と四年生を一緒にして若い先生が担任なさり、五年生と六年生を一緒にして校長先生が担任なさっていました。
その校長先生が、実にお偉い方で、私たちのやる気を湧き立たせて下さいました。私は、その校長先生のおかげで、この貧乏から脱出するためには、とにかく勉強しなければダメだと考えるようになりました。そんな思いから、五年から中学に進む決意を固めました。机など家にはありませんでしたから、乾しうどんのはいっていた木箱を貰い、それを机に、勉強しました。
これは、平成2年12月9日、NHK「こころの時代」で放送された内容を、平成21年『仏の声を聞く』(探究社刊)という書名で刊行された一節の引用である。
先に「その田舎育ちの私が驚くほどの山村」と書いたが、以上が先生の少年時代の東光寺の日常だった。だから、旧制の中学受験を父親に懇願しても許されない。「三日三晩坐り込みを続け」ると、「万一合格しても進学はしないという約束で受験だけ」許され、「四人に一人の合格率」を突破、合格するが、父との約束どおり「進学は断念」という少年時代である。「ぼんやり者の私でしたが、校長先生がスイッチを入れてくださったおかげでした。」と先生は書いている。東井先生の一面が解されよう。
私は、記念館を見学し、少し高台にある生家東光寺に到着し、眼下に開ける田圃の家々を見ながら、先生の少年時代の一節を思い出していた。無論、今では先生の少年時代とは比べものにならない変化を見せてはいたが、それでも、先生の少年時代を重ねて思い浮かべることはできた。私は何とも言いようのない感慨を味わう思いだった。
ここに引用した部分からだけでも、東井義雄先生のお人柄が伝わってくるように私には感じとれる。黄線部は、さりげない語りながらごく自然に見事に敬語が使われている。また、緑線部には、先生の巧まざるユーモアと楽天的なお人柄とが滲んでいるようだ。淡々と事実を述べつつも、恨みがましい口ぶりはどこにも見られない。
東井義雄校長の下で同僚として仕えた井上和昌先生は、後出の自著の巻末で東井先生の次の言葉を紹介している。
「井上さん、道はたくさんあるようだけど、一つしかない。自分がどう生きるかの道以外にない。テクニックじゃない生き方の問題だ。」そしてこの引用に続けて井上先生は、「東井先生のおことばは、私の一生の宿題と思っている。」と書かれている。
これらの引用は、「日本のペスタロッチ」と讃えられる東井義雄先生の偉さ、謙虚さ、誠実さを雄弁に語っている。改めて先生の大きさに感服せずにはいられない。
2 東井義雄先生の教育実践の概要
めまぐるしく変わる現代だ。東井義雄先生と言われてもピンと来ない人も多くなっているかもしれない。『東井義雄伝 ほんものはつづく つづけるとほんものになる』(㈱タニサケ刊)の著者、村上信幸先生による「どういう人か、そのあらまし」から借用して紹介したい。
明治45年、現豊岡市東光寺に長男として誕生。姫路師範卒。但東町の小、中学校勤務を経て八鹿小学校長で定年退職。兵庫教育大大学院、姫路学院女子短大各講師等計55年間に及ぶ教師生活を送る。
46歳、広島大学から「教育界のノーベル賞」とも言われるペスタロッチ賞。54歳で兵庫県から、58歳で文部省から教育功労賞。68歳、但東町から教育功労特別賞。69歳、勲五等双光旭日章。79歳、逝去。内閣総理大臣から従五位を授与。
平成4年、地元の但東町は東井義雄遺徳顕彰会を発足、記念館建設を全国に呼びかけ。平成6年7月、東井義雄記念館竣工。
単著、共著140冊、掲載論文雑誌900点。序文、解説等60点。『東井義雄著作集』ほかを常設、展示。
以下は私の個人的な印象に基づく東井先生の一端の紹介である。
先生は浄土真宗本願寺派東光寺に出生している。生涯を僧侶としても送ったことになる。浄土真宗の開祖は親鸞、称名念仏による他力本願を宗旨とする教団であるが、先生は、前出の著書『仏の声を聞く』からも分かるように、根底には仏教思想を置いていると私は見ている。先生の講演をテープで聞いたことがあるが、その中に「唯独り来て、唯独り去る。一随者無し。」という仏説無量寿経の一節があり、私は強く心を打たれた。「たった一人でこの世に生まれ、たった一人で死んでいくんだよ。誰一人として付いて来てくれる人なんかないんだよ。」という冷厳な悟りは、先生の「自分は自分を創っていく責任者」という言葉にも託されていると思われる。
また、先生の長女の迪代さんの「父の最期」(『仏の声を聞く』に所収)という一文には次のようなエピソードが書かれている。
- 子どもの頃、父とお風呂に入ると決まって、暗算に弱い私に「八と七は?」などと問題を出してくるのに閉口した。
- 宿題の計算問題をしている時、友だちが蛍狩りに誘いに来ると、苦手な暗算がうわの空で、ますます出来なくて叱られ、コンコンと鉛筆のお尻の方で頭を叩かれたこともあった。
- 少し成長してからは、実力行使はなく、「そこに座れ」から始まり、人として何を尊び、何を恥ずべきかを教えてくれた。
- 信仰については、少しの融通も利かない一徹者であり、一緒に暮らしている幼い孫たちのクリスマスも、私の子供たちの受験期の神だのみもいっさい許さなかった。
ここには、先生の著書や言動からは想像しにくい「一徹者」の面影が彷彿する。心の底には強い信念を貫く烈しさがあったと思われるが、それは親鸞の生き方に重なるものがあるのではなかろうか。このような烈しい信念があればこそ、その揺るぎない自信が、他者との交わりを穏やかなものにしたのではないか。晩年の東井義雄校長が過ごした八鹿小学校での6年間を小学生として送った西村徹先生に「一番印象に残る東井校長の思い出は何か」と問うたところ、西村さんは「いつも笑顔であったことと、よくごみを拾っておられた姿」と答えてくれたが、さもありなんと深く頷けたことだ。
次に、東井義雄先生の謙虚さに触れたい。東井先生は、実に謙虚な方で、それは卑下とも処世術とも無縁の、先生の人柄そのものとして私には映る。心の底からの謙虚さである。『仏の声を聞く』のp.11に「私は、ぼんやり者のくせに、強情で、欲張りで、素直さのない子どもであったようです。」という文がある。この文は、一見「謙虚」とは反対のように思われるが、そういう自分の欠点の開陳は「隠さず、正直に」自分を語るという「謙虚さだ」ともとれるだろう。親鸞は自らを「愚禿(ぐとく)親鸞」と言っていた。ポーズではない。だからこそ、自らの死後が地獄であったとしても「地獄は一定すみかぞかし」とまで言ったのだろう。徹底した自己凝視は、軽薄な「自己肯定感」などとは対極にある省察を生むに違いない。
東井先生は、自慢、高慢、自己宣伝、自己顕示などとはおよそ無縁の方である。だから、大東亜戦争の敗戦は大きな精神的負担となった。戦時下の自らの教育の実践を見つめ、恥じ、自己嫌悪に陥ったこともあったのか、しばらくは断筆の時期もあったようである。それもまた謙虚さの表れと解したい。生き方を器用に切り換えられる処世観の輩とは一線を画したその姿勢はやはり大きな魅力として映る。
また、先生は教育者としては、終始一貫子供本位を貫かれた。不朽の名著『村を育てる学力』には、子供の魅力が生き生きと子供の言葉で語られていて心打たれる。
東井先生は「生活綴り方」教育を御自身の実践の柱とされていた。だから、先生の著作には実に多くの子供の作文が登場する。子供の作文が東井先生の実践を紹介する力を十分に発揮して読む者の心に迫る。先生もまた御自身の実践を学級通信風に丹念に記録、公表され、多くの人を感化されていた。
(次回に続く)
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2021・22年12/1月号より