コロナ禍の学校閉鎖は学力低下を生むか(下) ー長いスパンで克服されていくものだー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第41回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第41回は、【コロナ禍の学校閉鎖は学力低下を生むか(下) ー長いスパンで克服されていくものだー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
6 国民学校1年に入学
昭和16年(1941)、国民学校令によって小学校は国民学校になった。初等科6年、高等科2年、合わせて8年間が義務教育である。「皇国の道にのっとる教育」を目指して教科書も全面改訂された。但(ただ)し、高等科は戦況悪化の為「無期延期」となったから、実状の義務教育期間は6年間である。
『日本歴史大事典』の中で寺崎昌男氏は、
(前略)行学一体、師弟一如等の理念が強調されたものの、実際には軍隊式の体罰・懲罰の横行、行事偏重などがみられた。(中略)近代戦としての総力戦に即応する人間形成システムの総合的再編を象徴する学校であった。
と書いているが、その教育を受けた私の実感とはかけ離れている。
「行学一体」「師弟一如」の「理念強調」は全く思い出にないし、さりとて「体罰・懲罰の横行」や「行事偏重」も実感にない。
私は、国民学校初等科1年入学が昭和17年で、戦況は2年生から急速に悪化し、4年生の昭和20年8月15日に敗戦によって無条件降伏となり、戦争は終わる。
戦争が終わったのだから「平和」にはなったのだが、国民の生活の窮乏はむしろ戦後の2、3年の方が大きかったのではないかと思う。私は房総の田舎の農家に育ったので飢えというものの体験はないが、衣類や食生活の日常はきわめて貧しいものだった。
国民学校は、敗戦による学制改革によって昭和22年(1947)3月を以て廃され、4月からはいわゆる6・3・3制の新制小学校、中学校、高等学校に変わる。私は、国民学校初等科に1年生から5年生まで在籍し、新制小学校6年生を卒業して、新制中学校1年生に進んだ。一言で言えば、私の小学生時代は、日本の最大の混乱期だったということになる。少し、その辺りの子供事情を書いてみたい。
本誌の読者の大方は、昭和36年以降に生まれた方々で、戦時下の事情については殆ど御存知ないだろうから、ちょっと想像がつかないことどもも多かろうかと思う。
7 当時の小学生の日常
今は、太平洋戦争という呼称が正式とされているが、当初の正式名称である大東亜戦争の勃発は、昭和16年(1941)12月8日である。
開戦後の1年間、つまり私が1年生の頃までの日本は、連戦、連勝の戦況にあったが、2年生になる頃から日本の戦果は苦境に傾いていく。4月に山本五十六連合艦隊司令官撃墜死、5月にアッツ島守備隊玉砕、9月イタリア降伏、11月タラワ島守備隊玉砕。明けて昭和19年(1944)6月北九州初空襲、7月サイパン島玉砕、10月那覇大空襲、神風特別攻撃隊初戦果、11月東京大空襲(以下略)という具合である。この頃から都会の子供たちの田舎への避難が始まる。いわゆる「学童疎開」である。因みに、疎開というのは、「空襲、火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること」である。学童疎開の始まりは、都会が次々に狙われて空襲が日常化してくることを見越した対応である。
田舎の学校にも、都会からの転入児童がぼつぼつ増え、学校の裁縫室や作法室などには「集団疎開」の学童が仮住まいを始めた。私たち田舎の子供は教室で勉強もできたが、集団疎開の子供たちは教室がそのまま寝起きする生活の場であったから、どんなふうにして暮らしていたのだろうか。学校以外にお寺でも集団疎開の子供らを受け入れているところがあったが、親元を離れて暮らす寂しさや悲しさにか、校舎の陰で泣いている子供の姿を見かけることがあった。子供心にも、それは痛々しく哀れでたまらなかったことを思い出す。
そして、田舎にも、警戒警報や空襲警報が毎日出された。警報発令は避難上の至上命令で、直ちに一切の仕事を止めて一斉に子供たちは防空壕に向かって走った。
防空頭巾は、当初は座布団を二つ折りにして片側を布で縫いつけるという簡単なものであったが、次第に工夫されてやや薄手の、首から肩の部分を二つに裂いた形に改良され、毎日それを持って通学することが決まりになった。どの家も、家の近くの地下に穴を掘り、警報発令とともにそこに逃げこんで入り口を塞いだ。
学校の防空壕は地面を50㎝ほど掘り下げた縦横5mほどの素掘りで、雨が降ると水が溜まって池同然になった。
生活上の日用品は極度に不足していたから、履き物は下駄か草履で、雨が降れば全員裸足で通学し、教室に入る前には「足洗い場」で土を落として校舎に入った。上履きなどは見たこともなく、誰もが素足で教室や廊下をぺたぺたと歩いていた。それが日常だったので、誰もそれを変だともおかしいとも思わなかった。
疎開によって転入してくる子供の中には裕福な子もいたので、長靴などを持っている子もいたが、それはむしろ贅沢な「非国民」のすることと見られる風さえあった。
唐傘は、竹の骨に油紙が張られたものしかなく、「こうもり傘」と呼ばれた布製の傘などほとんど見ることもなかった。紙も油も不足していたので、ぼろぼろに破れた唐傘でも大事に使っていたし、それを笑ったり、からかったりする者もなかった。
8 教師と子供の関係
先生方も適齢の男性教師は次々に出征していった。若い男の先生は、赴任すると間もなくいなくなるのがむしろ普通だったと言える。男性教師は少なく、若い女性教師が多かった。女学校を出ていれば、そのまま「代用教員」として教室に立つことができたのであろう。どの女の先生もみんなズボンの下を紐で結んだ「もんぺ」を穿いていた。さすがに素足ではなく、大方は草履を履いていた。
子供は、みんな純朴で、先生の言うことはよく聞いたし、言いつけをよく守っていた。反抗するような子供の姿は見たことがなかったから、先に引用した寺崎氏の「体罰・懲罰の横行」などという思い出は皆無と言ってよい。先生の言うことを聞かなければ危険が身に迫るような世情でもあった。
学級には「級長」がいて、級長の下に班長がいた。級長も班長も先生が決めていた。成績も行動も人格もさすがと誰にも認められるような子供が選ばれていたので、級長も班長もそれなりの自覚と責任を感じていたと思われる。級長や班長は模範生であり、そうでない子は班長や級長の言うことによく従っていた。
子供の親に対する態度も同様で、一般に親に逆らうような子は見られなかったし、何よりも子供は「素直であること」がどこでも、いつでも大事にされていたように思う。学級崩壊、家庭崩壊などという言葉も事実もこの世に存在していなかった時代である。だから、当時は、子供の「個性」や「主体性」や「自主性」などという考え方もなかったろうし、ましてやその「重視」や「尊重」などということも全く話題にさえなっていなかったと思う。
では、その頃の我々子供に、「個性」や「主体性」や「自主性」がなかったかと言えば、全くそんなことはない。級長、班長を始めとして、当時のどの子にも、それなりの個性的魅力や主体的な考えや、自主的な判断力は豊かにあって楽しかった。当時の子供になかったのは、「我が儘」や「意地悪」「自分勝手」ぐらいのものである。
先生方の「体罰・懲罰の横行」など見られなかったが、そういう必要がないほどに、暗黙の内に教師の威厳や権威が社会全体に共有されていたとも言える。
「個性」「主体性」「自主性」「多様性」「子供の人権」などということが声高に叫ばれるようになった敗戦後の今どきの子供の方が、戦時下の子供よりもむしろそういう資質に欠けているのではないかと、正直のところ私には思えてならないのだ。
9 子供の日常、子供と家庭
家庭の9割以上が農家であった田舎で私は子供時代を過ごした。子供も農家にとっては不可欠の労働力であった時代に私は育った。そのことに、今にして私は心から感謝している。子供中心ではなく、家庭中心、大人中心、教師中心の社会であったにも拘わらずである。
6月は田植えの時期で農繁期の頂点だ。学校は「田植え休み」を1週間毎年つくった。当時の我が家は、母が結核で隔離病棟に長期入院、父は教職を退いて単身家事、農事一切を引き受け、私は隣村の父の実家に預けられていたので、父は私の「田植え休み」を手ぐすね引いて待っていた。だから、私は幼い頃から、百姓仕事にかけてはかなりの仕事まで身につけて父の片腕になっていた。
秋は「稲刈り休み」が1週間、これも全力で農事を助けた。昭和20年の「夏休み」の校長訓辞を鮮明に思い出す。「夏休みではない。戦地で命をかけて国を守っている兵隊さんを助けるべく、小国民であるお前たちの夏は、夏季心身鍛練期間と呼ぶことになった。そのつもりでお国の為に尽くすのだ」。子供の夏季心身鍛練期間の課題は、山に入って松脂(まつやに)を採取して、毎朝学校に届けることであった。6年生のある女の子は、両手のバケツにいっぱいの松脂を集めて学校に持ってきた。そのあまりの真面目さに心底びっくりした。伊丹洋子さんというその少女の名前を今も覚えている。
この心身鍛練期間中の8月15日、日本は空前の「敗戦」を迎える。ラジオは私の家にしかなかったので、近所の人が多勢私の家に集まって玉音放送を聞いた。電波の受信性能が悪く、天皇陛下のお言葉は全く聞きとれなかったが、「戦争に負けた」ことだけははっきり分かった。空には一機の敵機も飛んでこなくなったからだ。
松脂取りも終わり、大人も子供も魂を抜かれたようになった。これからの先行きよりも、当面の終戦の安堵の方が大きかった。
10 学力低下はやがて克服されていく
さて、本題の「コロナ禍の学校閉鎖」は「学力低下を生むか」という問題である。それも、たかだか3か月だ。しかも、その日常生活には、空襲もなければ避難もなければ、飢えもない。往年の子供事情に比べれば、豊かな時代の「のんびり3か月」にすぎない、とは言い過ぎか。
我々世代が過ごした小学生時代は「恐怖と暗黒の数年間」である。その「失われた数年間」が及ぼしたであろう「学力低下」は、「コロナの3か月」とは比べものになるまい。
だが、と立ち止まって思う。我々世代がその後の社会人として、日本国民として、何か重大な欠陥や失態を犯したか、と言うと、どうも、そうとは言えないようである。狭く「教員仲間」に限ってみても、「我々世代」は四半世紀前に大量退職しているが、その世代の「教員の質」が特段に下がったということは、ついぞ耳にすることもなかった。いや、それどころか、我々世代の教育力の方が、現今の教師の力よりも高かったと明言する編集者もいるくらいである。
我々世代は、大きなハンディキャップを抱えこみながらも、いつの間にかそれらを克服してきたのだと思う。人間の生きる力はそれほどに強かなのだ。今の子供も例外ではない。だから、あまり神経質にならずに大きく広い心で子供の前に立ちたいものだ。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2020年9月号より