教員の資質向上実践論(中)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第20回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第20回目は、【教員の資質向上実践論(中)】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
3 教員の資質向上・私の実践
① 憧れる師を持つ
日本で初代の総理大臣で組閣4回、初代韓国統監を務めるなど明治政府の中心的存在として大活躍をした伊藤博文の師は、吉田松陰である。
幕末、松下村塾を開いて、明治の指導者を育成した吉田松陰の師は、佐久間象山である。
佐久間象山は、幕末の思想家、兵学者で、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らを育てたが、その師は儒学者佐藤一斎である。
家老の子、佐藤一斎の師は皆川淇園、林述斎である。淇園は書画をよくしたが、画業は円山応挙に師事して学んでいる。林述斎の師は細井平洲である。
それぞれの偉人、偉才は、例外なく師を持ち、師に学び、その才能を存分に発揮し、国家、社会の大いなる進展に寄与した。だが、もし彼らに「師を持ち、師に学ぶ」ことがなかったとしたら、恐らくその実力も花開き実を結ぶことはなかったに違いない。持つべきは憧れ、持つべきは師である。
「人古今に通ぜず。聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫(ひふ)のみ。読書尚友(しょうゆう)は君子の事なり」とは、著名な「家憲明訓」の中の一つ(「士規七則」吉田松陰)だが、深い示唆を得る。「聖賢を師とせざれば」は、「立派な人を師と仰ぐことがなければ」の意であり、「則ち鄙夫のみ」とは、「所詮は卑しく、粗野なままで終わる」の意である。その故にこそ「仰げば尊し我が師の恩」と「卒業の歌」では唱し、「三尺下がって師の影を踏まず」と格言を以て訓したのであろう。師に対する弟子はかくあるのが本来だ。
60歳で定年を迎えて小学校の勤めを終え、それからの私は、図らずも二つの大学で教鞭を執る身となった。その折に、「小・中学校の教員と大学の教員はどこが違うのか」と強い関心を抱き、それなりの観察をしたのだが、気づいたことの中で最も大きかったのが、「大学の教員は、多く師を持ち、師に学び続けている」という一事であった。「私は師を越えた」などと言う大学人には会ったことがない。師は弟子にとってはずっと憧れの座にあり、自らの学びの足りなさを悟っては学び続ける大学人の姿に心を打たれた。学び続けるからこそ「学者」なのであると悟った。
蛇足ながら、学者の「根本、本質、原点」は「自らの学びの足りなさを思っては学び続ける姿」そのものではないか、と思う。「学びの足りなさ」を「研究の足りなさ」と言い換えればもっと明快になる。だから、「学者」は「研究者」とも呼ばれるのであろう。「准教授」「教授」はそのまま「研究者」「学者」として認識されているのは頷けることである。
翻って小・中学校の教員の「研修」の実情はどうであろう。その最大の問題点は、教員自身が「自らの学びの足りなさ」の自覚に乏しい、という一点だと、私は考えている。大方の教員が、「何とかやれている」「これぐらいでまずまずは足りている」と考えている。つまり、「学びの不足」への謙虚な自覚が乏しい、というよりも未熟な子供に教える、という立場から、「そのくらいのことはできる」「特別難しいことを教えている訳ではない」という安易な、不遜、思い上がりがあるのではないか、ということなのだ。
こんなことを書くと、現場の教師の悪口のように受けとられかねないが、全くそれは見当違いである。悪口などではなく、本来的な「資質向上」というもののあり方を問題にしているのである。
例えば、教員の資質向上に最も大切なのは、教員自身が、まず教育書を読むということであろう。インターネットが取って代わった、というのも一つの理由にはなろうが、「検索」を主とするネット情報と、思索、黙考、吟味の為の「読書」とは「異質」と言ってもよい。検索と読書とは同一ではない。検索で足りるとすれば、それは、教育者が、思索、黙考、吟味を忘れ、目前の問題の「処理」で済ませてしまうということにもなる。山積する教育問題は「処理」では解決できまい。それほどに事は単純、簡単ではない。
また、教員の研修の大半、ほとんどが行政機関の「上意下達」によるものである。勤務時間の中で、出張旅費を受けとって、義務として学ばされるものである。「学びの不足の自覚」からの、選択可能な研修は極めて少ない。加えて、現場の多忙さはまさに日進月歩で増えているので、「できれば行きたくない研修」にも嫌々ながら出向くということになりがちなのだ。
自らの必要感や意欲に支えられない義務出張であれば、休息やいねむりもしたくなる。それでは大きな実りは得られまい。当然のこととも言える。ある会合で、「全てを有料の研修とし、参加者は自分の財布から500円でも1000円でも払わせたらどうか」と発言して不評を買ったことがある。だが、そうすれば「選択権」も認められるようになり、おざなりの研修からいささかの脱皮もできるのではないかとも思うのである。
自分自身、教師自身が「憧れの師」を持ち、師に少しでも近づこうとすることが「資質向上」の原点であろう。子供相手をよいことに自分自身が「お山の大将」になっていたら、学びの心は遠く、幽(かす)かになるのは避け難い。
私は、つくづく「師に恵まれた」と思っている。新卒の赴任校でPTA会長を務めておられた内科の名医平田篤資先生との偶然の出合いが、私の生涯を貫く師との出合いとなった。東京帝国大学医学部を出られた英才の平田先生からは、生涯に亘って大きく深い感化、影響を賜った。
また、自分の悪筆を恥じ、一生教員として過ごしていくにはこのままではいけないと一念発起して入門を乞うた、教え子の父君、書道の齋藤翠谷先生にもまた生涯に亘って大きく、深く、感化、影響を賜った。平田先生と齋藤先生とは大変親しい間柄であったので、私はこのお二人を師と仰ぎ、頻繁にお二人をお訪ねし、またお二人から随分可愛がって戴いた。
初任校が国語教育の実践校として近在に知られた伝統校であり、その専任講師は、当時の千葉県下ではトップクラスの高橋金次先生であった。国語教育を専攻した私を特別の期待をかけて指導してくださった高橋先生は、輿水実先生との出合いもつくってくださった。私の国語教育人としてのこの上ない導きをしてくださった。
平田先生、齋藤先生、高橋先生のお三方は、私の生涯を貫く恩師であったが、お三方とも今はこの世にない。だが、その教えは、今も私の中に脈々と生きている。
「人がこの世を去り行く時、手に入れたものは全て失い、与えたものだけが残る」という名言を改めて思い起こすことである。
今の私の師は、外科医であり、俳人でもあり、モラロジーのトップクラスの指導者でもあり、文筆家でもある三枝一雄先生である。20年以上に亘って毎月1回私宅にお招きして同志とともに総合道徳科学、人間学について教えを戴いている。お会いする度に尊敬の念を深める素晴らしい先生である。
教員の資質向上は、常に教育界の大きな課題だが、「憧れを抱く」「師を持つ」という、謙虚な求道心、向上心の育成という根本策を忘れてはいないか。現在の、目前、小手先本位の技術向上策に偏った研修法では、大きな実りは得られまいと思われてならない。
② 本を読むという研修法の不易
身近にそんなに立派な、あるいは憧れたくなるような「師」は見当たらない、ということもあろう。しかし、それは身近にいる「師」に気づかないだけのことではないか。それほど自分が立派なのか、という自問も必要であろう。
不患人之不己知 患己不知人也『論語』
「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患(うれ)うるなり」──人が理解してくれないと悩むのでなく、自分が人のことを理解できないことを悩むべきだ──の意。
誰にもありがちな、自分中心の傾向を衝いた名言である。常に努めて人は「謙虚」でありたいものだ。
そこで「読書」である。著書にもぴんからきりまであるが、優れた聖賢の著書は時空を超えて色褪せることなく人々を高く、深く、豊かに導いてくれる。聖書や経典の類は、実に2000年の世を経てもなお一字一句改められることなく現代の人々をも救い続けている。古典の力は偉大である。
生身の人を師にする具体的な感動や楽しみに比べれば、書物は何とも無愛想な黒い染みの連続に過ぎない。声も、表情も、動きもない。本は、ただ無機質な文字記号の連続であるに過ぎない。
その無愛想で何の変哲もない黒い文字群を一つずつ追いながら、時に頷き、時に笑い、時に涙ぐみ、時に怒りが込み上げる。これらは文字の力ではない。文字を読んで理解する人の力である。全ては人の想像力によって生まれる尊い所産である。この想像力を高めるのが読書の第一の効用であり、想像力の向上が読書を楽しみにしてくれる。また、結果として、知識や教養を豊かにすることもできる。
また、読書とは、読者と著者との対話を促す。決して出合うことのできない故人、外国の人物、そして途方もない豊かさと怜悧な頭脳や思索の持主とも出合えるのが読書である。一流の人物は、例外なく一流の読書人である。逆に、全く本を読むのが苦手という人物で一流の人物という存在は極めて稀である。
質の高い本ほど安価なものはなく、質の高い書物ほど読み手を高みに導く存在はない。いつでも、どこでも読み始められるし、いつでも、どこでも読むのを止めることができる。自分の生活、体力、状況に合わせて自由に学べるのが読書の大きな強みである。
若者や子供だけでなく、現代人は一般に「読書離れ」が大きいと言われているが、残念かつ深刻な問題である。パソコンによって当座の必要は満たされはするが、それは断片的かつ底の浅い片々の知識、情報に過ぎない。やはり一冊の本をじっくりと読み、眼を通し、考えを深める読書には敵わない。
私は小さい頃から本が好きで、常に読書を楽しんできたが、先述の内科医平田篤資先生によって読書への新たな眼が開かれた。平田先生は、一流の読書人でもあった。
先生が読まれた本の中で心を打たれたものがあると、私にも読むようにと貸してくださるのが常だった。先生は必ず心を打たれた所には赤線を引くようにされていた。その赤線を引かれたところの意味を考えることで、先生の読書のありようを推測するのが楽しみであった。
ある時、英国の細菌学者でペニシリンの発見によってノーベル生理学・医学賞を受けたアレキサンダー・フレミングの伝記を貸してくださったことがある。ところが、これがちっとも面白くない。途中で続きを読むのをあきらめ、先生の赤線部分だけに眼を通すことにした。ところが、どうにも腑に落ちない、下らないところに先生が線を引いていて驚いた。しかも二本線だ。
(次回に続く)
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2018年11月号より