コロナ禍で見えてきた特別活動の可能性 ~予測困難な時代を生きる子どもたちに、必要な力とは~ 〈最終回〉
コロナ時代に、特別活動がどのように立ち向かっていくか。コロナ禍で見えてきた特別活動の可能性のヒントを、「第16回夏季学級づくりワークショップ 希望の会熊本ミーティング」のパネルディスカッションから、4回に分けてダイジェストでお届けします。今回はその最終回です。
第16回 夏季学級づくりワークショップ 希望の会熊本ミーティング(2021年8月8日オンライン、リアル参加併用)より
主催 熊本県小学校教育研究会 特別活動部会 特別活動「希望の会」
パネリスト/
杉田 洋・國學院大學教授
脇田哲郎・福岡教育大学教職大学院教授
平野 修・熊本市立帯山西小学校校長(ファシリテーター)
連載「コロナ禍で見えてきた特別活動の可能性~ 予測困難な時代を生きる子どもたちに必要な力とは」
⇒第1回
⇒第2回
⇒第3回
目次
世界とつながるGIGAスクールの可能性
平野 GIGAスクール構想の可能性として、AIやICTをどのように使っていくとよいと思われますか。
杉田 文部科学省が、日本式教育の海外輸出のための事業(EDU-Port)に採択された会社では、その予算を使って「国際学級会」ができるようなシステム開発ができないかと考えました。子供が日本語でしゃべると、英語になったり、アラビア語になったり、中国語になったりどんどん変換して、「出しあう―比べ合う―まとめる」というように黒板に反映できるようにしたらどうかというような案でした。国際会議の子供版のようなものです。しかし、いろいろ考えてみると、現在のGoogle翻訳とZoomのようなものを組み合わせればそう遠くない時期に実現するもので、わざわざ開発する必要があるのかということで、その案は変更されています。AIはそこまで進化しつつありますし、ICTを利用することで、そんな夢のような会議ができたらいいなぁと思っています。
平野 脇田先生はどう思われますか。
脇田 学級会は学級の友達と学級生活の向上に関する問題を話し合い解決します。AIを使えばこの問題が明確に見えてきます。例えば、テキストマイニング(株式会社ユーザーローカル)というツールに、アンケート結果を流し込むと、子供たちがよく使っている頻度の高い言葉が大きく表記されます。ある学級のアンケート結果をこのツールで調べると「話しかけづらい」「怖がっている」という言葉が大きく表記されました。この学級では、なぜ話しかけづらいのか、誰に怖がっているのかを計画委員会を中心に学級会を開いて問題を解決することができます。これからは、学級会ポストだけに頼って問題を集めるのではなく、子供たちの内側に在る問題意識をAIによって深く探ることも可能になってきます。
個別最適化と協働的な学習の両方を行う
平野 令和の日本型教育の中で「個別最適化」と「協働的な学習」という2つの重要な言葉が出ています。これまで、特別活動においては、「協働的な学習」の場としての意味合いが強かったように思われます。今後、特別活動の実践において個別最適化をどのように捉え、協働的な学習との調和を図っていけばよいのか、脇田先生は、どのようにお考えですか。
脇田 個別最適な学びができる子供は、自ら学んだり、考えたり、取り組んだりすることができる子供です。また、協働的な学びができる子供は、自分たちで多様な人と力を合わせて様々な問題を解決していく子供です。このような子供は、 特別活動がこれまで重視してきた「自発的、自治的な子供」や「自主的、実践的な子供」を育てることと重なるところが大きいのです。特別活動は、現行の学習指導要領の趣旨を生かすためにもなくてはならない教育活動です。
平野 個別最適化と協働的な学習について、杉田先生はどう思われますか。
杉田 その言葉は教科を意識したもので、すでに特別活動から離れているような気がしてなりません。特別活動は、協働学習と言うより、協働生活です。まさに、人間は、狩猟民族から農耕民族になって定住するようになり、役割を分担し、協働生活をするようになり、社会がつくられ、国家が誕生していく。その後は、国と国の争いの時代が長く続いてきたのです。また、多くの地域では、魔女狩りのようなことが行われ、日本でも村八分のようなことも行われ、違いを排除することで集団をまとめようとしました。
しかし、昨今、多様性を認め合うことで共生しようとすることが本来、人間の社会としての在るべき姿だと考えられるようになり、いかに一人一人の尊厳が無視されず、共に幸せに生きていく社会の構築ができるかが問われてきているのです。
個別最適化は、個別学習、個々に合った指導などのように矮小化して捉えている人が多いと思いますが、私は、あくまで集団の中で多様性に配慮し、一人一人を大切にすることを意味していると捉えています。そういう意味では、特別活動は、一人一人を大切にする個別最適化とともに、そんな違いや多様性を受け入れ、認め合って協働的な生活づくりや暮らしづくりを目指すことをねらいとしているのです。例えば、学級活動(2)や(3)では、「あなたはどうしたいのか、どうなりたいのか」と問い、一人一人の意思決定を大事にしていますし、学級活動(1)では、「あなたたちはどうしたいのか、どうなりたいのか」と問い、楽しく豊かな学級や学校生活を創るために、なすべきことなどについて合意形成を図り、総意を導き出し、みんなで役割分担しながらその実現を目指していこうとしているのです。
授業としては、この「意思決定」と「合意形成」は、峻別して指導されていますが、実際の生活の中では全く別々のものではありません。そう考えると、今後は、学級活動(2)や(3)で意思決定することを中心としつつも、みんなで共に努力すべきことを合意形成するような指導をすることも考えられます。また、学級会において、みんなで合意したことに基づき、一人一人が努力すべきことを意思決定するような指導も考えられると思います。
人は自分のためだけに生きられないし、自分のためだけにはがんばれません。家族や社会のためにこそがんばれるものです。意思決定と合意形成という機能の両方を大事にすることで、個別最適化と協働的な生活づくりの両立を目指したいと思います。
ところで、私は野球型よりサッカー型のほうが「社会」に近いと思っています。野球型は、監督がサインを出して、選手はそれに従ってプレーをします。しかし、サッカー型は、監督の戦略を理解しつつも、それぞれが自分自身で考えながらプレーします。会社や社会におけるリーダーとメンバーの関係に近いと思います。そのときに、社会のために個が犠牲になってもよいのか、個を優先して社会がばらばらでいいのかと考えれば、個々人にとっても、また社会にとってもよいというような、職場、地域・社会、国家などの有り様について、再認識していく必要がありそうです。
特別活動を教育活動で行っている「よさ」を再確認する
杉田 教員の力だけで学級集団をつくるというのは、少し違うのではないかと思います。子供の自由に任せたら、ばらばらになるということなんでしょうが、民主主義と言うのはひ弱でまとまりにくい感じがするけれど、理想はそこにあると思います。民主主義がなくなると言論の自由がなくなってしまうからです。ものが言えない社会はつらいことでしょう。ものが言えるというのは、話合いが成立するし、どこかで折り合いが付けられる可能性があるということです。それを特別活動は愚直にやるべきだと思います。
話してもわからないなら、話さなければもっとわかりません。わからないことをわかったほうがよいし、口先で弱いものを助けるべきだと言ったり、作文に書いたりしても、実行しなければ、机上の空論に過ぎません。特別活動の力は実践だから、決めてやりとおすこと。意思決定と合意形成を組み合わせていくことが、とても重要なことだと思います。
平野 脇田先生、意思決定と合意形成についてはどのように思われますか。
脇田 人は、言論の自由を奪われるとそのことに強く抵抗しようとします。そのことは、歴史的にも明らかになっています。特別活動の目標の冒頭に示してある「集団や社会の形成者」とは、平和で民主的な国家をつくろうとするよき市民としての基礎を育成しようというものです。特別活動は、10年後、20年後の子供たちのあるべき姿を目指している教育活動なのです。日本に特別活動が根付いているところに日本と言う国のよさがあります。また、他の国からも特別活動は注視されています。私たちは、教育課程に特別活動が位置づいているという意義を再認識し、積極的に取り組んでいくべきだと考えます。
平野 お二人の先生の話から、私たちは、今後の実践において、今一度、特別活動のよさを再認識し、子供たちのための教育活動の推進に力を注いでいく力をいただいたような気がします。本日は、どうもありがとうございました。
杉田 洋 國學院大學教授
脇田哲郎 福岡教育大学教職大学院教授
平野 修 熊本市立帯山西小学校校長
特別活動 希望の会とは
特別活動は、極めて重要な活動だと考えています。しかし、それが必ずしも全国での研究熱や実践に結びついていないことに危機感を感じています。特別活動「希望の会」は、特別活動に取り組むすべての人々をつなぐネットワークです。
ホームページ:https://kibounokai.web.wox.cc/
取材・文・構成/浅原孝子