クラスづくりに役立つ「道徳授業」の実践例|沼田晶弘の「教えて、ぬまっち!」
斬新な教育実践で話題のカリスマ教師・沼田晶弘先生。 今回は「学級経営に役立つような、道徳の授業の実践例を教えてください」という質問に答えてもらいました。
目次
日常生活で起きた出来事を道徳の授業にする
道徳の授業は、副読本をしっかり使うときもあるけれど、多くの場合は日常生活で起きた出来事を題材にしている。
例えば、ボクの学校はバスで通学している子が多いから、GPS機能がついた携帯を持ってきている子も多い。そして、学校の規則では「通学中は携帯をカバンから出してはいけない」ということになっている。しかし、バスに乗っている時に、お母さんから電話がかかってきた。
そんなときにどうすべきか?
こんなふうに、日々起きる出来事の中に「問い」を立てて、道徳につなげていく。
通学中に電話が鳴ったら子供は気になるだろう。しかし、登下校中の通話は学校の規則で禁止されている。もし学校の規則を破って電話に出てしまったら、「携帯禁止」になるかもしれない。でも、もしかしたら大事な用事かもしれない。そして電話に出ないとお母さんに怒られるかもしれない。どうしよう…。
こうした誰にとっても起こりうる出来事を取り上げ、どうすべきか考え、議論させる。これも立派なモラルジレンマ授業だよね。
休み時間のケンカを教材化し、解決策を議論させる
考えてみれば、日常生活は道徳的なことが多いので、そういうことを題材にしたほうが、子供にとっても自分事として捉えやすい。
例えば休み時間にサッカーをして遊んでいるとき、相手のチームがゴールしたら、敵チームの子供たちは「オフサイド」だとか「今のはファールだ」とか言い出し、ケンカになった。こうした日常的なトラブルを共有し、どうすべきだったのかを話し合わせることも道徳につながるよね。
そもそも子供たちの遊びの中で起きるトラブルは、相手の立場で考えず、お互いの言い分ばかり主張し合っているから収まらない、ということが多い。
だから「なぜこんなケンカになったんだろうね?」とか、「どうして今、こういう問題が起きたんだろうね?」と問いかけ、「どうしたらよかったんだろう?」とみんなで考えることが大切だ。
「プロの試合には審判がいて、反則かどうかをジャッジする。でも、休み時間にやるサッカーは遊びだから、審判はいないのでセルフジャッジをしなくてはいけない。そしてセルフジャッジだと、お互いに勝ちたいから、自分に有利なことしか言わなくなる。だからケンカになるよね」という話をしてトラブルを整理し、「こういう問題は必ず起こる。だからどうしたらいいかな?」と考えさせる。
こうした話合いを積み重ねることで、「自分はこうしたい」と思っても「相手にもこうしたい」という思いがあり、どっちも主張しているだけでは絶対に上手くはいかないから、解決するためには、どちらかが譲るか、2人で考えた新しい方法を見つけるしかないと気付く。そして、「相手はこう思っている。でも、自分はこう思っている。それなら、こうしようか」と話し合いながらお互いに納得解を見出せるようになれば、トラブルがあっても自分たちで解決できるようになるだろう。
解決策を見つけるだけではなく、本質を深く考えることが重要
前回紹介した、ガチのドロケイの遊びでも、どうしたらケンカが少なくなるのか何度も子供たちに話し合わせた。そして子供たちは「本気でやればトラブルは必ず起きる」ということに気付き、トラブルが起きた場合の解決方法をルール化した。だから子供たちが作ったルールブックには「トラブルが起きた場合、30秒以内に解決できなかったら退場」と書いてある。いまもタッチしたとか、タッチされてないとか揉め事は起きるけれど、30秒以内にリセットされるようになったのでケンカの数は激減した。
ちなみに、「揉めたらジャンケンで決着をつける」という案もでたけれど、それにはボクが反対した。
なぜかと言えば、もしワザと空タッチをした子が、タッチをしていないのに、「タッチをした」と言い張って揉めたとしよう。もし「ジャンケンで決着する」ということになれば、嘘をついても、2分の1の確率でタッチしたと認められることになる。それでは真面目にやってるほうが損をすることになりかねない。
「そんな解決策は認められないよね、じゃあ、どうする?」と言って他の案を考えさせたんだ。
安易な解決策に落ち着きそうになったら、教師が別の視点を与え、考えを深めさせることも時には必要だと思う。
副読本を使う時には、多様な視点を与える
副読本を使うときには、多様な視点を与えることを意識している。
例えば、「転校した友達から手紙が来ました。切手代が3円足りませでした。それを友達に言うべきか言わないべきか」というテーマだった場合。道徳的な視点で言えば、「間違っていることは、相手のためにも教えてあげるべき」という結論が正解だとしても、「せっかく手紙をくれたんだから、切手代くらいは払ってあげてもいいという人もいるし、その考えも間違ってはいない」ということも伝えるようにしている。
実際、実社会では、「伝えるべきか、伝えないべきか」の2択ではないし、伝えるとしても、「どう伝えるか?」のほうがずっと大事だ。
道徳的な本を読むときも、いろいろな視点を与えて考えさせるようにしている。
例えば「そらまめくんのベッド」( なかやみわ著/福音館書店)という絵本。そらまめくんは、雲のようにふわふわでやわらかいベッドが宝物。そこに、えだまめくんやグリーンピースのきょうだいたちが、「そのベッドでねむってみたいな」と言いに来る。でもえだまめくんは「だめ、だめ」と言って貸してくれない。でもある出来事によって、そらまめくんはベッドをみんなのために使う価値に気付き、最後は自分のベッドにみんなを招待して一緒に眠る…というお話。この本を読むと、「そらまめくんはやさしくなったね」「独り占めするより、みんなで使う方がよいよね」という結論になりがちだけど、ボクは、「ちょっと待って。そらまめくんにとってこのベッドは宝物なんだよね。そんな大事なものを君たちなら人に貸してあげられる?」と問いかけてみる。
「ベッドを貸してあげないそらまめくんだけが悪いの? そらまめくんがベッドをとても大事にしていことを知っていて、『ボクも寝かせて』なんて言う友達も自分勝手だし、そこにも問題はあるんじゃない?」などと問いかけ、議論させてみる。そして「視点を一つ切り替えれば、全てが変わって見えてくる」ということを経験させ、いろいろな見方を学ばせる。
いろいろな方向から、いろんな人の立場に立って考えさせることで、今後の自分の行動のヒントを得ることができるだろう。こうしたことも道徳につながるはずだ。
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沼田晶弘(ぬまたあきひろ)●1975年東京都生まれ。国立大学法人東京学芸大学附属世田谷小学校教諭。東京学芸大学教育学部卒業後、アメリカ・インディアナ州立ボールステイト大学大学院にて修士課程を修了。2006年から現職。著書に『「変」なクラスが世界を変える』(中央公論新社)他。
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取材・構成・文/出浦文絵