被災地の学校関係者へ|鈴木利典 東日本大震災の経験から 【<能登半島地震>震災経験者からのメッセージ 子供の心を守るために #3】

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<能登半島地震>震災経験者からのメッセージ 子供の心を守るために
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<能登半島地震>震災経験者からのメッセージ 子供の心を守るために 第3回 学校は子どもたちの大切な居場所 被災校は「明日も行きたくなる」学校づくりを

2024年1月1日 16時10分ごろ、石川県の能登半島で震度7の地震が発生しました。まずは被災された皆様に心より御見舞を申し上げます。被災地の状況は時の経過とともに変わっていくと思いますが、学校が大事にしなければならないのは、子供と先生たちの心ではないでしょうか。それらを守るために被災地の学校が何をする必要があるのかを、過去の震災経験者の先生方から聴く3回シリーズの最終回です。今回は東日本大震災から1年後に、最も被害が大きかったとされる地域の中学校の校長となった鈴木利典さんにお話を聴きました。

鈴木利典氏

鈴木利典(すずき・としのり)
1959年岩手県一関市生まれ。岩手大学工学部卒業後に教員となり、陸前高田市立広田中学校、同第一中学校、大槌町立大槌中学校等を経て、大船渡市立越喜中学校教頭、岩手県立総合教育センター情報教育室長、大槌町立大槌中学校・陸前高田市立気仙中学校・一関市立巌美中学校の校長を歴任。2020年に定年退職し、現在は一関市教育委員会ICT指導員として活動しながら、情報モラル×復興教育をテーマに全国で講演活動も行う。著書に『子どもたちは未来の設計者〜東日本大震災「その後」の教訓〜』、『3・11震災を知らない君たちへ』(いずれも、ぱるす出版)がある。

本企画の記事一覧です(全3回予定)
 被災地の学校関係者へ|多賀一郎 阪神・淡路大震災の経験から
 被災地の学校関係者へ|桃﨑剛寿 熊本地震の経験から
 被災地の学校関係者へ|鈴木利典 東日本大震災の経験から(本記事)

能登半島地震を受けて、現在の気持ちを聞かせてください。

東日本大震災のとき、私は花巻市にある岩手県立総合教育センターに勤務しており、家も内陸にありましたので、震災後は支援者という立場で様々な被災地に入りました。そして、地震から1年後に大槌町立大槌中学校、3年後に陸前高田市立気仙中学校の校長となり、今度は支援される立場になりました。

岩手県では大槌町と陸前高田市が最も被害が激しかった場所だとされているのですが、初任から12年、教頭時代の2年と合わせて14年間勤務した場所です。あの日亡くなった教え子、保護者、同僚、知人は数えきれません。

とはいっても、震災で家や家族を失った生徒や保護者、先生方の気持ちを本当の意味で理解できるかというと、それはできないと思います。

ただ、おそらく被災した人たちは自分の経験を話さないと思います。家族を失った多くの人たちは、決して表舞台に出てきません。死ぬまで震災の話をしないで、墓までもっていく人がほとんどなのではないかという気がします。

その点、私は半分だけ被災者で、半分だけ支援者です。被災地の外の皆さんに、中で起きていたことを話すのは、私のような中間にいた人間の務めなのだろうと思っています。

能登半島地震の「今」の状況に対しては、私はコメントできる立場にはないと思っています。しかし、東日本大震災の被災地では震災の「その後」が今も続いています。被災地の中学校に4年間勤務した経験を基に、「その後」、つまり、「被災地のこれから」について何かアドバイスができればと思っています。

東日本大震災の後の二つの中学校の生徒たちの様子を聞かせてください。

震災から1年後に校長として赴任した大槌町立大槌中学校は全校生徒267人中、被災生徒は184人に上り、127人が仮設住宅から通学していました。就学援助制度の対象者は154人に上ります。

2012年4月には、まだ町中のいたるところに震災の爪痕が残っていました。以前、6年ほど大槌中学校で教員をしていたこともあり、かつての教え子や保護者、仮設校舎で過ごす生徒やその保護者のことが気がかりで、不安を抱えての赴任となりました。

ところが、震災のど真ん中と言われる中学校で私を待っていたのは、朝は「おはようございます」、廊下ですれ違うときは「こんにちは」、下校時には「さようなら」と一日に何度も挨拶を交わしてくれる生徒たちでした。先生方が声を荒げるような場面は皆無で、修学旅行を楽しみ、体育祭で汗を流し、合唱も見事でした。部活動では、地区大会で8チームが優勝し、個人戦でも8人が優勝しました。

私はこれまでの教員生活でたくさんの中学生を見てきましたが、そこにいたのは今までに会ったことのないような、真面目で真摯な生徒たちでした。

そんな中で特に印象に残っているのは、仮設校舎の校長室の前の廊下を雑巾がけしてくれた女子生徒の姿です。彼女は震災で母親を亡くしています。毎日、校長室に掃除をしにきてくれたのですが、膝をつき、袖をまくり上げ、いくら磨いても光らない仮設校舎の廊下を雑巾で一心にふき続ける姿は、とても尊く、輝いて見えました。

生徒たちはやる気も思いやりもあり、進路意識も高く、すべてにおいて輝いていました。生徒たちの写真をいつ撮っても元気な笑顔で、被災地で奇跡を見ているような気がしました。学級が荒れることもなく、いじめも皆無です。視察に来る人たちが皆、「なぜこんなに元気なのですか」と驚いて帰っていくほどです。

震災直後に、生徒たちに寄り添った先生方は本当に立派だったと思います。よくぞここまで育ててくださいましたと感謝の気持ちでいっぱいになり、私は校長としてこの生徒たちの笑顔を途絶えさせてはいけないと思っていました。

2014年4月、今度は、陸前高田市立気仙中学校の校長になりました。震災から4年経っても全校生徒の8割近くが市内各地の仮設住宅からスクールバスで通学していましたが、この学校の生徒たちも明るく、みんな笑顔でした。

気仙中学校では夏休みだというのに、毎日、全校生徒がスクールバスで登校していました。登校した生徒たちは朝8時半から9時半まで全校トレーニングに参加し、その後、1、2年生は部活動に参加し、3年生は受験勉強や、体育館のステージで地元の伝統行事「けんか七夕太鼓」を継承するための練習に励みます。そして、昼が近くなると学校の近くにある清流で川遊びを楽しんで帰っていきました。

また、気仙中学校の3年生は英語検定に挑戦し、全員が合格しました。3級以上に8割が合格したのです。

両中学校とも、ほとんどの生徒が家族か知人を亡くしていますが、みんな明るく元気で、何事にも真面目に取り組むのです。最初は「親にも先生にも心配をかけたくないと思って、背伸びしているのではないか」と考えました。

しかし、実際に被災した中学生と4年間関わっていくうちに、背伸びではなくてあれは本心だと思えるようになりました。

なぜこんなに生徒たちが真面目に頑張っていたのかというと、それは学校が楽しかったからだと思います。

多くの生徒たちは仮設住宅で暮らしています。仮説住宅は玄関を入るとすぐに台所があり、その奥にトイレとお風呂がありますが脱衣所はありません。あとは6畳の居間と4畳半の寝室です。家の中で一人になれる場所などありません。中学生でも親と同じ部屋に寝なければならず、それが嫌なら居間に布団を敷かなければいけないわけです。脱衣所のないお風呂なので女子中学生は恥ずかしい思いをしたのではないかと思います。

そして、多くの家にはお金がありませんでした。職場が津波に流されて親が失業したからです。おそらく間食の回数は減ったでしょうし、外食など考えられないでしょう。そういう環境の中で両親のけんかもあったと思うのです。

それでも学校に来ると、友達がいる。給食が食べられる。昼休みは友達と一緒に遊べる。午後になれば部活動で汗を流せる。たとえ仮設校舎であっても、学校は彼らの居場所であり、救いの場所です。だから、あの笑顔だったのではないかと思うのです。

奇跡のような生徒たちに会えたと思っているのは、私だけではありません。 被災地で一緒に働いた先生方と会う機会があると、今でも「あんなに素敵な生徒たちにはもう会えないよね」という話をしています。お世辞ではなくて、本当に輝いていました。

震災の後、生徒たちはどのように被災地と関わったのでしょうか?

生徒たちが被災地と関わる手立ては二つあったと思います。一つ目は、直接ボランティアとして関わることです。

震災を通して、生徒の様子が明らかに変わった学校がありました。避難所運営に生徒が積極的に関わった岩手県立大槌高等学校です。

大槌高校は避難所になりましたので、生徒たちは避難者の名簿を作り、トイレを掃除し、支援物資の配給や食事の提供を手伝い、避難所生活が長引く中で、自分たちで積極的に仕事を見つけて動いたそうです。ピーク時には1000人近い町民が同校の校舎で避難生活を送り、避難者の受け入れは8月まで続きました。

震災から1年後、私は姉妹校の校長として大槌高校を訪問しました。その日は授業参観でした。すでに避難者は仮設住宅に移り、静まり返った校舎の廊下を歩いていると、聞こえてきたのは、先生方の声とチョークの音だけです。生徒たちは黙々とノートを取っていたのですが、そのまなざしは真剣で、次の目標に向かって進んでいるように見えました。

私は震災前の大槌高校の生徒たちの様子を知っていましたので、その変容には本当に驚きました。髪や服装が乱れている生徒は一人もいませんでした。彼らは、校内で復興に携わる委員会や部活動をつくったり、町の中を定点観測して定期的に発表したりしていました。避難所での活動を通して地元への意識が大きく変わったのだと思います。

震災後の大槌高校の生徒の活躍は町でも評判になっていました。生徒たちが地域に称賛されるほど人間として成長できたのは、同校が学校を開放し、避難者を受け入れ、生徒自身も積極的に避難所の運営に携わり、みんなで苦難を乗り越えてきたことが大きいのではないかと私は考えています。

岩手県の県立高校の中で、大槌高校のように避難者を学校に受け入れた高校は多くはありませんでした。それは、避難所の運営は市町村が担当し、高校は県が設置者だったためです。市町村立の小中学校は市町村の判断で自由に避難所に開放できますが、県立学校はそうはいかなかったようです。そもそも、「学校は勉強するところ」という考えから、「被災者を受け入れたら授業の再開が遅れる」「校庭に仮設住宅を建てたら部活動の練習ができなくなる」と、学校開放には否定的な関係者の方が多かったように思います。

大槌高校の場合、町内の5つの小中学校が全壊し、町役場も機能を失ってしまったため、校長の判断で開放していたのでした。

ここでお話ししたいのは、私が紹介した大槌高校や、大槌中学校、気仙中学校のように、被災した学校の生徒がすべて良い方向に変容した訳ではなかった、ということです。被災地でも、震災の年、さらに翌年と生徒指導に追われた学校もあったのです。被災者を受け入れず、門を閉ざしていたある高校もその一つだと聞いています。中学校でも、震災後に生徒指導に苦慮していた学校がありました。

結果論にすぎないかもしれませんが、「もしも、大槌高校の生徒たちと同じように、被災者と積極的に関わっていたら、生徒指導に苦しむことはなかったのではないか」と思うと残念でしかたがありません。

生徒たちが被災地と関わる手立ての二つ目は、復興のために頑張っている保護者や地域の人に触れることです。

例えば、中学生が被災地の人々と関わる方法として、職場体験があります。

被災地の中学生の場合、例えば、陸前高田市では名古屋市と提携し、名古屋で職場体験を行いました。大槌中学校も当初の計画では、内陸の花巻市で職場体験をすることになっていました。

しかし、「被災地の子供たちが今、体験すべきことは何か」を考えたとき、仮設店舗での職場体験以外の選択肢はないと気づきました。津波で店を流された大人たちが仮設店舗で再起をかけて必死に頑張っている、その背中を生徒に見せられるのは今しかないからです。そこで、私は仮設店舗に足を運び、中学生を受け入れてくれないかと聞いて回ると、店主たちはみんな喜んで受け入れてくれました。

震災前に町の中心部にあった鮮魚店は、山間の仮設団地で営業を再開し、老舗の和菓子店は仮設店舗の「きらり商店街」で名物の「さけ(鮭)最中」を作り始めていました。さらに、教え子が勤務するタクシー会社、保護者が経営する砕石工場のほか、ショッピングセンター、本屋、写真屋、美容室、コンビニなど、どこも生徒たちを快く受け入れてくれました。どの職場にもどこか家庭的な温かさがあり、生徒たちは家事の手伝いをしているような感覚で職場体験に臨むことができました。

町民にとっても町の未来を担う子供たちが仮設店舗に足を運んでくれたことへの感謝と喜びは大きく、復興の励みになったようです。

町に職場がないからと言って地元を離れて内陸に連れていくのか、今現在一生懸命頑張っている親や地域の大人たちの背中を見せるかで、子供の成長は違ってくるような気がします。

また、地域の祭りも中学生が地域の人々と触れ合えるいい機会です。

気仙中学校のある気仙町では、毎年8月7日に行われる「けんか七夕まつり」が有名です。4つの町ごとに七夕の飾りをつけた大きな山車が出て、地元の人たちが綱を引っ張り、山車同士をぶつけ合います。この祭りに欠かせないのが、「けんか七夕太鼓」と囃子です。この祭りを目指して、気仙中学校の3年生は中総体(全国中学校体育大会)が終わると、毎日のように体育館で太鼓と囃子の練習に汗を流していました。太鼓を叩くのは男子が中心で、女子は囃子で盛り上げます。

太鼓や笛は保存会の方から教わっていました。この「けんか七夕太鼓」を継承する中学生の姿は、保護者だけではなく津波で町を失った人たちにも希望を与えたことでしょう。祭りの当日は、生徒たちは全員腹に晒、頭に豆絞りという正装で参加するのですが、その着付けは保護者が担当しました。そうやって、地元の人たちや保護者と関わらせていくことが大事だと思います。

子供たちの心のケアとして、学校がしたほうがいいことはありますか?

大槌中学校では、生徒の心のケアが大きな課題でした。臨床心理の専門家たちは皆、「早く震災のことを振り返らせて、 言葉に出させて克服させなさい」と言いました。しかし、心のケアとは生徒の「心」、つまり、「命」に触れることを意味します。教師による「にわか仕込みのカウンセリング」では失敗したときのことが心配でした。つらい過去を振り返って乗り越えられる生徒もいるかもしれませんが、今は言葉にしたくない生徒もいるでしょう。どのタイミングで過去を振り返るかは、人それぞれだと思うからです。

生徒たちが学校の中で一番頼りにしていたのは担任と保健室の先生です。彼らは現場で培ってきた経験と、研修で学んだカウンセリングの基本を生かしながら、生徒に寄り添っていました。教員による対応はこれで十分だと思いました。

そのうえで、カウンセリングの必要な生徒がいるとき、校内での対応が難しいと感じたときは、無理せずに臨床心理士やスクールカウンセラー(SC)、スクールソーシャルワーカー(SSW)などに協力してもらう体制をつくり、担任と一緒にSCやSSWなどがみんなで生徒を見守りました。

しかし、いくら心のケアの体制を整えても、臨床心理士やSCと定期的にじっくり相談できる生徒は頑張っても十数人が限界です。校内のほとんどの生徒が被災している大槌中学校で、人数も時間も限られている彼らが全校生徒をカバーすることは難しかったのです。

そこで、先生たちの本来の得意分野を生かし、生徒たちが安心して生活できる集団をつくること、生徒が学校生活を楽しむこと、日々の学校生活に潤いを与えることを重視する方向へと、校長として学校経営の舵を切りました。それが「集団のケア」の考え方です。

具体的には、生徒が「明日も行きたい」と思うような、そういう学校をつくるために、四季折々の行事を大事にしたのです。仮設校舎の敷地と駐車場は高さ4、5mのフェンスで仕切られていましたので、このフェンスに季節に合わせていろいろなものを飾りました。

例えば、七夕飾りです。飾りや短冊は支援者にお願いして用意してもらい、笹は大槌中学校の向かいにある竹藪の地主さんに譲っていただきました。七夕のよいところは短冊に生徒一人一人の願いを託せることです。「高校に合格できますように……」、「早く元の町に戻りますように……」など、生徒たちの夢や復興への願いが結ばれた七夕飾りが、仮設校舎を背景に風になびく様子は今でも心に残ります。ただし、そのために授業の時間を割くことはしませんでした。生徒たちが短冊に願いを書いたのは、帰りのホームルームです。その短冊を下校時間に委員会の生徒が吊るしました。

大槌中学校 七夕飾り
大槌中学校に飾った七夕飾り。
短冊を吊るす生徒たち
短冊を吊るす気仙中学校の生徒たち。

クリスマスにはフェンスをイルミネーションで飾りました。校舎内の廊下にもクリスマスツリーを並べたのですが、飾ってくれたのは支援者のみなさんです。

大槌中学校のクリスマスのイルミネーション 全景
大槌中学校のクリスマスのイルミネーションの全景。
大槌中学校のクリスマスのイルミネーション 部分
ツリーの部分は近くで見ると、とてもきれいです。
校舎内かざられたクリスマスツリー
校舎内にはクリスマスツリーを飾りました。

また、節分には、各学級で豆まきを盛大に行い、担任や学年長などが鬼に扮して生徒たちを楽しませてくれました。投げてから食べられるように、豆は殻付きのピーナッツにしました。

鬼に扮して盛り上げる先生たち
鬼に扮して盛り上げる先生たち。
殻付きのピーナッツを投げる生徒たち
「鬼は外!」と言いながら、殻付きのピーナッツを投げる生徒たち。鬼は逃げていきました。

それから、大槌中学校で生徒と一緒に楽しんだ行事で、特に記憶に残っているのは「焼肉カーニバル」です。全校生徒で焼肉を食べることを思いついたのは、「仮設住宅で暮らしている生徒にお腹いっぱい肉を食べさせたい」との思いからでした。生徒と教職員、ボランティアを含めると約350人が校庭で焼肉を楽しんだのですが、教職員に負担をかけず、授業に支障をきたすことがないようにといろいろな配慮と工夫をして実施しました。

バーベキュー用のドラム缶や炭は支援者にお願いして用意してもらい、76㎏の牛肉は支援者から提供を受け、飲み物、焼肉のたれは食品メーカーに協賛をお願いしました。

ただし、生徒たちがお祭り騒ぎをしてはいけないと思っていましたので、その日は朝から通常通りに授業をして、当日、生徒と教職員には「4時間目の授業が終わったら、箸と皿だけ持って校庭に集まるように」とだけ伝えてありました。この日、焼肉を担当してくれたボランティアは約60人です。バーベキューの準備や肉を焼く作業、後片付けも、すべてお願いしました。生徒たちは一生懸命食べるだけです。そして、食べ終わったら教室に戻り、5時間目の授業が始まりました。

この他に、子供の心のケアとしてどんなことをされましたか?

悲惨な体験を強いられた生徒たちは、毎日スクールバスで仮設住宅と仮設校舎を往復しています。その姿を見る度に、たまには被災地の外へ出かけて、本来であればそれが普通であるはずの「日常の風景」に触れることが大切だと感じました。

そこで、私がしたことは生徒を被災地の外へ出すことです。

例えば、大槌中学校では、1年生は早池峰山という山に登り、2年生は、古巣の教育センターに宿泊してレクリエーションを楽しみ、翌日は「ぶどう狩り」を組み入れました。

もちろん、参加費を生徒から徴収することはせず、支援者を募ってバスを用意してもらい、費用も支援してもらいました。

気仙中学校では、「けんか七夕太鼓」を祭りの当日だけ披露するのではなく、植樹祭など、様々な場所で披露する機会をつくりました。復興への支援をしてくれた人たちの地域、例えば、栃木県宇都宮市に生徒たちを連れていき、支援のお礼として「けんか七夕太鼓」を披露し、餃子をごちそうになって帰ってきたこともあります。

先生方の心のケアとして、どんなことをしましたか?

先生方の心のケアも難しかったというのが本音です。

被災地の先生方の中には、震災直後、 学校が休みになるのを待って、行方不明になっている身内を探しに行ったり、遺体安置所を回って家族を探したりした方もいたはずです。それでも、被災校では、優先順位が生徒→保護者→先生にならざるを得ないからです。先生方にはずいぶんと苦労を掛けてしまいました。

せめて管理職として、先生方にも被災地の外の空気を吸わせてあげたいと思い、支援者にお願いして、引率でも、研修でも構わないので、可能な限り、被災地の外に出る機会をつくりました。たぶん、先生方にとっても“息抜き”になったと思います。

それから、先生方も臨床心理士やSCと気軽に相談できる体制をつくりました。先生方の心のケアは大事ですが、管理職だからといってあまり踏み込めない部分です。校長が、「あなたは大丈夫ですか?」と聞くよりは、個室で「震災後に苦労していることありませんか?」などとプロのカウンセラーが聞いたほうがいいと思うからです。実際、先生方とSCや臨床心理士との面談はうまく機能していたようです。ときには本人の許可を取ったうえで、「あの先生は、実は家庭のことで苦労しているようです」のように、SCが状況を教えてくれました。状況が見えれば、私も必要な配慮ができます。

今後、被災地の学校がしたほうがいいことはありますか?

ここからは石川県の被災地の学校関係者にぜひ伝えたいことです。学校がしたほうがいいことは二つあります。

一つ目は、芸能人・著名人の受け入れを制限することです。

震災直後、岩手県の教育委員会に1通の手紙が届きました。差出人は阪神・淡路大震災を経験された女性の先生です。震災後、彼女が知る学校が荒れたそうです。その原因は学校の再開が遅れたことと、全国からたくさんの芸能人・著名人がボランティアに訪れ、日常と非日常が逆転したことも一因である、といった内容でした。岩手県の多くの学校では、阪神・淡路大震災のこの教訓を守りました。

地震直後は来てもらっていいと思います。呆然として何をしたらいいのかわからなくなっているとき、地震の被害や失った家族のことが頭から離れないときには、生徒も教員も芸能人の歌を聴いて癒され、著名人の言葉に励まされるかもしれません。

しかし、2か月、3か月経つと状況が変わります。学校は徐々に落ち着かなければいけない時期に入ったのに、毎日毎日、入れ替わり立ち替わり芸能人や著名人が来て、授業時間を割いていたら生徒はどうなるでしょう。大槌町のような田舎に、芸能人が来ることなど、震災前にはめったになかったことですから、学校の日常と非日常が逆転し、毎日がお祭り騒ぎになり、勉強どころではなくなってしまいます。

被災から1年後に赴任した私の役割は「学校の正常化」であり、特に授業時間を割いての交流はほとんど断りました。どんなに有名な方の講演であっても、学校が教育活動として授業で行うためには必然性が求められ、何よりも被災校のペースで無理のないように実施する必要があるからです。

とはいえ、支援活動の申し出そのものはありがたいことなので、支援者の気持ちを害さないように断らなければならず、その対応にずいぶん時間を割いた気がします。それでも丁寧に説明すれば、ほとんどの人が被災校の現状を理解してくださいました。

しかし、中には「昨年は義援金を送らせていただいた」と前置きし、半ば交流を強要されるケースもありました。また、「生徒には絶対に会わない」という条件で来てもらったのに、親を亡くした生徒に平気でインタビューをする人たちもいました。

芸能人や著名人は善意から被災した学校を訪問していると思うのです。お気持ちは大変ありがたいのですが、時期によっては生徒の日常化の妨げになることを、芸能人や著名人、その関係者にもわかってもらう必要があります。

支援の窓口となる来客対応は、被災地の校長の大切な仕事なのですが、5月の連休には9組対応した日がありました。訪問するときは、生徒だけでなく学校への配慮も必要です。

被災地の学校がしたほうがいいことの二つ目は、学校間の交流を制限することです。私は心を鬼にしながらほとんど断りました。

私がもしも内陸の支援する側の教員だったら、最初に、自分の生徒たちに、募金や物を送る活動を考えさせ、そして、手紙の交換へと発展させ、最後に、被災地の訪問、被災校での交流へと指導を進めていたかもしれません。少なくとも被災地に赴任するまではそうだったでしょう。

しかし、実際に被災地に赴任してみると学校間の交流も難しいことがよく分りました。

大槌中学校の場合、全国の数百の小中学校が何らかの支援をしてくれました。数百校に対して、生徒会の役員がお礼の手紙を書こうとしたら、それだけで一年近くかかります。支援はありがたいことですが、交流には限界があることを知ってほしいと思います。

私が県外のある中学校の授業で、先ほどの理由から「大槌中学校の生徒と直接の交流は難しい」という話をしたのです。すると、話を理解してくれた生徒たちが、被災地の生徒が懸命に生きる姿に涙ぐみながら、「大槌中学校の生徒のために、僕たちにできることはありますか」と聞いてきたので、私はこう答えました。

「まず募金をしてくれただけでも十分うれしいです。でも、生徒たちと直接の交流はできません。その代わりに今、君たちにできることは、勉強して体を鍛えることです。もしも被災地について知りたければ、ネットでもテレビでもできますので、勉強してください。そして将来、 大学に行ったり、社会人になったりして、週末の時間が自由に使えるようになり、自分のお金で旅ができるようになったときに、次の被災地へ行ってください」

能登半島の学校関係者へアドバイスはありますか。

能登半島の学校関係者の皆さんへ、私から五つのことをお伝えします。

私は東日本大震災の被災地で、支援物資が大量に山積みされている現場を見てきました。食べ物は賞味期限が切れますし、衣類は6月にカビが生えてきます。岩手県ではそれらの処分に最終的に1000万円ほどかかりました。阪神・淡路大震災のときは支援物資の処分に数千万円かかった市町村もあると聞きます。

つまり、被災地では大量のミスマッチが起きています。いらないものや、数が合わないものが大量に届いているのです。このようなミスマッチを減らすために、私はICTを活用しました。

例えば、学校ホームページに何が何個ほしいのかを掲載します。そうすると、早ければその週の内に、遅くとも1、2週間もすれば、支援者が現れました。あらかじめ「支援物資を送るのは学校が返事をした後にしてください」とお願いしておき、支援物資が届くとホームページにお礼を掲載しましたので、同じものが他の支援者から届くことはありませんでした。

amazonの「【被災地】ほしい物リスト」も利用しました。このリストに大槌中学校として最初に登録したのは、電源装置7台でした。仮設校舎には教材備品が十分にそろっておらず、理科の先生は電源装置を借りるために隣の学校まで行っていたのです。そこで、月曜日に登録したところ、週末には新品の電源装置が届きました。

おそらく先生方の中には、「私はネットをうまく使えません」という方もいると思うのですが、それでも大丈夫です。支援者の中には、仲介してくれる方がいます。例えば、「テニスボールがほしい」と支援者にお願いしたら、amazonでテニスボールを募集してくれて、気仙中学校に届けてくれた人がいました。ですから、自分でできなかったら、支援者に頼むといいと思います。

「艱難辛苦、汝を玉にする」という言葉の通り、苦労やつらさが人間を育てます。先ほど大槌高校の生徒たちの活躍をご紹介したように、地震は不幸なことですが、子供たちを育てるための千載一遇の機会をもらったと考えることもできます。この機会をぜひ生かしてほしいと思います。

私は、大槌中学校と気仙中学校の3年生全員と面接をしました。そのときに「将来はどこで働きたいですか」と尋ねたのです。 震災前ならば「東京や仙台で働きたい」という生徒が多かったはずです。しかし、そのような生徒は皆無でした。多くの生徒が「地元で働きたい」、「できれば人の命を助ける医療関係の仕事に就きたい」と言いました。

ある日突然、家族や親せき、知人を亡くすという経験をしたからこそ、今、自分の周りにいる人を失いたくない、大切にしたいという思いから、地元志向になったのかもしれません。いずれにせよ、生徒たちの目的意識が大きく変わりました。だからこそ、生徒たちを被災地、被災者と関わらせるべきだと感じます。

石川県の先生たちに申し上げたいのは、子供たちの底力を信じてほしい、ということです。その力は、普段は見えないものです。岩手の子供に限らず、日本全国の子供たちも、おそらくマッチを擦れないし、キャンプ場に行くと火を起こせないし、包丁もうまく使えないのではないかと思います。しかし、いざとなったら、子供たちはみんな頑張ります。これは自信をもって言えます。

大槌中学校の卒業生の中には、中学と高校で野球に打ち込み、21世紀枠で甲子園に出場して活躍した選手がいます。彼は母親が今も見つかっていません。学校という子供たちにとって大切な居場所を保障してあげれば、子供たちは友達と力を合わせて苦難を乗り越え、未来を自分たちの力で切り開いていきます。そのためにも生徒が「明日も行きたい」と思えるような学校づくりをしてほしいですし、「集団のケア」にぜひ力を入れてほしいと思います。

私は震災で「恩送り」という言葉を知りました。

東日本大震災のとき、支援を受ける窓口的な立場だった人が「こんなに支援を受けても返すものがない」と言って、その後の支援を断りました。

私にしてみれば、 中学校にはまだまだほしいものがたくさんありましたし、大勢の人が仮設住宅で暮らしているのですから、お金の使い道はいろいろあるはずです。なぜ支援を断るのだろうと思いました。

そんなときに「恩送り」という言葉に出合いました。

これは「恩返し」とは違います。「恩返し」は誰かから恩を受けたら、その恩を本人に返すものです。確かに被災者は今、恩を返せません。被災地の中学生が、支援をしてくれた全国の小中学校に恩返しをするのは無理です。

それに対し、「恩送り」は、世話になった人に恩を返すのではなく、これから出会った人に恩を返します。

つまり、被災地の人々は支援を断る必要はないのです。先生方は「恩送りでいいんだよ」と子供たちに伝えてほしいと思います。そして、今は素直に支援を受け取り、いつかつらい状況から抜け出せるときが来たら、受けた恩を次の災害の被災地の人たちに返してほしいと願います。

「自分のポジションで、今できることを、精一杯する」、この言葉は、私が被災地に赴任する前に、神戸で阪神・淡路大震災を経験された学校の先生からいただいたものです。被災地での座右の銘でした。

被災地、特に学校では、学校の再開、仮設教室の確保、卒業式の挙行、新学期の準備、中学生では高校受験・進路目標の達成、さらに児童生徒の家庭環境の変化、住居や家計への配慮まで、今は、どれから手をつけたらよいか分からない状況かもしれません。それでも被災した児童生徒のために教職員が一丸となって、それぞれが、「自分のポジションで、今できることに、精一杯取り組む」ことで、再生の軌跡は、しっかりと、着実に残されていくと思います。

取材・文/林 孝美

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