言葉の不易の本義を再考する ー服従、差別、強制などー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第31回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
言葉の不易の本義を再考する ー服従、差別、強制などー【本音・実感の教育不易論 第31回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第31回は、【言葉の不易の本義を再考する ー服従、差別、強制などー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 「思い込み」への警戒

一般に「平等は善、差別は悪」「何よりも大切なものは生命だ」「服従という言葉にはマイナスイメージしかない」などということが、ほとんど疑いなく通用しているようである。

また、「知識偏重はいけない」「一方的に教えずに考えさせることが大切だ」「授業の始めには、必ずその時間のめあてを持たせなければいけない」「授業の終わりには、振り返りをさせるのがよい」「なるべく、進んで手を挙げるように仕向けたい」「頼まれたことをするだけでなく、頼まれないことも進んでするような子供に育てたい」などということも、大方は疑うことなく受け入れられ、それらは半ば「常識」にもなっているように見受けられる。

若い頃に、教育や指導という営みは、教えたこと、指導したことが、その子の血や肉となって身に付き、ついにはそれらが習慣化されることによって完成すると考えてよいのではないか、ということに気づいて、我ながら大切なことを発見したものだと嬉しくなったことがある。暫く考え続けたその末に、間違いない、とも思った。

そこで、尊敬する師匠を訪ねてこの発見を報告し、師のお考えを伺った。ところが、師は、言下に「その考えは駄目だ」と否定されたのである。私は面食らった。「どうしてですか、先生」と問うと、師は次のように話してくださった。

「習慣というものは、思考や思索を伴わない状態になることだ。行動が先になってしまい、その価値や意義を忘れてしまう」

私は、鉄槌を下されたような気がした。成程! 参った。ついでながら、もう一つ。

小学校の教頭時代、「廊下を走らない」と週目標が決まり、その週の担当となったことがある。「よし! 今週は一人も廊下を走らない静かな学校にしてみせる!」と私は張り切った。週番の子供を集めてその趣旨を伝え、十分に任を果たせと命じて解散を告げた。そのとたん、週番の子供らが走って帰ろうとした。「この野郎!」と怒鳴りつけ、懇々とその軽率を戒め、任の重さを訓した。

さて、1週間はあっという間に過ぎ、「廊下を走らない」という週目標はほとんど効果らしい効果を生まないままに終わった。私の敗北感は大きかった。こんな単純なこと一つさえ解決できないのかと、教職キャリア十分の我が身を不甲斐なく思ったからだ。恐らく「廊下を走らない」などということは、明治の頃から何十回となく目標とされてきたに違いない。それが平成の時代になってさえ解決できないとは何と教育とは無力なものか、とも思ったことだ。何か名案、妙案はないものか、とまた例の師を訪ねて伺ってみることにした。私の悩みを黙って聞き終わった師は、笑いながらこんなことを言われた。

「子供というものは走るものだ。それほど生命力が漲っているものなのだ。俺なんか、走れと言われたって走れやしないよ」

私は呆気に取られた。老師は続けて、

「一人も廊下を走る子供がいないなんて学校は幽霊学校だよ。走るなと言われても走ってしまうような元気な子供が集まっているというのは、むしろ喜ぶべきことだ」

とも言われた。再び、鉄槌を食らった思いがした。「馬車馬」という言葉も脳裏を過ぎる。そうか! と思った。「目から鱗が落ちる」とは、このことか、と思った。

そうなってはいけないと、自重、自戒に心がけつつも、いつの間にか視野、視界を狭めている自分がある。「思い込み」とは「思い込むこと。固く信じて疑わないこと」と広辞苑では解説している。「思い込み」をしないように、常に視野を広くするように、とりわけ「人の子の師」として子供の前に立つ教師は心がけねばなるまい。

イラスト31

2 「思い込み」の事例の点検

「次の言葉について、プラスの印象を持つ人は⊕と、マイナスの印象を持つ人は⊖とノートに書いてください」と言って「服従」という文字を大きく板書する。50人ほどの教員の集まりの場である。全員が⊕か⊖を書いたことを確認してから挙手を求める。圧倒的多数が⊖である。⊕もあるが例外的な2、3人である。思ったとおりだ。「服従」を好む者は常識的に考えればいなかろう。

だが、ここにも「思い込み」が潜んでいる。我々の日常の大方は服従によって成立しているとも言えるのだが、そういう事実にはほとんど気づかないで過ごしている。──ということに気づいたときには嬉しかった。「服従」とは本来マイナスイメージで括るべき言葉ではない。

例えば、疲れれば誰でも休みたくなるし、休もうとする。「疲れた」という事実に「服従」するから「休む」のだ。服従しなかったらどんなことになるか。休むことなく、働いたり、遊んだりし続ければ、終いには病むことになるだろう。「疲れ」には服従して「休む」のが善である。「服従」は⊖ではないのだ。

暑ければ脱ぐ。寒ければ着る。これらは全く当然として我々は日々を過ごしている。これは、紛れもなく「暑さ、寒さ」に対して「服従」をしている証拠だと言えないか。このように考えると、「服従はマイナス」とは言えなくなる。それどころか、「服従なくして生存なし」とさえも言えるのではなかろうか。

「渇すれば飲む」「ひもじければ食う」。これが人間の生存の実態である。これに「服従」しなかったら死んでしまう。我々の日々は「服従」を受け入れてこそ成り立ち、そのようにしてこそ生存を全うしていけるのだ。

してみると、「服従へのマイナス感情」というのは、実はかなり観念的な空論ということになってくる。

人間らしい社会生活に眼を転じてみても、「上司の命に従う」「法律を守る」「勤労によって対価を得る」などというのも、「上司の命」への服従であり、「法律」への服従であり、「収入を得る」ことへの服従である。服従という事実は、実は幸福の実現、幸福享受への王道だということにもなってくる。──とすれば、「服従の大切さ」や「服従の教育」もまた必要になってくるのではないか。「服従は悪」「服従の美徳はもはや過去のもの」という判断や考え方は、必ずしも妥当とは言えなくなってくるのではないか。

3 「平等は善、差別は悪」か

「平等は善である」という考え方に賛成か反対か、と問えばほぼ全員が「賛成」と応えてくる。「差別は悪である」という命題に賛否を問えば、100%が肯定する。だが、これまた吟味を必要とする。

人の権利についての「男女同権」という「平等論」は全く正しい判断であるが、その具体的労働内容までも平等であるべきだと考えるのは誤りである。深夜労働や危険を伴う筋肉労働などは当然「不平等」であることが正しい。時、所、状況によってそれらは、分けて別にされて当然である。

男子は剣道、女子は薙刀と分けられていた時代には、女子の柔道姿は見られなかった。今はごく普通に見られるようになった。女子のサッカー、レスリングにもはや違和感はない。これらの別が、徐々に少なくなっているのは新しい動きとして認めるが、全て徹底することはできない。

私は、「悪い差別」は論外として、「価値ある差別」までが観念的に「悪」として考えられていることの誤りは正すべきだとずっと主張している。

「正しい差別」はあって然るべきだし、なくてはならないとも述べている。「正しい差別の教育」は絶対に必要不可欠なのである。

例えば、係長と課長と部長とは役職上の権限において平等ではない。権限も、責任も、従って待遇も、明らかに差をつけて別にしなければならない。係長は課長の命に服し、課長は部長の命に服するのが当然である。差をつけ、別にすることによって秩序が保たれるのである。上意下達はよくないなどという考えがあるようだが、とんでもない暴論、愚論である。

また、「区別」は必要だが、「差別」は要らない、などという考えもあるようだが、それは違う。「区別」ではなく「差別」こそが必要なのである。「区別」には上下、軽重、真偽という「価値の別」はない。「価値」に明確な差をつけ、「価値」を明確に別にするのが「差別」なのである。このような厳然たる「正しい差別」の教育ができていないが故に様々な混乱が生じているのである。

「価値観の多様化」などという言葉がまことしやかに広まっているようだが、大方は「価値観の混乱」である。価値観が混乱した社会は必ず争い、不和になる。

4 「安心」を支える「差別」

およそ人々の日常において「安心」ほど大切なものはない。人々は「不安」を恐れ、「安心」を求めて生きている。その「安心」は「安定」によって生まれる。体温の安定、血圧の安定、収入の安定、地位等々の安定こそが「安心」の大前提である。不安定の上には不安しかない。

さてその「安定」は何によって保障されるか。「安定」を支えるのが「秩序」である。水は下に向かって流れ、軽くなった空気は上昇し、濡れた服の水分は蒸発して乾く。これらは全て自然界の不変の「秩序」である。この「秩序正しい運行」が「安定」を生むのである。時にこの「秩序」が狂うと「安定」が崩れて災害となる。「安定」を支えるのが「秩序」なのである。「無秩序」は「不安定」を招くのだ。

その「秩序」を支配するのは何であるか。「秩序」は「完全平等」の世界には生まれない。強弱、上下、高低、虚実、明暗、干満、濃淡等々の「差」が、「秩序」を生むのである。

全くの水平面に水を垂らせば、水は無秩序に広がるが、片方を1㎜でも高くすれば、高い方から低い方へ流れる「秩序」が生ずる。人々の社会の職階制はこれに倣った仕組みであるとは言えないか。「差をつけて別にする」ことによって望ましい「秩序」が生まれ、その秩序が正しく保たれ、機能することによって「安定」が生まれる。その「安定」によって、動揺や混乱がなくなり、人々は「安心」して暮らせるようになるのである。

「安心」の最も基底にあってそれを生み出し支えているのが、「差別」なのだというのが私の考えである。だから「差別は悪」「差別根絶」などという考え方には与することができない。企業では、「差別化」という言葉を他社製品を凌ぐ水準にするプラスの意味で使っているそうだが、頷けることだ。

5 「新しさ」への警戒

思い込みの原理的な発想の一つに「新しいことは良いこと。古いのは駄目」ということがある。文化、文明は進歩してきていることを思えば、一理も二理もあることだが、全てがそうとは言えない。

自然科学の世界はともかく、人文科学の世界では特に警戒が必要だ。私は「新しい、というのは時代や歴史に裁かれていないということだ。したがって、十分に信頼できるか否かは俄(にわか)に決められない」と考えている。

人文科学の中でもとりわけ教育の世界には、「新しさ」を標榜したり、外国の事例を尤(もっと)もらしく尊重、称賛したりする風が常に見られる。だが、「良いか、悪いかは社会が決める。正しいか正しくないかは歴史が決める」という格言の真義に改めて注目したい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2019年10月号より

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