「破邪顕正」論と「不破邪」論 ー学び続ける意義と楽しみー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第27回】

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
「破邪顕正」論と「不破邪」論 ー学び続ける意義と楽しみー【本音・実感の教育不易論 第27回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第27回は、【「破邪顕正」論と「不破邪」論 ー学び続ける意義と楽しみー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 「破邪顕正」の実践

私の好きな言葉に「破邪顕正」という四字熟語がある。四つの文字を見てすぐに合点がいった気分になって、長い間「はじゃけんせい」と読み、話してきたのだが、つい先日その誤りを知った。「はじゃけんしょう」と読むのが正しく、出典は仏教用語であるとの事。次のように説かれている。

仏教で、邪説・邪道を打ち破って、正道を明らかにすること。一般に、誤った考え方を打ち破って、正しい考え方を明らかにすること。悪を破って、正義を明らかにすること。(広辞苑)

「顕正」は、「正しい仏の教えを明らかにすること」とも加えられている。

この四字熟語は、教育の本質を端的に表している。「悪を破って、正義を明らかにする」というのは、まさに教育の営みそのものだと言えよう。よく似た言葉に「勧善懲悪」がある。「善を勧め、悪を懲らしめる」というこの四字熟語もまた、教育の本質を言い当てている。そして、明快かつ簡潔である。私の教育実践を振り返ってみると、これらを貫いてきたと言えそうである。

6年生の担任時代、格別体調不良とも見えないのに、体育の時間になると、体調の不良を訴えることが何度かあった子供がいた。「おかしいな」とは何となく感じながらも、黙認をしていたある日のこと、クラスの子供からその子について「体育の時間にテストの答えを見ているようだ」という情報が入った。市販のテストの教師用のものは、正解と判定の基準などが赤刷りにされていたのだが、私はそれを机の横に無雑作にぶら下げていた。

それを見ることは、当然よくないことだから、そんなことをする子はいないと考えていたのだ。不用意、不注意と言えばそれまでだが、ある意味では子供を信頼していた証しとも言える。私は大体そのような考えでずっと過ごしてきていた。

そう言えば、クラスで中の下ぐらいにいたその子のテストの点数が、近頃になって急に高くなっている。それらがぼんやり気になっていたことを思い出した。

早速問い糺してみると、あっさりと白状した。あの高い得点はカンニングの故であったことが分かった。

「そんなに高い点数が欲しければ、お前のテストは全部100点にしてやろう。但し、正解かどうかの点検は一切しない。それでよいか」

と言うと、彼は強く首を振った。

「やっぱり、きちんと正誤を判定してください」

と言うのである。私は、カンニングなどするのは止めろと伝え、相変わらずテストの教師用の赤刷りは机の脇にぶら下げておいた。彼は二度とそのようなことはしなかった。

子供には、今回のことについては私から親に伝える旨を話し、この件を報告した。親は恐縮して詫びながら、成績にこだわりすぎたかもしれないと反省の弁を述べた。

私は、この一件を思い出しつつ、私のとった処置、指導は適切だったと今でも考えているのだが、少し気になる新聞のコラムを眼にしていささか心が揺れている。

イラスト27

2 「破邪」即善ではない

「子供の心の痛みを理解する」というその新聞コラムの大要は、次のとおりである。

某中学校の生徒が、教師の採点が間違っている、と言って自分のテストを教師に見せに来た。その生徒は、他の教師にも「採点ミス」を訴えていたらしく、それが話題になって教師が調べてみると、思いがけないことが分かった。テストが返されてから、生徒が自分の間違いを書き直していたということが分かったのである。

そこで教師が問い糺してみると、生徒は頑として自分の非を認めようとしない。生徒のこのような態度をそのままにしておくのはよくないと考えた担任は、親に電話をかけて事情を説明したのだが、これが親を怒らせるという結果を招いた。「うちの子供がそんなことをする筈がない」と憤慨して、ひと騒ぎになったというのである。

この一件があってから、その学校では採点をした答案用紙をこっそりとコピーをしておくことにしたそうだ。頑として書き直しを否定した生徒が、同様の訴えをまたしてきた。教師は今度こそ明らかに生徒の噓であることの証拠をつかんだと思った。そこで、そのコピーを親にも見せ、生徒にも見せ、白か黒かをはっきりさせようという方向に話が進んだ、というところでひとまず話を止めて少し考えてみたい。

まず、この一連の事件の事実を確認しておこう。中学生は、明らかにテストを返された後に、自分の誤答を抹消して正解に書き換えるという不正行為をした。

教師がその一件に気づいて子供に糺すと、「頑として自分の非を認めない」という事態が大きな問題である。こういう子供の行動があること自体が、教育の荒廃事実なのだ。明らかに、子供は「自分を守っている」。悪いことをしている。噓をついている。それを十分に承知していながら「白を切る」こと、その心のありようが問題なのだ。証拠を表立てない限り「白を切る」ことを通そうとする。そこが最も許し難い一点だ。

コピーを取っておいて証拠を見せれば、さすがに白を切ることはできまいけれど、それによって一件落着ということにはならぬ。教師は「その場」を切り抜けた快感を味わうことはできても、子供を教育したことにはなるまい。「白を切る」自分を見つめさせ、その不純を恥じるようにするのが教育本来のあり方なのである。

子供に問うてみるといい。「君は、正義を愛しているのか。それとも点数を愛しているのか」──と。「点数です」と答えたら、以後「全て100点をやろう」と言えばよい。その無意味さをとくと分からせたい。「正義です」と答えたら、念の為、「確と相違ないか」と確認しよう。そうだ、と言ったら、「では──」と言ってコピーを見せたらいい。彼は白状せざるを得まい。「一度噓をつくと、その噓を隠す為に次の噓を重ねなくてはならなくなる。噓は愚行だ。

3 子供の状況や心に寄りそう

実は、この話には続きがある。「親を呼び出して白か黒かはっきりさせよう」という方向に傾きかけた時、「噓をついてまで必死に成績を上げようとする子供が心配でたまらない」と考える教師がいた。事の経緯を調べると、親の出身高校に進学せよと命じられ、点数が下がると親にひどく叱られるのだと洩らしていたことが分かった。

その親に対して「コピー答案」を突きつけることになると、子供の前で親をやりこめることになってしまう。それはまずい。

「子供も親も悪者にせず、子供の苦しい状況を親に理解して貰えるように話したらどうか」──という考えが生まれてきた。成程、ということになって展開が変わる。

面談の当日、厳しい表情で来校した両親に教師は、次のような話をしたそうである。

「親思いのお子さんですね。親を尊敬していて、親に失望させたくないと強く思ったのでしょう」。親と同じ高校に進学できなければだめだと思いこんでいる日頃の子供の様子や悩みを教師は丁寧に説明をした。話を聞いていくうちに、両親はうつむいた。

かくて、子供も、親も傷つけることなく、この一件は静かに幕を引くことになった由である。

この新聞のコラムの筆者は次のように述べている。「子供の問題行動には必ず理由がある。過ちを正すことは大事だが、なぜそんなことをしてしまったのか、まず子供の置かれた状況を知るべきだろう。子供の気持ちを理解し、受けとめなければ、良い方向へと導くことは困難だ。問題行動は、その子に関わるチャンスになる」そうだ。

このコラムは次のように結ばれて終わる。

もちろん答案を書き換えてしまうといったことは間違った行動だが、子供自らがそのことで苦しい思いをし、二度としないと思うように手助けをしていくことが学校現場において大事なことではないか。行為を正すことばかりに気を取られると、その子供の苦しみを理解する機会を逸してしまう。
「先生、ごめんなさい」と自分の失敗を告白し、先生に相談できる子供は幸せだ。
(産経新聞 2018年4月25日)

(コラム「解答乱麻」藤崎育子氏による)

4 邪を破らずして

大人も子供も、昔とは心のありようが随分違ってきたようである。昔の教育のありようは単純であり、あまり難しく考える必要はなかった。駄目なものは駄目、と言えば大方の納得がなされた。「正直一筋」「誠心誠意」で当たれば大方が解決した。「勧善懲悪」「破邪顕正」を貫くこともできたが、今はそうでなくなり、「忖度」も必要だし、指導にも「深謀遠慮」が必要になり、「石橋を叩いて渡る」慎重さも求められるような時代、世相になってきた。

それが、本当に良いことなのかどうかは俄(にわか)には決めかねるが、「今までどおりでよい」という訳にもいかなそうである。

私が40年も学び続けているモラロジー研究所の開祖、学祖である法学博士廣池千九郎は、次のような格言を生んでいる。

邪を破らずして誠意を移し植う

「邪を破らず」とは、他人の不正や過失に対して、非難や攻撃を加えてそれを性急に正すことはしないという意味。「誠意を移し植う」とは、人を育てようとする深い思いやりの心を相手に注ぎ、その人がおのずから自分の非を改めるようになるまで導くことを言う。

他人の過失や不正を見ると、直ちに忠告、非難、攻撃をしがちだが、現実にはそのようにすることがかえって相手を傷つけ、反省の芽を摘んでしまうことがある。他人の過失や不正に対しても、社会の矛盾に対しても、相手の立場や社会全体の立場に立って、全ての人を生かし、育てていくという慈悲の心で対処するのがよいのだ──。

以上が廣池学祖の格言についての解説である。これらは前掲の藤崎育子氏の考えと軌を一にするところがあって考えさせられる。但し、藤崎育子氏は現代の人であり、廣池千九郎はすでに故人である。この格言を生んだのは大正15年、今からざっと90年も昔のことである。時は隔たっても、不易の真理は不変、不動なのだと、今更のように哲人の言葉の重みを思う。

若き日の「破邪顕正」「勧善懲悪」「猪突猛進」に憧れ、それでよいのだと思いこんでいた未熟な時代を、懐かしく思う。また、未熟な時代の私の教育を受けた子供らに申し訳ない思いも湧く。

「生涯学習社会」と言われて久しい。世も人も、文化もいろいろと多様になり、様々な考え方が錯綜する現代である。何が本物で、何が正しく、何が誤りなのかを的確、適切に判断できる力を保つべく、常に学び続ける姿勢だけは忘れまいと自戒をこめて思う。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2019年6月号より

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