教員の資質向上実践論(下)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第21回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
教員の資質向上実践論(下)

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第21回目は、【教員の資質向上実践論(下)】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。


3 教員の資質向上・私の実践

③ 本を読むという研修法の不易(承前)

私の生涯の師、平田篤資先生から、折に触れてはお借りする本によって私の読書の幅が広がっていくことになった。ところが、ある時お薦め戴いたノーベル生理学・医学賞を受賞したフレミングの伝記が何とも私には面白くない。先を読むのをあきらめ、平田先生の赤線部だけには目を通すことにして読み進めると、何とも不可解なところに赤線が引いてある部分に出合って、私は戸惑った。下らないとしか思えないところなのだ。しかも、二本線が濃く引かれている。

お訪ねした折に件の伝記をお返ししつつ、

「どうにも腑に落ちないところに先生が線を引かれていて戸惑いました。どうして、あんなところに引かれたのですか。しかも2本です。──ここなんですが」

と申し上げて該当の箇所を開いた。

それは、こんな場面である。フレミングは青黴(かび)の一種が有害な細菌を殺していくことを発見する。その因果関係について何度も実験を重ね、ついに確信を持つ。満を持して世界的な学会に発表することになった。そこで、恩師を研究室に招き、その現場をお見せする前のできごとである。

フレミングが老恩師を案内して先導していく。老師匠が階段を上がってフロアに出ようとしたところで、フレミングがふと姿を隠す。老教授がどっちに行ったらよいのか戸惑っているところへ、物陰に隠れていたフレミングが突然に「わっ」と言って老教授を驚かせる。老教授がのけぞるようにして驚く様を見ながら、フレミングは手を打って大笑いするのだ。平田先生は、そこに線を引いている。しかも2本もだ。

失敬、失礼、無礼である。場合によっては打ち首、斬り捨てになってもおかしくないような、馬鹿馬鹿しい場面である。下らない。実に下らない。──というのが私の正直な感想であった。

「うーん、そうか。それは、私がまさに膝を打ったところだよ」

と、平田先生はにこにこしながら言われた。私には益々分からない。

「先生、それは一体どういうことですか」

と言う私の問いに先生は答えてくださった。

「私は、長い間、天才というものはどのようにして生まれるのかを考えてきた。いろいろと天才クラスの伝記を読んでいくうちに、ある仮説が漠然とだが見えてきたんだよ」

「その仮説というのは──」

と、言いつつ先生はゆっくりとお茶を飲み干され、いかにも楽しくてたまらないという表情でこんなことを話された。

「天才というものは、いつまで経ってもまるで子供のような天真爛漫、無邪気ないたずら心を持ち続けているらしいということだよ。フレミングの伝記の、そのところで私の仮説が確信に変わったのだ。だから嬉しくなって2本も線を引いた、という訳だ」

私は、この話を伺ったとたんにはっとした。「そうか! 本というのは、そうやって読むものなのか!」と、眼から鱗が落ちた思いがしたのだ。先生のような読み方を一度でも私はしてきたことがあったか。否である。興味本位、教養本位、受験本位、実用本位の読み方しかしてこなかったのではないか。──そうか。そうだったのか、と私は深く得心するところがあった。

その時から、私の本の読み方は明らかに一つの脱皮をしたと思っている。自らの問題意識、疑問、強い関心に基づいた読み方にしようと決めた。長いようで短いのが人生だ。「学び続けようとする者にとっては、人生はあまりにも短い」と、いつか、平田先生が呟いたことがある。漫然と本を読むことをいくら続けても、さしたる実りはあるまい。持つべきは師である。まことに「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」(『徒然草』52段)である。

ピアノでも、書道でも、剣道でも、「師を持ち、師に学ぶ」ことなくして上達、大成は不可能である。私は、つくづく良き師に恵まれたと思っている。人生の師平田篤資先生、書道の師齋藤翠谷先生、国語教育の師高橋金次先生、この三師への感謝は忘れたことがない。今となってはみな故人であるが、その教えは今も私の中に生きている。

「人がこの世を去り行く時、手に入れたものは全て失い、与えたものだけが残る」とはまさに至言である。目下の私の師は、これも外科医師の三枝一雄先生である。すでに86歳の御高齢ながら医道、句道、モラロジー研究、現代史研究に励まれている。毎月の一夜を拙宅にお招きして御指導を請うているが、それも早二十数年を閲している。

憧れの人と直々にお会いし、その謦咳に接することの楽しさと幸せ感は最高である。

イラスト21

④ 「本」を読む

2、3年前から高齢難聴が進行している。補聴器も7つ、8つ持っているが、どれも満足できない。「聞こえない」のではない。「聞きとれない」「聞き分けられない」のである。久々に耳鼻科を受診したら、「治しようがない」と宣告されていっそのことふんぎりがついた。映画も、観劇もほとんどその科白を解することができない。観劇のサークルに入っていたが今年で退会する。

幸いに、眼は何とかなる。本だけは読める。書ける。これは本当に有難いことだ。

憧れの師を持つべきだという話をすると、「そのような人がいない」「出会えない」という人がある。仕方がない。

しかし、そんな人でも「本」なら読めるだろう。その「読書」が問題になっている。「日本教育新聞」(平成30年10月22日号)の社説は「文字・活字文化の振興」を取り上げている。今の大学生の読書生活調査(全国大学生協連)によるデータを引いている。

 ア、1日の読書 0分が53%
 イ、2人に1人が図書に触れず
 ウ、これらは5年前と比べて19ポイント増

「1か月に1冊も読まない」(文部科学省調査)
 エ、小学5年生 8%
 オ、中学2年生 19%
 カ、高校2年生 36%
※年齢が上がるほど本を読まない。

読書の効用については言うまでもない。

新しい知識や情報が得られるだけでなく、想像力や空想力を養い、感性を豊かにする。これらは、新しいものや価値を生み出す源になる。文字・活字には映像と違った力がある。
(同紙「社説」)

担任時代の私はよく自分が読んだ本の内容や感想を子供に伝えていた。すると、何人かの子供が「その本を読みたい」と言って借りに来る。私はそれに応えてよく与えた。動機づけがなされた読書は主体的になる。本を読まない教師の「読書指導」は本物ではない。偽善的な教育ペテン師とも言える。まずは、教師自身が「本を読む存在になる」ことを措いては、子供の読書指導は成立しない。この原点を共有したい。教師修業、教員の資質向上の大きな一つがまず「読書」である。教師自身の読書振興こそが肝要なのだ。

読書は最も安価かつ効率的な修業法である。会える筈のない人にも本では会える。話が聞ける。考えを知ることができる。教わることができる。時間を超え、空間を超え、読みたい本では簡単に出合える。

しかも、自分の都合に合わせていつでも、どこでも、好きなように読むことができる。ポケットに入れ、鞄に入れて持ち歩けるし、家庭でも読める。書斎でも、トイレでも、ベッドでも読める。こんなに便利でこれほど質が高く、手軽で、安価な修業法はない。

但し、書物からの積極的な働きかけは全くない。無言であり、静かであり、動かない。紙面は紙に小さな染みが無愛想に連続しているに過ぎない。

だが、読み手が働きかけさえすれば、無限の情報を引き出すことができる。書物の文字には動きも、音も、色もないのだが、黙読する者をある時には笑わせ、考えさせ、反省させ、怒らせ、悲しませ、勇気を与え、慰めてもくれる。読者の働きかけに対して自在に応えてくれる。それが読書である。

私の現在の読書は、出かける折の乗りものの中、ベッド、トイレ、雨でも降れば珍しく書斎というところである。長く遠距離を電車で通勤したので、往復の車中は貴重な「動く書斎」として十分に活用した。その習慣は今に続いている。

雑誌では、角川書店の『俳句』、『致知』『生命の光』『明日への選択』『圓一』『総合教育技術』『国語教育』『波』『本の窓』『本の旅人』『きらら』『ハーストーリー』、結社誌『音信』『日本の息吹』『やくしん』『佼成』等々十数誌に及ぶ。

新聞は「日本教育新聞」「産経新聞」、単行本は必要と関心に委せて適宜の購入。常に赤ペンを持ってサイドラインや書きこみを楽しみつつ読む。もはや退職して無職の身ながら、国語、道徳、幼児教育、家庭教育、と四つの側面からの執筆や講演の依頼があるので、「読書」によって何とかそれぞれの任を果たしている。書物も師である。

テレビは一切見ないので、そこでの話題には全くついていけないが、それで特に困ったことはない。私の情報源の大方は読書と多くの交友、出会いとのお蔭である。今でも、あっと言う間に一日が暮れ、あっと言う間に朝が来る。元気と多忙に恵まれて有難い毎日である。

⑤ 「観」を磨く

人生観、教育観、人間観、女性観、楽観、悲観、価値観、幸福観、職業観等々、いろいろに使われているのが「観」である。諺的に言えば、「見方、考え方、受けとめ方」ということになる。「観」が貧しいと万事が辛く、苦しく映るし、反対に「観」が豊かであれば、日々は楽しく、嬉しく、面白く、有難く映る。附属小学校教諭時代の校長だった島田良吉教授は、「教育とは、良き人生観を確立することだ」と、よく言っておられたが、むべなるかなと今にしてつくづくこの言葉の重さを思う。

教頭の折に「今週の目標」が「廊下を走らない」と決まり、その週を私が担当した。この1週間は一人として廊下を走る子などないようにしよう、と週番の子供を集めて訓辞し、その具現を期した。週番児童が「分かりましたっ」と言ったとたんに走って帰ろうとする。「こらあっ」と怒鳴って集め直し、「そんなことでどうする!」と一喝した。さて、あっと言う間に1週間が過ぎたのだが、廊下を走る子供は一向に減ることなく、私は疲れ切った。敗北感ばかりが私を覆った。「廊下を走らない」なんてことは、明治5年の学制頒布この方、どれほど繰り返されてきたことだろう。こんな簡単なこと一つが、平成の代になってもなお解決、解消できずにいる。一体、教育は進展してきたと言えるのだろうか。

私は、敗北感と失意のうちに、師匠平田篤資先生をお訪ねして、何か妙薬がないものでしょうか、とお伺いした。私の話を聞き終えた先生は、破顔一笑、こう言われた。

「子供というのは廊下を走るものだ。俺など走れと言われたって走れやしない。一人も廊下を走る子供がいないなどという学校こそが問題なのだ。それは幽霊学校だ。廊下を走るのは子供の本性だよ」

参った、参った。子供観、教育観の差だ。

(次回に続く)

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2018年12月号より

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