コロナ禍の学校閉鎖は学力低下を生むか(上)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第40回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第40回は、【コロナ禍の学校閉鎖は学力低下を生むか(上)】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
1 緊急事態宣言解除
「緊急事態宣言、39県は解除、きょう決定」と某紙のトップ記事である。「8都道府県で継続」という方が大きなタイトルである。「継続」の「都道府」は言うまでもないが東京、北海道、大阪、京都の4地域、県は神奈川、千葉、埼玉、兵庫である。
解除と継続の分岐点は、新規感染者数と医療提供体制の2点の由である。一応の目安で少しは安堵するだろうが、「自粛疲れの揺り戻し」によって、「感染の第2波」が仮に大きくなれば「危機的」とも報じられ、油断を戒めている記事が多い。重要な警告として重く受けとめたい。
さて、学校の閉鎖問題である。令和2年2月27日、安倍総理大臣(当時)から直々に一斉休校の要請がなされて以来、大方の小、中学校が5月31日までのほぼ3か月90日を休校することになったが、今後どのようになっていくのかは、依然として不明確のままである。
この、まさに想定外の長期休校によって、クラスターの発生阻止には大きく貢献することができたに違いない。これほどの世界的な大問題にはなっていなかった2月の下旬頃、文部科学大臣からの要請を跳び越えて総理大臣からの直々の要請がなされたことに正直のところ驚いたし、いささか奇異にも感じた自分の無知、不明に恥じ入るばかりである。
一国の命運を預かる立場にある総理大臣としての、決断に至るまでの深謀遠慮の困難、苦悩は凡俗の想像を絶するものであろうと改めて思う。
緊急事態宣言の解除を機に、学校業務の再開に踏み切る自治体もあちこちで出始めているが、「3密」にならぬよう慎重にいろいろの配慮がなされつつの再開である。北海道では独自の休校措置に早めに取り組み、感染の低下を見て再開したが、再び休校措置を講ずることになった。
このような例も、学校現場を預かる校長、教員、教育委員会にとってはどのように判断すべきか苦しむところであろう。政府の考えを基本に、地域の事情を十分に考慮しながら、適切な決断をされるよう祈るばかりである。
2 長期休校の寂しさ
3月で学校の年度はひとまず終わった。修了式や卒業式を取りやめたところも多い。また実施はしても、在校生も保護者も教育委員会関係者も同席しない全く異例の卒業式になったところも多いと聞く。何とも致し方のない残念な形だが、止むを得ない結果となった。
3月は別れの季節、寂しさは付きものとも言えるので、考えようによってはまだ心の傷が浅いとも考えられる。だが、4月は出会いの季節、誇らしい出発の時である。その輝かしい希望の入学式も挙行されないままというところが大方である。これは、かなり寂しく、辛いことだ。形だけの入学式を高校などでは実施したところもあるようだが、小、中学校では、新しい入学児童や生徒にも、担任する子供にも一度も会っていないという状況が一般のようである。
そんな状況であるから現職の先生方も異口同音に「子供のいない学校は本当に寂しい」と言う。その通りだと思う。そういう中で、できるだけのことをしようと、Zoomを使ったオンライン訪問や対話や、授業を試みているところもあるようだが、いずれも平常時の授業の効力と比すれば、かなりの落差があることは否めまい。改めて「無事平穏」の日常の有難さを思わずにはいられない。
私は、すでに現場を離れて24年にもなり、今は無職の年金生活者である。現職の皆さんのように直接の課題や差し迫った悩みには遠い立場にあるので具体的な提案などは差し控えたいし、またできるものでもない。
では全くの無関係者、傍観者、門外漢かというとそうでもない。コロナ禍さえなければ、現職の皆さんに仲間入りをしてあちこちの勉強会に出かけて教材研究や授業研究を行い、それらが終われば必ず「百薬の長」と言われる酒の席で大いに現職の皆さんとの食飲会議を楽しんでいる筈である。コロナ禍さえなくば、「3密」を大いに実践し、その御利益に与っている身であるが、その一切が取りやめ、中止、延期となり、「寂しい」という点では現職の皆さんと同じである。
同じ「寂しさ」を共有する仲間の一人として、コロナ禍を機にいろいろと考えさせられたこともある。それらは、現職の読者諸賢の「直接の課題や差し迫った悩み」の役には立てそうにないが、少し心を緩めたり、ちょっと肩の力を抜いたり、久々に頭を空っぽにしたりすることには多少貢献できるかもしれない。大切な時間を無駄にはしたくない方には申し訳ないので、ここで「退場する」をクリックしてくださるようお願い申し上げたい。
3 夏炉冬扇
「予が風雅は夏炉冬扇の如し。衆に逆ひて用ふる所なし」とは、俳聖芭蕉の言葉として知られる。「自分の俳諧は世間無用のものであるが、それ故に功利性や俗性を超越している、という信念を示すもの」(『世界大百科事典』第2版 小学館刊)。「夏炉冬扇」は、「夏の火鉢と冬の団扇。無益・無用のもののたとえ。後に役立たない言論や才能などのたとえ」と説かれている。
この「緊急事態宣言」の世情の下でいささか不謹慎の謗りを免れまいけれど、「親が死んでも食休み」ともいうから、夏炉冬扇の戯言に耳を傾ける「ゆとり」ぐらいは欲しい。「食休み」は「じきやすみ」と読むのが正しいので念の為。さらに蛇足だが、この古言は「どんなに忙しくても、食後の休息はとらなくてはいけない」という「戒め」と、ある辞典は説いている。以下に述べるいろいろは、コロナ禍の下における私の「夏炉冬扇」の炉辺語りの一端ではあるが、同時にそれは私なりの「本音、実感」であり、多少は「教育不易論」にかかわりを持つであろう種種(くさぐさ)である。
先にも書いたように、「3密自粛」によって一切の会議、会合がなくなり、毎日在宅するようになった。形の上では「縛られること」がなくなったので、時間は十分にある。三度三度の食事もゆっくりできるし、せかせか齷齪(あくせく)からは解放され、いろいろのことを考えるゆとりも生まれた。また、いろいろと考えさせられもしている。そんな中からの「冬扇語り」である。
4 平穏無事の日常の有難さ
宅地続きの山林を開発し、住宅地を造成して売ることにした。近所の某氏がこれに「北風が吹いて来て寒くなるから反対だ」と異を唱えた。その時、父は「あの山のお蔭で北風が防げて有難い、とは言われたことがない」と言って取り合わなかった。すでに30年近い昔のことで、某氏も父も世にないが、この一件は妙に忘れられずにいる。
日常の平凡な日々の有難さはほとんど意識に上ることなく過ぎ、それが破られると不満、不平となって意識に上る。感謝することは忘れ、不満や不平は忘れることなく強烈に意識される。それが人の常らしい。
定年退職をし、再任用を申し出て担任を続けている例は多い。A教諭は、「こんな歳になっても担任を続けられるなんて本当に有難い」と常に笑顔で話してくれる。B教諭は、「同じ仕事をさせられているのに給料はがた減りなのよ。頭にきちゃう」と不平と不満を口にする。笑顔がない。両者は同じような立場なのだが、日々の幸せの実感は随分違いそうだ。B教諭が、「今までの給料が高かったことに気づいた。有難い立場だった」とでも言ってくれたなら少しは救われるのだが──と思ったことだ。
コロナ禍で休校措置が講じられ、共働きの家庭では子供の世話ができないと「困り」、「悩み」、「苦情」を訴える多くの例が報じられているが、「これまでの学校の有難さが分かった」とか、「先生方の大変さに気づいた」というような言葉はあまり見ることも聞くこともない。──どうやら、人の多くが「受けている幸せや有難さには気づきにくく、不平や不満に対してはより敏感に気づく」という傾向があるらしい。
この傾向、あるいは事実が本当だとすると、案外これは重要なことである。唐突だが、そうであるとすれば、人は死に臨んだ時に自分の来し方を振り返れば「不平、不満」の思い出が多く、「幸せ感」の記憶は少ないことになる。先のA教諭とB教諭では言うまでもなく、A教諭の教員人生の方が幸せである。来し方を思い出す度に「幸せ感」に満たされるだろうからだ。反対にB教諭は、来し方を思い出す度に「不平、不満」に満たされ、疎ましいことだろう。それは気の毒なことだ。
こんなあれこれを考えられたのもコロナ禍に遭えばこそのことである。このような実感に支えられた「道徳の授業」を構想してみるのはどうか。教科書教材を「計画的に」「順序よく」扱っていくよりも、はるかに厚みと深みのある授業ができるのではないだろうか。「平穏無事の有難さ」を子供たちに実感させられたら、それは人生の随分大きな財産になるに違いないと思うのだがどうであろう。
5 長期休業と学力の低下不安
ざっと3か月に亘って学校が閉鎖されたことによって、ブランクになった授業時数を思えば、子供の「学力低下」は当然であろうし、その挽回、復旧はなかなかの難問題となるであろう。オンラインの駆使によってできる限りのカバーをしようという努力はなされたにせよ、平穏の時に行われていた平凡な対面型の授業の効力とはかなりの差が生ずるであろうことは疑うべくもない。
だが、ここで改めて考えてみたいことがある。私は、国民学校4年生、10歳の8月15日に敗戦を迎えた世代である。千葉の農村地帯が私の郷土なので、大都会のような大空襲には遭わないまま過ぎはしたものの、「非常時」下にあった昭和20年(1945)の国民学校はほとんど「授業」などはなかったと言ってよい状況だった。
「食糧増産」は喫緊の課題であり、出征兵士を送り出した農家の田や畑の草取りや手伝いに毎日のように学校の子供も駆り出された。たまにそういう予定がなく授業が始まると、警戒警報や空襲警報の半鐘が鳴り、防空壕に避難しなければならない。
田舎でさえも「米のめし」は満足には食べられず、芋や大根を混ぜた「混食」が日常的で、大人も子供も痩せていた。肉や魚を食べるなどというのは物語の世界に等しく、せいぜいざりがにやどじょうや鮒をすくって動物性タンパク質を僅かに補う始末だ。
敗戦によって戦禍からは解放されはしたものの、教育の正常化はずっと先のことだ。小学校の5年生、6年生は、敗戦直後の混乱が続いていたから、教科書もないし、教員もいないし、学校の校舎さえもないところがいくらでもあった。家も身寄りもない「浮浪児」が都会にはいっぱいいた。
さて「学力問題」である。敗戦を挟んだ数年間の日本の子供、若者の「教育」は、ほとんどなされなかったと言っても大きな誤りはあるまい。みんな、その日その日が「生きる」ことに精いっぱいだったのだから無理もない。では、当時の子供や若者の学力不足が、その後大きな社会問題となったか。当時の子供や若者の学力不足は大きな禍根を残すことになったのかということだ。
(次回に続く)
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2020年7/8月号より