新型コロナウイルス禍への対処 ー「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫す。」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第39回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第39回は、【新型コロナウイルス禍への対処 ー「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫す。」ー】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。
目次
1 コロナ禍、ハイペース
「国内感染1万人超す──9日間で倍増、東京181人」、令和2年4月19日(日)、産経新聞第1面のトップ記事の見出しである。リード文の結びは「3月末以降、1日の新たな感染者確認が数百人というハイペースとなり、市中での感染拡大の勢いは衰えを見せていない。」となっている。コロナの惨禍は、いよいよ勢いを増しているようである。
加えて、感染経路不明者数は増す一方である。どのように予防すればよいのか確たる方策も不明のまま、「密閉、密集、密接」の「三密」自粛が当面の努力事項となっている。「緊急事態宣言」は全国に及んだ。このことによって、同紙3面のトップは「耐える列島 週末閑散──観光地『売り上げ皆無』」という切実な見出しを掲げている。
大きくはオリンピック開催の中止、延期を始めとして、小さく身近な所では公民館や公共集会施設の閉鎖、学校の休校措置、様々な店舗の休業などなどがなされ、そのことによる解雇、内定取り消し、就業制限等が生活不安を生み出している。
これらは、多くの人々にとって未曾有の事態との遭遇であり、不安は増す一方である。かと言って、妙案がある訳ではない。成り行きを見る。様子を見るしかないのが実状である。では、どのように身を処したらよいのだろうか。
2 万物流転、諸行無常
改めてこの二つの言葉の本義を確かめておきたい。
万物流転 「万物は流動変化してきわまりないということ。パンタ−レイ 万物は流転するの意で、ヘラクレイトスの言葉」(『広辞苑』)
諸行無常 「仏教の根本思想で、三法印の一つ。万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ」(『広辞苑』)
ほぼ同じような内容のことを述べた二つだが、前者は主としては物質的なことについて述べ、後者は人間の心について述べているニュアンスがある、という解説がある。
私は、この二つの言葉が好きで、北京に観光に行った折に篆刻(てんこく)の店でこの言葉を彫って貰い、短冊や色紙の関防印としてよく使っている。「万物流転」は古代ギリシアの哲人ヘラクレイトスの言葉であり、「諸行無常」は、釈迦の説いた仏教の言葉とされるが、いずれも真理を言い得て見事である。新型ウイルスのコロナ禍が大問題となっているが、問題が大きくなればなるほどこの言葉の重みを実感している昨今である。
思えば戦後70余年、天変地異の災害には何度か見舞われてきたが、それらはいずれも「ある地域」「ある範囲」での出来事であり、時間の長短はあるにしても、いずれは復興の予想が可能であり、それを目指した努力がなされてきたのだった。東日本大震災の放射能拡散も大事件だったが、それすらもせいぜい日本国内での問題であったと言える。
だが、今回のコロナ禍の規模は、今までのそれらとは比較にならない全世界的な、正に時空を超えた大事件である。人類史上初めてのオリンピック中止、延期決定の事実がそれを物語っている。
思えば、敗戦後この方の国民の生活は、戦禍に見舞われることがなかった「平和」のお蔭で、まずまずの「平穏無事」が続いてきたと言えるだろう。だが、その「平穏無事」が、この先もずっと永久に続くなどということは、本来あり得ない筈である。「万物流転」「諸行無常」の二つが、はっきりとそれを示している。不易の真理だ。
万物流転、諸行無常が説いていることがこの世の真理、本質、哲理であるとするならば、これを避けて生きることはできない。「受けて立つ」ほかはない。
3 疾風に勁草を知る
上の言葉の意味するところは、
「激しい風が吹いて初めて強い草が見分けられる。艱難にあって初めて節操の固いこと、意志の強いことがわかるたとえ」(『広辞苑』)
とある。出典は『後漢書』の由。「勁草」とは、文字どおり「風になびかぬ強い草」であるが、「節操の固い人にたとえる」とも付記されている。「節操」は、「信念をかたく守って変えないこと」である。
我々教育者は、コロナ禍という未曾有の変事、疾風に遭遇しているこの時にこそ、不動の信念の下に、泰然自若、頼もしく振舞い、行動せねばならない。
4 君子固(もと)より窮す
懐かしい一件を思い出す(文中の子は孔子)。
「もう間もなく蔡の国に入るという、陳国辺境区の小さい土屋の集落ですが、そこに辿り着いた時、子を初めとして誰も彼もが、飢えと疲労で身動きできなくなりました。」
井上靖の最後の作品『孔子』第一章三の中の一節である。弟子を連れた孔子の一行は、敗残部隊に襲われ
「易車や、車に積んであった食糧は勿論、多少の旅の衣料、寝具も尽(ことごと)く持って行かれて」
しまい、さすらいの旅となった場面である。孔子は桐の木の下で琴を弾いている。そこへ、
「突然、どこからともなく、子路が立ち上がって来ました。そしてふらふらした亡者の足どりで、子の方に近寄って参ります。子のところからは琴の音が流れております。(中略)──君子も窮することがありますか。
子路は子に向かって、投げつけるように、そのような言葉を口から出しました。まるで憤っているようです。実際にまた、憤っていたかも知れません。皆がこうして飢えて死んでゆくのであれば、一体、今まで、われわれは何をしていたということになるか。子路は腹が立って来たのに違いありません。(中略)子路は、また(同じことを)言いました。すると、子は琴をはなして、子路の方に顔を向け、
──君子、固(もと)より窮す。
と、仰言いました。皆がはっとするほど大きな、力のはいった声であります。そしてそれを追いかけて、
──小人、窮すれば、斯(ここ)に濫(みだ)る!
子は仰言いました。小人が窮すると、みだれてしまう。自分を取り締まることができなくなる。併し、君子はみだれない。こういう意味でありましょう。(中略)」
子路は立ったまま、深々と子の方へ頭を下げ、両腕を大きく水平に広げると、ゆっくりと踊り始めます。
「この時、子路は泣いていたのではないでしょうか。“君子、固より窮す。小人、窮すれば、斯に濫る!”──この詞を師に口から出して頂いたことを思えば、飢餓が何であろう、餓死が何であろう。子路はうれしくて、──と言うより、大きな感動に見舞われて、彼は舞踏の韻律に、自分をのせずには居られなかったのでありましょう。」(新潮文庫p.72・73より)
私は、一人住まいの函館の官舎の布団に横たわって『孔子』を読んでいたのだったが、この場面に至って起き上がり、正座となり、本を伏せた。言いようのない涙が溢れて、拭えばまた溢れた。滅多にないことだ。「感動」とはこのことか、と思った。
孔子の一行は、敗残兵に襲われて一切の旅の財を失う。ピンチ、危機、「疾風到来」である。子路は、子貢、顔回らと並ぶ高弟だが、孔子に苛立ちをぶつけて「君子も亦窮すること有るか」と詰め寄る。浅見だが「窮することがあると言うなら、まだ君子とは言えないのではないですか」ぐらいの下心があったのではないか、と思う。このように問うこと自体がすでに「小人」であり、「斯に濫る」という事態を露呈していると言えよう。師弟の落差は桁違いだ。
孔子は、同じ境遇にありながら、紫色の桐の花の下で静かに琴を弾じていた。だが、挑戦的な子路の態度に対して、師は静かに仁の道を説いたのであろう。子路もさすがである。この一言で全てを悟り、己の非に気付く。「この時、子路は泣いていたのではないでしょうか。」──と、井上靖は話者の蔫薑(えんきょう)(架空の弟子)に語らせている。見事な描写と感嘆の他はない。
5 教育者としての自戒と覚悟
新型コロナウイルスの感染拡大による災禍の勢いは、衰えを見せていない状況にある。このあと、さらに様々な悲劇を生むことも考えられる。そのことによって世情の混乱や不安が増すかもしれない。全く楽観、予断を許さない「緊急事態」であること間違いない。さらに、いつ止むともしれない状勢だから始末が悪い。
だが、そのような事態になればこそ、本物の実力、判断力、決断力が問われてくるとも言える。いわば我々教師の「力の見せどころ」でもある。信念、節操が問われる舞台に立つのだ。
外国では、すでに掠奪や暴動が生じている所もあると報道されている。また、家庭内暴力DVの事例も発生、増加の傾向にあるとも報じられている。世情が荒み始めている。
かかる事態に対して、教育者としてどう対応することが望ましいのか、職場や、学級や学年での話し合いも生まれてこよう。
その場凌ぎや、隠し立てや、閉鎖的な内密処理は禁物である。然るべき人に相談したり、指導を仰いだりする慎重さと謙虚さが欠かせまい。
私は常に「根本、本質、原点」の三つを自らに問うことを心がけている。「根本的には何が重要か」「問題の根本は何か」、「本質的には何が問題か」「本質的な解決はこの場合何か」、「問題の原点はどこにあるのか」それらを考え、吟味、検討し、解明することが肝要である。
また、ある解決策、対応策、対処法が明らかになったとして、その策の妥当性、正当性を改めて、入念に検討する慎重さも必要になる。その観点として二つのことを書いておきたい。
一つは、「それが続いた場合に良い結果を生むか」「長く続けることが望ましいか」という時間軸、縦軸の観点である。当座は良いが、続いたら困るというのではまずい。「一律10万円給付」策の先行きがやや気になるところだ。焼け石に水にならねばよいのだが──。
もう一つは、「それが広まることが望ましいか」という広がりの視点、横軸の問題である。
「休校策」を、ある程度地域の実情に合わせて実施させるのは、この点から良策だと思う。
「一律一斉」の長短や功罪の吟味は慎重、かつ肝要な配慮だろう。
いずれにせよ、前例のない事態が発生しているし、さらに新たに発生もするであろうから、「固(もと)より窮す」ことはあろうけれど、「斯(ここ)に濫(みだ)る」ということにはならぬようにしなければならない。
古人は「艱難汝を玉にす」と教えている。「窮する」ことをむしろ天恵、天啓と心得て、より良い人格成長の糧とする機会としてコロナ禍をも生かしたい。
なお、引用した井上靖の『孔子』はあくまでも小説であり、『論語』の学問的解釈そのものではないことを付記しておきたい。
引用場面は、「衛霊公第十五」の「一」を出典とする。原文を読み下し文で示しておく。
「陳に在りて糧を絶つ。従者病みて能(よ)く興(た)つこと莫(な)し。子路慍(いか)り見(まみ)えて曰(いわ)く、君子(くんし)も亦窮(またきゅう)すること有るか。子曰(しいは)く、君子(くんし)固(もと)より窮す。小人(しょうじん)窮(きゅう)すれば斯(ここ)に濫(らん)す」
諸橋轍次博士の『論語の講義』(大修館書店刊)の中には、
「旅中において食糧が欠乏し、孔子の供をしている者達は病み疲れて誰一人立ち上がれる者もない。」
とのみある。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2020年6月号より