学校教育はこのまま進めてよいのか ー何がおかしいのかー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第29回】

連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
関連タグ

植草学園大学名誉教授

野口芳宏
学校教育はこのまま進めてよいのか ー何がおかしいのかー【本音・実感の教育不易論 第29回】

教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第29回は、【学校教育はこのまま進めてよいのか ー何がおかしいのかー】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。


1 「楽道会」の月例会

毎月1回、夜の7時から9時頃までの2時間を、教員仲間との勉強会に充てて数年が経つ。会場は拙宅である。私を除けばみんな現職の身であったのだが、いつの間にか現職者は2名となり、退職校長等が7名を超えた。主として道徳教育、とりわけモラロジー教育研究所の考え方を中心に学び合うので、「人としての生き方の道を学び楽しむ」ということから「楽道会」と名づけている。その名の如く「道を楽しむ」集いだが、時にかなり激しいやりとりになることもあって、結構真剣な学び合いが続いている。楽しく、嬉しい集まりである。

教育の職を退いてもなお学び合い、学び続けようと努めている仲間を私は誇りにしている。そんな学び合いを通して、改めて考えたことを今回は記してみたい。

昭和11年、1936年生まれの私は、国民学校初等科4年生の8月、房総半島の片田舎で敗戦を迎えた。「欲シガリマセン、勝ツマデハ」「贅沢ハ敵ダ」「鬼畜米英撃滅」「滅私奉公」「神州不滅」というような、悲愴、深刻な世相、風土の中で子供時代を過ごした。衣、食、住のどれをとっても満たされているものなど一つとしてなかった。我慢、辛抱という言葉が似合いそうだが、豊かな時代や世相を知らない者にとってはそういう感覚はなく、「そういうものなのだ」と思ってそれなりに楽しく暮らしていた。

そのような世代の私から見れば、現在の日本の豊かさ、便利さ、楽しさ、面白さは全く「夢のよう」である。衣、食、住どれをとっても「有り余る」時代になっている。「貧困家庭」「貧困児童」などが話題になっているが、その為に餓死者が出たなどという話はない。現代日本の「自由、平等、平和、富裕」はユートピアそのもの、パラダイスそのものと私には映る。だから、現在の私には格別の不平や不満や困窮に当たることはない。今のままで十分すぎるほどに有難く、毎日を感謝の内に暮らしている。

だが、心配、気がかりなことがないかと言うと、そんなことはない。

イラスト29

2 今までの教育継続の可否

子供の世界のいじめの根絶が叫ばれて久しいが、その著効は依然見られない。小・中学生の不登校も14万4000人超(2017年度)で、「過去最多を更新」と文部科学省は発表している。内閣府は、2010年7月「引きこもり70万人、予備軍155万人と推計」を発表し、厚生労働省の推計は25万5000世帯と発表している。子供を虐待する痛ましい事件も後を絶たないどころか、多発漸増の傾向を見せている。

いずれも「心の闇」「心の病み」が引き起こしていることである。「物で栄えて心で滅びる」ということも言われて久しいが、その傾向はいよいよ強まる感じで空恐ろしい。どこかがおかしいのである。

こんな話題に至って議論が盛んになった某日の楽道会である。次のようなことはほぼ全員が認めることとなった。

①日本の教師は、みんな善良で誠心誠意、子供たちの教育に専念、努力している。
②しかし、問題点は必ずしも好転してはいない。いや、むしろ、子供の状況、世相は徐々に低下、悪化していると認めざるを得ない。
③従って、日本の教育のこれまでのあり方をこのまま続けていればよいという訳にはいかない。どこか、何かがおかしいのである。何とか、そこを改め、変えていく必要がある。

これらは、いわば「総論」である。「総論」であるからこそ大方の一致が見られるのであろう。

この「総論」の背後の事情は複雑であって、おいそれと明快な解決策が生み出される訳ではない。それはそのとおりなのだが、かと言って総論に留まっていたのでは、一向に解決の一歩は踏み出せない。

そこで、いろいろと複雑な事情が絡み合っての現象であることは承知の上で、「それらの中で、最も大きな要因は何か」という話題になり、私がその一案を出した。それは、次のようなことである。

3 批判・反論をされた野口論

敗戦までは、国家、社会、公事を第一に考え、個人、私事は第二、第三と考えていた。敗戦によって、個人、私事が「人権」として尊ばれ、国家や社会を「権力」として疎んじる風潮が支配するようになった。国旗、国歌への反発などが好例だ。
いじめ、不登校、引きこもり、フリーター、虐待の多発などもこれと軌を一にする現象ではないか。
主体性、自主性、自発性、個性などの過度の重視、尊重による乱れ、団結や統一への反発が生む混乱を「多様性の尊重」という美辞で擁護し、放任し始めてもいる。国民の一人ひとりが結局のところ我儘な勝手者になり、自分本位の自己中心者、利己主義者が増えた。そうなると、他者への不信感や不安が募るから、つまりは常に安心できない。そうなると自然と点検が増える。
要するに「一億総利己心」が生み出す悲劇である。「利己から利他へ」「私から公へ」と教育を正さねばならなかろう。そうではないか。

要するに、極論すれば「自己」「個人」尊重から、「国家」「社会」尊重へと切り替えていくべきだという分析と提言である。これが袋叩きに遭うような結果を招いた。

次のような反論が強くなされたのである。

㋐それでは、戦前の日本に逆戻りしてしまうことになる。国家第一という考え方が戦争を引き起こし、個人はその犠牲になったのだ。それへの反省から国民主権という現在に進歩してきたのだ。戦前への逆行には賛成できない。

㋑昔つまり戦前に較べれば、現在つまり戦後の社会の方が、ずっと豊かで、自由で、快適な生活をしている。一人ひとりが伸び伸びと自己実現を楽しんでいる。国家や公共優先への過度な傾斜は危険である。

㋒利己心が肯定され、広まっていると言うが、さほど大きく個々、相互の生活を乱している訳ではない。

㋓多様化への寛容は大切だ。一人ひとりはそれぞれ違うのであって、それぞれの考え方で生きることは許されるべきだ。一律に揃える統一的な志向は、個々の自己実現を拘束することになる。

4 野口の反批判

これらについて私が反反論をすると、火に油を注ぐようなものでさらに私の考えに対する批判が続出した。それに対する私の反批判の論点は次のようなことである。

㋐に対する反批判

①「戦前の日本への逆戻り」は、全面的によくないことか。部分的にはむしろ「逆戻り」すべき点もある。戦前の日本を「全面悪」とは言えまい。

②「国家第一主義が個人を犠牲にした」という考え方は、必ずしも妥当とは言えない。一方的、一義的に「犠牲」とは言えまい。国家によって護られ、幸せになった面も多い。全面逆行とまでは言わないまでも、「部分逆行」はむしろ必要ではないのか。

㋑に対する反批判

③「豊かで自由で快適」という世情に異論はない。だが、それらは主として「物」の豊かさによる快感であって、「心」のありように眼を向けると、「戦前」の豊かさには敵わないのではないか。

「国家や公共優先」という風土は、人々の心に安心とゆとりを生み出していた。戦前の田舎の家々の出入口には殆ど鍵がなかった。それでも不安はなかった。

④「一人ひとりが伸び伸びと自己実現をしている」と言うが、そう言えるだろうか。楽しみや娯楽の面ではそう言えるだろうが、そのような面ではない、ごく普通の生活の日常には、言い知れぬ不安や心配があるのではないか。子供の登下校にさえ安心できなくなっているではないか。

㋒に対する反批判

⑤「個々、相互の生活」はさほど大きく乱されてはいないと言うが、税金の滞納や給食費の未払い、不登校やいじめ問題などは「大きな乱れ」現象であろう。その傾向は、今後徐々に増えていくのではないか。このままでよいとは言えまい。

㋓に対する反批判

⑥「一律に揃える統一志向は個々の自己実現を拘束する」という批判は、一見妥当のように思われる。しかし、「多様化への寛容」も程度の問題である。戦前の日本の標準家庭の食事は、家族が揃って一家団欒を楽しみつつなされていた。好き嫌いを言う子も少なかった。今は、孤食、個食で一家ばらばらという食事の形態が増えているようだ。

そのようなばらばらな日常によって、一家の話し合いの機会も減り、家庭崩壊などという言葉も生まれている。これらは幸せなあり方とは言えまい。

これらは全て受け容れられず終わった。読者諸賢の御意見もぜひ聞いてみたい思いである。

毎月拙宅に集う「楽道会」のメンバーは、誰もが良識の持ち主であり、みんな揃って「良い先生方」である。にもかかわらず、「総論」では一致しても、「各論」となるとかなりの差異があるということが分かった。

私の述べた一案は、誰からも容れられず終いになったが、さて、では私自身の考えがそれによって変わったかと言うと、そうではない。私の考えは今も同じである。

5 戦後教育による世相の変化

私の提案した考え方に全く誤りがないとは言えないまでも、まずまず妥当ではないかと今も私は考えている。にもかかわらず、同志と思っている仲間からの反対に遭って、私は少し驚いている。

これはやはり「受けてきた教育」の違いによるところが大きいのではないか、と思うようになった。やや話が飛躍するようだが、どうしてもいわゆる占領政策、つまりWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)による「日本精神改造計画」の見事な成功、実りによるのではないかという思いである。

東アジアの東端にある小さな島国である小国日本が、嘗(かつ)て日清戦争に勝利し、日露戦争にも勝利するほどの国力、頭脳、精神を培ってきた根源を「二度と世界の脅威にならないように弱体化する」ために、巧妙に採られた占領政策が、日本人のものの見方、考え方を根底から変えてしまったという面があるのではないか、とも考えてしまう。

戦後教育の功罪ということをどのように総括したらよいのだろうか。一筋縄では解決できない大きな問題であるが、少なくとも「このまま進めばよい」とは言えまい。

私の考え方は大きな批判を受けたのだが、ではどうしたらよいのかという「対案」は誰からも出なかったのが残念だった。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ

『総合教育技術』2019年8月号より

学校の先生に役立つ情報を毎日配信中!

クリックして最新記事をチェック!
連載
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
関連タグ

学校経営の記事一覧

雑誌『教育技術』各誌は刊行終了しました