「否定」の教育的生産性への覚醒を【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第25回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第25回目は、【「否定」の教育的生産性への覚醒を】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 「否定」をしない風潮の考察
人それぞれに考え方や感じ方に違いがあるのだから、努めて「否定」を避け、肯定し、受容をしていくことが、一人一人の子供を尊重することになるのだ、という考え方がある。個性尊重、個性重視という考え方も軌を一にするものであろう。
その子なりに折角真剣に考えたのだから、その考えをなるべく尊重することが望ましいのだ。そういうことを忖度することなく、間違っているからと言ってばっさり否定するというのでは子供が可哀そうだ。子供は大いに心を傷つけられて失望することだろう。心を傷つけられることによって失望し、自信をなくし、勉強や学校が嫌いになる恐れもある。だから肯定的に受容し、温かく励ます方向で指導や教育を進めていくべきである。
かかる考え方は、「人権教育」の立場から考えても望ましい。「否定」は、そのまま「人権」の軽視、無視にも繫がりかねないので、十分な配慮が必要なのだ。
このような考え方が、現在の学校や教育現場で広く行き渡り、大方に肯定されているものである。私は、このような考え方を「否定の否定論」と呼んでいる。
それは、一見いかにもそれぞれの人格や人権を大切にしているように見受けられるのだが、果たしてそういうことになるのだろうか。改めて考えてみたいことである。まず、「否定」は子供の心を傷つけることになるのだろうか。
「子供の心が傷つく」という言い方、考え方を吟味してみたい。これは、子供の考えは正しく、妥当であり、本来「肯定」されるべきだということを前提として成り立っているものだろう。そうでなければ「傷つく」ことはない筈だ。
子供とは、そもそも不完全、未熟な発達途上の存在である。知識にも、経験にも乏しく、その考え方や、知識や、技術には多くの「不備、不足、不十分」な点が存在する。大人や指導者から見れば、子供にはそういう点が多々あるから、それらに気づかせ、正させ、改めさせ続けてこそ望ましい人間性を養うことが求められるのだ。だから、「教育」が必要になるのだ。
子供は、自分では気づきにくい不備、不足、不十分を指摘されることによって、新たな視点を与えられ、それを改めようと努めて成長していくのである。
このように考えると、「心が傷つく」という言い方は、決して望ましいことではなく、それは、不遜な思い違いであり、自己中心的な我がままな考え方だとも言えるのではないか。
さらに、それを「否定しない」でおくというのであれば、自己中心的な我がままをむしろ助長することにもなるのではないか。
そうであるとすれば、それは「教育の放棄」ということにもなりかねない。このような「教育の放棄」が、気づかれないまま学校現場に行き渡り、結局は子供の社会的成長を阻んでいるとは言えないか。
2 「否定」の歓迎、「否定」への感謝をこそ
大人であり、社会人であり、教育者でもある教師でさえ、人格的に完成してはいない。「人格の完成」は、成人してから死ぬまで「目指し」続けるべき課題である。いわんや子供においてはなおさらのことであろう。
未熟の自覚に立ち、少しでも成熟、成長を求めて努めることが、望ましい人としての在り方である。その思いが「謙虚」さというものなのだ。謙虚な人は伸び続ける。謙虚な人は、他からの「否定」についてひとまず「受け容れ」る。受容する。これが非常に大切な学びのポイントである。
時には、他からの「否定」そのものが間違っているという場合があるかもしれない。仮にそのような場合にも、「ひとまず」「受容」することが「謙虚」な態度である。少なくとも、自分では気づかなかったことがらを他から指摘され、自分が気づかされる、というのは、成長を求める者にとっては歓迎すべきことである。それのみならず、自分の反省によってその短所や欠点が正されるとすれば、その後の人生を幸せで豊かなものに変えていけるのだ。
それは「感謝」すべきことであるに違いない。「否定するな」という教育の在り方はこの根本的な子供としての在り方を忘れている。目の先の、当面の不快を避ける、その場しのぎのごまかし教育だとも言えよう。
子供の主体性、子供の自主性、子供の個性などという耳当たりのよい言葉によって、本物の教育がなされず終いになるのは何とも残念である。
「否定」を歓迎し、自分の今後の向上を希求し、「否定」に「感謝」するような教育をこそなすべきなのである。これを、私は「教育における否定の生産性」、または「否定の教育的生産性」と呼んでいる。
3 「否定」なき教育は成立しない
「否定の生産性」についての話を、親しい音楽教育のベテランに話したところ、思いがけない答えが返ってきた。
「音楽の指導は、原則的に否定の連続ですよ。好きなように歌わせ、好きなように演奏させていたら音楽の教育にはなりません。子供の歌や演奏のレベルは、指導者から見れば不備、不足、不十分なことばかりです。子供達はそれに気づきません。そこで、違うとか、ずれているとか、速すぎるとか、遅すぎるとか、強くとか、弱くとか、とにかく今の状態のいくつかを否定によって指摘するのです。それらに気づいて直せた時には、その努力を大いにほめ、新たな美の生産に気づかせ、喜ばせるのです。音楽の指導は原理的には否定なくしては成り立ちませんよ」
これは大変よく分かる話である。高い歌唱力、高い演奏力は「否定」によって生まれるというのである。だから、子供達は「否定」を歓迎し、「否定」に感謝するのである。これが、教育という営み、指導という営みの原型なのではないか。「否定するな」「ほめて、励ませ」というスローガンは、果たして本物の教育と言えるのか。
否定をしても好かれ、否定をしても尊敬され、否定をしても慕われる教師にして初めて「真の教育者」なのだと言えよう。「否定によって嫌われ」「否定によって傷つけ」「否定によって反発される」ことを恐れ、否定すべきところも否定しないという「否定のできない教師」が増えてはいないか。いささか、気になるところである。
4 是々非々、勧善懲悪、転禍成福
世間や一般社会では当然のこととして通用していることが、学校という場では通用しないことがある。反対に、学校で通用していることが、一般の社会では通用しないということもあって、それが「学校の常識は世間の非常識。世間の常識は学校の非常識」と揶揄されることがある。「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という川柳もある。これらのことを改めて吟味してみたい。なぜ、こんなことが生ずるのだろうか。
ずばりと言えば、世間や社会の常識というものは、「現実」「事実」「経験」を通じて蓄積されてきた「経験知」によって成り立っていると言えよう。「経験知」は、机上論や空論、理想論よりもはるかに説得力がある。何よりも「事実」「現実」「経験」を経て帰納された強みがある。常に責任が問われる世界では当然のことだ。
これについて、忘れられない思い出を記したい。
学校の校長室には歴代の校長の肖像写真が掲額されている。当然の慣行と言えるが、歴代のPTA会長の写真が掲額されていない学校が多い。これは「当然」とは言えまい。私は管理職として四つの小学校に奉職したが、4校ともPTA会長の写真は一枚もなかった。
PTA会長はPTAの責任者だが、無報酬である。校長は有償であり、一つの職業的地位である。学校に勤めさせて貰って給料を貰い、それで生活の糧とする人だ。このようなことに気づくと、PTA会長への表敬上、その掲額がぜひとも必要である。
私は4校の全てで歴代のPTA会長の掲額をし、掲額を完成した時点で歴代PTA会長へのささやかな感謝の会を開いた。
その折のことである。さる元老級のPTA会長が「会議に遅刻するのは医者と教員だ」という発言をした。私が「どうしてそんなことを言うのですか」と問うた返事は、「医者と教員は、両方とも結果に責任をもたなくていい職業だからだ」というものだった。「どういう意味ですか」という私の重ねての問いに、「私らは工事屋だ。蛇口の修理が終われば蛇口をひねって水を出して見せる。医者や教員は、『今は出なくても、様子を見てください。やがて、きっと出ると思いますよ』と言って済む職業だ」と言ったのだ。私は、ぐうの音も出なかった。確かにそういうことが言える。
文部科学省を頂点とする教育行政は、確かに「責任をとる」ことがない。「謝れば済む」し、「辞職すれば済む」けれども、「蛇口の水は出ないまま」である。そうとは言えないか。
いじめも、不登校も、非行も、学力の低下も、結局のところ「蛇口の水は出ない」ままではないか。学習指導要領の改訂の度に、まことしやかな分析と「理想論」が述べられるが、「蛇口の水」は一向に出ないまま次の改訂を迎えることになる。「ゆとりと充実」も、「新しい学力観」も、事実として日本の子供を望ましく変えてはいない。「蛇口の水」は一向に出ないまま、「やがて出ますよ」という「理想」だけが空しく期待されているだけなのだ。
その、「空しい理想論」「尤もらしい机上論」の例を、思いつくままに挙げてみよう。
ア 教えこみや詰めこみはよくない。
イ 子供の個性、自主性を尊重したい。
ウ 授業の主役、教室の主役は子供である。
エ 先生がどこにいるか分からないような授業こそが望ましい。子供が自分達で授業をつくっているからだ。
オ 叱ってはいけない。自信をなくすから。
カ 知識・理解よりも、関心・意欲・態度を育てることが、これからの教育だ。
キ 子供が私語や手いじりをするのは、教師の授業や話し方が下手だからだ。
ク 教師からの、ああせよ、こうするなという上意下達の教育は古い。子供の自主的な判断を大切にすべきだ。等々
いずれも「子供中心主義」の「学校の常識」ではあっても、世間や社会からは、「そんな馬鹿な!」と笑われることではないか。つまり、「社会の非常識」が、学校では「常識」としてまかり通っているのだ。
こういう不健全な「学校の常識」のおかげで、私立の学校や学習塾が繁盛することになる。全ての公立学校の「蛇口の水」が出るようになったら、学習塾や私立の学校はピンチになるかもしれない。
公立学校も、教育行政も、「机上論」や「理想論」や「空論」に頼ってはいないか、という「実践論」「事実論」「現実論」の立場に立った反省と改善こそが喫緊の課題なのではないか。
子供の権利や才能を過度に理想化する「子供天使論」の迷妄、夢想からの覚醒を強く訴えたい。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2019年4月号より