教員の資質向上実践論(上)【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第19回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第19回目は、【教員の資質向上実践論(上)】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 教育制度の限界
23歳で教員としてスタートをし、60歳の定年で退職するまでの38年間を、小学校という現場でだけ通した。その間に「学習指導要領」の4回の改訂を経験した。昭和33年に就職した私は、戦後教育史上最大の教育制度改革の真っ只中に遭遇した経験を持つ。
筆頭は「道徳」の特設である。「戦前への逆戻り」「軍国主義への道」「思想統制の危機」と、日教組は大反対をした。また、教頭の職位が「管理職」と位置づけられ、組合への加入が禁じられた。加えて、勤務評定制度が導入され、教員の勤務の状況が校長によって評定されることになった。
「全ては組合の弱体化策」として、日教組は空前の反対運動を展開したが、全ての制度は法制化され、具現した。
このような大変革の年に教員をスタートし、その後も全国一斉学力調査の実施と中止、道徳教育の手引きの全教員配布、教科書無償配布、国旗・国歌の法制、同和教育、人権教育、臨教審の設置などなど、いろいろの主張や反対や消長があった。これらを身を以て体験した私は現在82歳、歴とした後期高齢者となった。公立学校を退職してから22年を経た。その後は専門学校、短大、大学に勤め、ざっと60年の教職を経験した。現在も、あちこちで授業をし、若い先生方との学習会を楽しんでいる。66歳からスタートした「授業道場 野口塾」は、195回に達した。元気なら200回に届くだろう。
さて、そんな経歴を経て今の私は、つくづく思うことがある。それは、
教育の内実は制度によっては変わらない。教育の制度改正や改訂では学校の実態はほとんど変わらない。
ということである。
数えきれないほど、思い出しきれないほどの教育制度の改変がなされたが、肝心の子供への教育成果は決して上がってはいない。いじめ一つ、不登校一つ、解決には到っていないのが何よりの証拠である。
一体、何が問題なのか。何をどうすればよいのだろうか。
学校教育の内実を変えていくのは、日々子供と直々にかかわり、親とかかわっている「現場の教員」の「資質向上」「意欲向上」こそが、時代を超えて変わることのない、唯一の解決策である。私はそう確信している。
誤解のないように断っておくが、「現場の教員の努力不足」を指摘しているのではない。現場の教師の「努力」は、もはや限界である。これ以上の努力を強いれば、「体をこわすか」「頭をこわすか」「家庭をこわすか」しかあるまい。日本の教師は世界一勤勉で、世界一過労気味なのだ。
2 教員の資質向上策
① 多忙という充実の青年教師時代
私の新任時代の田舎の学校現場には、次のような「問題」は存在しなかった。
交通事故、学校給食、同和問題、環境問題、いじめ問題、不登校、特別支援教育、アレルギー、学習塾、国際教育、キャリア教育、その他、諸調査はあったが、今とは比較にならないほど少なかった。簡単に言えば、教科教育と学級経営に専念できた時代と言える。昼休みや放課後は、特別の会議がない限り、若い教師は子供たちとよく遊べた。子供の下校時刻は、ほぼ職員の退勤時刻と重なっていた。
現在の教師には、これらのほぼ全てが不可能に近い。そして、教師は超多忙である。
その結果、成果としての子供の勉強のでき具合、心の教育の実りは、昔と比べてどうか、ということになると、「大差はない」と断言できよう。子供への実りに大差がなく、教師は子供と遊べず多忙、かつ過労であるというのでは、何とも残念である。
現在よりもゆとりがあった往時の教師は、今よりももっと「自主的に」学び合えた。
初任校の君津町には小学校が4校、中学校が2校あった。小学校の4校は、それぞれ国、社、算、理の教科を一つずつ受け持つ中心研究校として名実ともに近隣に知られていた。とりわけ、私の赴任した貞元小学校の「自主的研究」は、今思うと凄まじかった。国語の校内授業研究会は年に9回、他に毎年公開研究会があり、研究紀要は全員で執筆した。その他に社、算、理、体の授業研究会が年に1回ずつ4回、いずれも県下一流の講師を招いて開かれ、青年教師は無論のこと、ほぼ全員が毎回の研究会を楽しみにしていた。それが貞元小学校の教員としての伝統的な誇りでもあった。
私は初任の5年間をこの学校でみっちり鍛えられ、6年めからの20年間を千葉大学附属小学校で過ごすことになった。附属小学校での多忙さは、実践研究と教育実習生の指導で、貞元小学校での日々とは比べものにならなかった。私は遠距離通勤者だったので、月火、木金と学校に泊まる生活を続けた。
附属小学校の20年間は、貞元小学校を含めてだが、最も充実した教員生活が送れたと思っている。この二つの学校での青年教師時代がなければ、今日の私はない。
新任以来の25年間を、私はかなり多忙の中で過ごしたのだが、「させられている」と思ったことはない。「やりたいことを存分にやっていた」ことによって、多忙を招いていたのだから、毎日が楽しくてたまらなかった。辛いこと、苦しいこともなかったわけではないが、それを超える楽しみの方がはるかに大きかった。どのように日々を捌いていたか。それは次の「右手と左手の使い分け」である。
② 右手と左手の使い分け
私は右利きである。どんなに忙しくても、また、どんなに暇な時でも「右手は国語教育の綱を握る」ことに決めていた。他のことは全て左手で何とか間に合わせる。別の言葉で言えば、「手抜き」である。「国語以外は、ひととおりやれればいい」と腹をくくったのである。どれもこれも人並み以上にやろうなどと考えたら身が持たない。
だが、一つのことを深く考え、実践化を試みているうちに学べることは、意外に他のことにも応用、適用ができるものである。右手の全力で国語教育に挑むうちに、教育や指導や授業の根本、本質、原点への思惟も深まってくる。それらは、当然のことながら他の分野にも転移、応用可能である。
「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」(一休禅師)という古歌にも通じることで、励まされる思いである。
一つのことを究めようと努めている者が「手を抜く」場合には、そうそう見当外れの手抜きはしないようにとも心がけるだろう。「ほどほどに」やってはいても、まずまずの水準は保てるのではないかと、私は内心では思っていた。
小学校の教師は、原則として全教科を教えなければならないので、ともすると特定の分野に焦点づけない実践で終わりかねない。また、転勤の先々の研究教科に次々と付き合わされ、結局自分にとっての専門研究は何だったのか、不明になるということも多い。それでは「虻蜂とらず」に堕しかねない。そして、結局いつでも多忙の中で齷齪(あくせく)して終わることになる。「右手と左手の使い分け」は一つのヒントになるのではないか。
③ 先達はあらまほしきことなり
新任教師の7月、学級の荒れも経験し、何とかようやく1学期を終えた終業式の後の職員室で、私は思わず口走ったものだ。
「ああ、終わった、終わった。何もかも忘れて夏休みは家でのんびり過ごしたい。どこへも行かない。何もしない休みにしたい」
実感に裏づけられたものだったから、私は両手を上げて背伸びをしながら、大きな声で言ったのだった。「そうだね、ゆっくり休むといいよ」という声を内心では期待していたと思うのだが、私の本音を聞き逃さないのみか、聞き咎めた先輩からぴしゃりと諫められた。
「そんな考えじゃ駄目だよ。野口さん」という言葉に、私は背伸びの手を下ろした。
「夏休みは勉強のチャンスだよ。あちこちに出かけて勉強をするんだ。私も四つ、五つの研究会に出かけるよ」
この言葉に私は自らの不明を恥じた。60年近くも昔のことだが、昨日のことのように私はあの時のことを思い出す。永嶌章先生という青年教師で、定時制の高校を出て、自力で短大に進み、やがて指導主事、校長、公民館長を務めた立派な先輩である。この先生の学級はどのクラスよりもすばらしく、子供の成績も性格も高く伸ばされ、子供からも親からも絶大な信望、尊敬を集めていた。
この先生の先の一言によって私は目を開かれ、民間研究団体で学ぶ喜びを知った。出張旅費などを当てにしない熱心な教師の集まりは、青春の私を魅了した。永嶌先生の一言は、まさに私の「学び心に火をつけた」のである。「先達はあらまほしきことなり」とは、『徒然草』の中の名言である。
因みに、森信三先生の次の名言も重い。
「人は、出逢うべき人には必ず出逢う。しかも、一瞬遅からず、一瞬早からず」
私は、永嶌先生との出合いを思い出す度に、この言葉を思い浮かべる。あの一言に出合わなかったとしたら、と思うと、ぞっとする思いである。
ところで、この格言には、次の続きがある。これまた極めて重要な言葉である。
しかし、内に求める心なくんば、眼前にその人ありと言えども縁は生じず。
私は、この後段の言葉に少し救われる思いがする。両手を上げて背伸びをしながら、まるで捨て科白のようなことを言った私の心のどこかに、「求める心」があったからこそ、「縁は生じ」たのであろう。貞元小学校での申し訳ないような4か月の中でも、一流の講師や職場の仲間から私なりに学んだものがあったからこそ、永嶌先生の諫言を有難く「受容」できたのだと思う。
何事につけても「先達はあらまほしきこと」であり、それにも増して先達に学ぶ「謙虚さ」が必要であろう。
④ 宿直文化の意義
昭和40年までは宿直という制度があり、気の合う仲間との宿直の夜は、かなり遅くまで若い者が集まり、酒なども交えてわいわいと語り合ったものだった。その内容の多くは学級経営や授業の話で、夜の職員会議などと呼んでいた。
時には先輩も仲間に入り、その実践や失敗談などに聞き入り、教育談義に花が咲いた。これらは全て参加が自由であり、何の強制もなく、話したい者、飲みたい者が勝手に集まる極めてフリーな集いで、今のように仕事が忙しくて退勤できないのとは全く異質のそれだった。
現在は宿直制度はないので、こんな話は通用しないと思う向きもあろうけれど、それは違う。肝心なのは、「自由意志」でごく自然な学び合いの教育文化が、多くの学校現場にあったということである。それは言わば「余暇の善用」であり、お互い同士が知らぬ間に様々な教育文化を身につける道場にもになったのである。
このような非公式な場での自由な学び合いの文化が、民間研究団体の会であり、官製の研修会とは違った魅力なのである。
(次回に続く)
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2018年10月号より