「素直な受容」こそが人を伸ばす【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第3回】
教育界の重鎮である野口芳宏先生が60年以上の実践から不変の教育論を多種のテーマで綴ります。連載の第3回目は、【「素直な受容」こそが人を伸ばす】です。
執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)
植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年余りにわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVD等多数。
目次
1 受け入れる、受容する教育の大切さ
私が小学生の頃の、入学式、卒業式などには、それを祝う来賓の方の数は、今に比べて随分多勢であった。その来賓の方々の祝辞もまた数人に及んだので、式典の時間はかなり長かったように思う。だが、どの方の祝辞もその帰する所は、「親の言いつけをよく守り、先生が教えて下さることをよく聞きなさい」ということに尽きていた。「親の言いつけを守る」「先生の言うことは聞く」という言葉は、いつでも、どこでも、何度でも聞かされて私達の世代は育った。
「聞く、聴く」を改めて広辞苑で調べてみると、「人の言葉をうけいれて意義を認識する。聞き知る」という解説があって成る程と思った。つまり「聞く」というのは「受け入れる」「その意義を認識する」ということなのだ。
私の父も小学校の教師であり、幼い私はこの父に厳しく育てられた。父に命じられたこと、言われたことについては、「はい」と明るく応え、それに従うことが求められた。ぐずぐずしたり、不快な表情を見せたりすることは許されなかった。不平や不満を言うことも許されず、それらは「文句を言うな」「返答するもんじゃない」という一言で片づけられた。私は、唯々父の言うことに素直に従うように求められて育った。「はい」という応答は、不平や不満をある程度解消することに役立ち、不平や不満を断ち切る働きをしたように思う。
私は、そのような父の教育を受けて育ったことを、今にしてつくづく有難いことだったと心の底から感謝している。父は、私を「受容型」の人間に育てることに成功したのだと思う。「受容型」の人間というのは、別の言い方をすれば「素直」ということである。他者の言葉を素直に受容する人間になれ、と父は願ったのであろう。
2 素直な人は伸びる
千葉大学附属小学校の教諭時代、尊敬してやまない校長であった四宮晟教授に、酒席のくつろぎの中で問うたことがある。
「校長先生。伸びていく人と、あまり伸びていかない人がありますよね」
「ああ、そうだね。いる、いる」
「一体、先生何が違うのでしょうか」
この私の問いに対して、四宮先生は即座に答えて下さった。
「それは野口さん。素直さですよ」
そうか、やっぱり! と私は思った。あの時の、四宮先生の表情から声調までもが、今さらのように甦ってくる。あれから40年もの時が経つが、年を重ねるにつれていよいよ、ますます四宮先生の言葉の確かさ、正しさを思う。もはやその思いは「確信」に近い。
世の中には、価値ある教え、価値ある思想、価値ある言葉がいっぱいある。それらが、時を得、所を得て様々に語られる。それらに頷き、受け入れ、自らの内に取りこめば、その価値ある情報はその人の血となり肉となって内化され、その人自身として結実していく。「素直さ」というのは、要するに「受容」することなのである。
例えるまでもないことだが、人間は「食べる」ことによって生命を保つ。まずは、「口に入れる」というのが生命維持の入り口、根本である。口に入れたものは咀嚼され、嚥下され、胃によってさらに砕かれ消化され、小腸に送られる。価値ある栄養分は小腸によって体内に吸収され、不要なものは大腸から直腸を経て体外に排出される。
これが身体の保持の原理だが、一連の活動のスタートは口からの摂取である。口を閉ざして食物を受け入れなければやがて五体は衰弱して消滅する。そして、この原理は、精神的な維持、成長、発達にも全く同様に当てはまることである。価値ある思想、教え、知識などが提供されても、それを受け入れることを拒めば、精神の成長はない。
このことを昔の人はよく悟り、身につけていたのである。だからこそ、全ての来賓が時を得、所を得ては「親の言いつけを守り、先生の言うことを聞きなさい」と繰り返したのであろう。
3 「述べて作らず」──孔子の偉大
東洋の不朽の古典『論語』の「述而編」の冒頭は次の章句で始まる。
「述而不作」(述べて作らず)がそれである。この意味は、孔子が、「私は、先哲、先賢がお述べになったことをそのまま皆さんに伝えているだけです。私が自分独自に考えたことなんか一つもありませんよ」ということである。
このたった四文字から、私は孔子のとてつもない偉大さを思う。世界四大聖人と畏敬される孔子にして「私が考えたことなどない」と言い、「みんな教わったことばかりだ」と述べているのである。この徹底した謙遜、謙譲ぶりにも驚くのだが、私はむしろ前半分の、「述而」に心惹かれるのだ。つまり、孔子は、徹頭徹尾「受容」をしたということなのだ。それ故にあの大をなし得たのである。
私は、思う。学ぶ者、成長する者、伸びを望む者、より高くより深い思索を得ようと願う者は、すべからく「謙虚」に「素直」に、他者の言を「傾聴」し、「受容」することにこそ努めるべきなのだ──と。
4 日本の教育は成功していない
教育現場では「いじめ」問題が後を絶たず、相変わらず大きな関心事であり続けている。一向に解決減少には向かっていない。
また、保護者会の会長が、自分が会長を務める学校の女児を殺害するという考えられない事件も発生し、住民、国民を驚かせ、また不安に陥れている。「防犯パトロール」という襷を肩から掛けた保護者会会長の「見守り隊」としての活動映像が、何とも空々しく映る。
とうとう、子どもを預かる全国の園も、学校も例外なく門を閉ざし、登下校の子どもを「見守る」ことが常態化した。2001年の大阪教育大学附属池田小学校の殺人事件以来のことだ。20年前とはがらりと風景が変わってしまった。20年前までは、学校の門はいつでも開かれていたし、通学路はどこだって安全だった。世の中の不安はこれからますます大きくなっていきそうで空恐ろしい。
再々に亘って私が引用する格言がある。「人は人によって人になる」というカントの言葉である。端的に私はこれを「ヒトは教育によって初めて人間になれるのだ」と解している。どんな人間になるか、ということは、帰するところ「教育」にあるのだ、ということである。そのようにみると、戦後の日本の教育はどうも成功しているとは言えなそうである。何よりも、社会が良くなっていないことがそれを証明している。教育の成功は、結果としては社会の姿に映し出されるはずだからだ。
5 「子ども観」の正しい認識
戦後教育の大きな流れは、結局のところ大きな成功には結びついていない。そう言っては身も蓋もない、と言われそうだが、現実である。一体、しからば何がいけないのか。どこに根本的な問題点があるのか。
私は、戦後の教育は、「変わりすぎた」のだと思う。敗戦という自信の喪失が、変えなくてもよいものを変え、変えてはいけないものまでも変えてしまったことにある、と思うのだ。その証拠に、社会的な治安は今よりも昔の方がずっと良かった。今よりずっと貧しかったにもかかわらず、田舎では鍵をかける必要がなかった。生活保護を受ける人もいなかった。いじめも今のような陰惨な問題は全くなかったし、長欠児もほとんどいなかった。この豊かな現代の不安の元凶は何なのだろう。
子ども中心主義、という言葉がある。子ども万能観という言葉もある。共に「子ども観」を表すものだ。「子どもは天才」「子どもは天使」「子どもは無限の可能性を秘めている」などとも言われる。一連の言葉に共通するのは「子ども」への「過剰信頼」「拝跪」「持ち上げ」「称讃」である。
スウェーデンの社会思想家、教育学者、女性運動家エレン・ケイは、1900年刊『児童の世紀』の中で、「子供は、大人と同様に独自の存在であり、子供である権利が保障されるべきである」と述べ、「国家や社会の必要から生まれる教育制度や教育内容が、自然な子供の成長を阻害している」と批判し、「子供が生まれ持つ本能や資質、個性を生かす教育をすべきだ」と主張する。
この考えは、「世界人権宣言」「子どもの権利条約」などに受けつがれ、子どもも大人同様に「あらゆる権利を行使する主体」として捉えられるようになった。ケイは「20世紀は子供の世紀」とまで言った。
何とも格好のいい考えである。30年もの昔だが、某県の教育行政担当者が「これからの高校のあり方」を、「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに合う高校を創出するのだ」と言ったことがある。これまたまことに新鮮である。格好がいい。
しかし、それから長い時間を経て改めて思うのだが、いずれも眉唾ものだ。日本の昔の大人は子どものことを「餓鬼」と言い、子どものリーダーを「餓鬼大将」と言った。この方が真理である、などと書くと、「人権侵害だ」などと言われかねない世相、世情である。
子どもを「過剰信頼」し、「天使視」「完全視」する「子ども天使観」が、結局のところ子どもを不幸に追いやっている現実を我々は見過ごすべきではない。子どもも「大人同様に、あらゆる権利を行使する主体」などという考えを持てば、「教育」は否定され、「全ては子ども任せ」つまりは「放任」と同じになる。それが「子どもの主体性の尊重なのだ」ということにもなりかねない。
本当の子どもの姿は、無知、未熟、未経験、無教養、わがまま、無法、無作法である。それでは人間の長い歴史によって培われた文化生活を享受、継承、進展することはできない。その故にこそ「人になる」ための、「人による」つまり、「教育すること」が必要になってくるのである。教育をされない子どもが幸せになるのではなく、教育をされた子どもが幸福になるのである。また、そういう「教育」をしなければならないし、「教育」とは本来そういう役割を持つ働きかけなのである。
6 素直な受容の心をこそ
長い歴史を重ねて紡ぎあげてきた人類の尊い文化を存分に享受し、さらにその文化の質を高め、向上させていくためにこそ「教育」は大切にされねばならないのである。
そこで肝要なのは、教えを受け、教わり、学ぶ側の子どもは、心ある大人の愛と教育の営みを、「素直に」「受容する」心を持つようにせねばならない。「素直な人は必ず伸びる」からである。孔子は徹底的に、先賢、先哲の考えを「素直に」「受容」することによって大を成したのである。
「主体性」の前に子どもに教育すべきは、「謙虚」であり「素直さ」であり、「従順性」である。流行よりも不易の受容がはるかに大切なのである。
執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ
『総合教育技術』2017年6月号より