【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第68回】今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ(その9) ─不登校、苛め過去最多・「良薬口に苦し(上)」─

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野口芳宏「本音・実感の教育不易論」
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植草学園大学名誉教授

野口芳宏
野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第68回
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国語の授業名人として著名な野口芳宏先生が、60年以上にわたる実践の蓄積に基づき、不易の教育論を多様なテーマで綴る好評連載。今回のテーマは、【今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ(その9)─不登校、苛め過去最多・「良薬口に苦し(上)─】です。


執筆
野口芳宏(のぐちよしひろ)

植草学園大学名誉教授。
1936年、千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒。小学校教員・校長としての経歴を含め、60年以上にわたり、教育実践に携わる。96年から5年間、北海道教育大学教授(国語教育)。現在、日本教育技術学会理事・名誉会長。授業道場野口塾主宰。2009年より7年間千葉県教育委員。日本教育再生機構代表委員。2つの著作集をはじめ著書、授業・講演ビデオ、DVDなど多数。

1、不登校児童生徒34万6000、過去最多

2023年度の不登校の児童生徒数は、全国の小中学校で34万6482人となり、過去最多を記録した。これは、前年度から4万7434人(16.7%)増加したもので、11年連続で増加している。10年前と比較すると、小学生は5.4倍、中学生は2.3倍に増えている。
また、小学校を含む長期欠席者数は、小・中学校で49万3000人余りで、これも増加傾向にある。
不登校に関するその他のデータとして、不登校の出現率は、小学校2.2%、中学校7.8%であり、令和4年度と比べ、小・中ともに上昇している。(以上、文部科学省発表データの要約)

残念なデータだ。「11年連続で増加」とあることが何とも「腑に落ちない」思いだが小稿の読者諸賢はどのようにこのデータを受けとめているだろうか。

2、いじめは73万3000件、過去最多

2023年度(令和5年度)の、小・中・特別支援学校におけるいじめの認知件数は、73万2500余件で過去最多となった。前年度比5万600余件の増加。

その背景(以下要約、筆者)
ア、学校側が研修の充実によって積極的にいじめを認識するようになった。
イ、児童・生徒の様子をつぶさに観察する見取りが精緻化された。
ウ、ネット上のいじめの覚知が進んだ。

これらについて、「調査結果及び、これを踏まえた対応について」(表題要約・筆者)という文科相の「通知」は、次のように述べている。

子供たちを取り巻く環境が変化する中で、不安や悩みを相談できていない子供たちがいる可能性や、子供たちの不安や悩みが従来とは異なる形で現れたり、一人で抱え込んだりしている可能性も考慮し、引き続き、子供たちの小さなSOSを見逃さず、チーム学校」で素早く支援するとともに、教育と福祉等が連携しつつ、子供やその保護者が必要な時に支援が行われるよう、御配慮願います。

(以下略、筆者)
イメージ 雪の降る窓の外を見る子供

3、改めて吟味したい二つの言葉 ─「過去最多」と「11年連続で増加」─

① 文科省の「通知」への疑問

若い頃に、「教育の成果はすぐに表れるものではない。十年先、二十年先に出るものだよ」という言葉を聞いたことがある。いかにも尤もらしく聞こえるが、私はこの言葉はまやかしだと思ったし、今なら一層強くそう思う。荒れに荒れてしまった学級や学校ならば、その修復、向上にそれなりの時間がかかることはわかるが、ごく普通、一般の学級や学校ならば、そう時日を費やすことなく教育の効果、指導による向上を実現できる筈だ。今、その効果が出ないものが十年先になど出る筈がないではないか。
私は「一単位時間教えたら、一単位時間の効果、15分教えたら15分の効果が出なくてはいけない」と考え、努め、仲間にも言っている。そうでなければ「本時の目標」は意味を失うだろう。
ちょっと横道に外れるが、私は「本時の目標」と言う言葉には疑問を持っている。「目標」というのは「めあて。目じるし」であって、ある種の抽象概念である。「気持ちを読みとる」「悲しさを読みとる」などというのは、その判定が難しい。「目標」ではなく、「本時の指導事項」とすべきだ。「三つの事項を指導する」とすれば授業の成果を誰でも判定できるからだ。一時期「行動目標」という用語が流行したが、これは目標という言葉が孕む抽象性を具体化する狙いだったが今は殆ど聞かれなくなった。「目標」という言葉からの脱皮、脱却はかなり難しいらしい。
本道に戻ろう。私は「今、その効果が出ないものが十年先になど出る筈がない」と述べた。不登校も苛めもなかなか減らない。「11年連続増加」というのは、その間の「対応、対策、指導」の「効果なし」ということだ。そうではないのか。「11年間」にも亘って減らないどころか「増加」しているのだ。
この「11年連続で増加」という時日は「重く受けとめ」なければならない。「重く受けとめる」というのは、従来方針、従来対応では駄目だということなのだ。その、「従来方針、従来対応」の指示者、司令塔は文科省である。そんな大それたことを言っていいのか、と思う向きもあろうが、次の文章を改めて読んで欲しい。

別紙のとおり不登校の児童生徒への支援について改めて基本的な考え方を周知します。

(以下要約、筆者)

都道府県教委にあっては、所管の学校及び市町村教委等に対し、周知するようお願いします。

つまり、文科省から都道府県教委へ、そこから市町村教委へ、そこから学校へ「周知するようお願いします」という形の「通知」という「指令」である。文科省からの指令が末端の学校にまで「周知」されるように、中間の教委が伝達、指導している訳だ。これは、法治国家の当然の組織だし、仕組みだ。これを仮に「上意下達」のシステムと呼べば「上意」に従って誠実に下部は実践していることになる。その結果が「11年連続」で「効果なし」というデータを、文科省が公表しているのである。これは、「指令」そのものに問題があるか、欠陥もしくは誤りがあるということになるのではないか。
にもかかわらず、文科省の令和6年に発した「通知」にはそのような反省的、自省的な言葉は全くない。私が前掲した2の囲みの文面を改めて読んで欲しい。再び一部分を引用する。

──引き続き、子供たちの小さなSOSを見逃さず、「チーム学校」で素早く支援するとともに、教育と福祉等が連携しつつ、子供やその保護者が必要な時に支援が行われるよう、御配慮願います。

(傍線は原文のママ)

「11年連続で増加」を招いている「通知」を「引き続き」「御配慮願います」ということでいいのだろうか。
小論の表題は、「今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ」であり、今回は(その9)になる。その表題の「連載タイトル」は「本音、実感の教育不易論」であり、今回はその68回目である。私は、教育評論家ではない。小学校現場のみで38年間の教職経験を持つ教育実践者である。当時は60歳が定年だったから退職したのだが、「引き続き」大学の教員となって20年間、80歳まで勤務した。今は、フリーの身ながら、「引き続き」各地の教員仲間との交流が続いている。「頼まれたら断らない」というのが私のモットーなので、頼まれさえすればあちこちの教室で授業を楽しんでいる。従って私の論稿は単なる批評、批判ではない。本音と実感に基づいた、教育向上を目指す提言である。そのつもりで読んで貰いたい。

② 特別の教科「道徳」の内実

平成29年告示の学習指導要領の大きな改訂の一つに「道徳」の「特別教科」としての格上げがある。「特別の教科」となったので、当然ながら検定済みの教科書が作られ、これによって「道徳教育」が充実する筈であったが、これも覚束ない。道徳の格上げと教科書の採用によっていじめ問題の解消にも大きな期待が寄せられたが、文科省の「児童生徒の問題行動」「生徒指導上の諸課題」の調査結果には全くと言ってよい程に吉報、朗報と呼べる数値は出なかった。指導要領の改訂が告示されて7年もの歳月が経過しているのに、である。
このような事態、実情を目の辺りにしていつも思うことがある。次が私の実感だ。

教育の成果と教育の制度の相関は殆どない。制度によっての教育の充実はない。

「道徳」が「特別の教科」になり、「教科書」が作られた。これは制度上の変化である。私は、この制度上の前進が道徳教育の充実を生むことに懐疑的だった。そんな改訂のない時でも、すばらしい道徳の授業をしている教師は少なからずいたのだ。副読本より上質の教材を開発して、その授業者ならではの「実感に基づく」本物の道徳授業を毎回実践していた教師を私は何人も知っている。
そういうすばらしい実践に全く関心のないような教師が、制度上「特別の教科」に格上げされたからと言って良い授業をするだろうか。副読本が「教科書」になったからと言って、少しでも良い授業をするようになるのか。否である。「教育は制度いじりで良くはならない」のである。制度がどんなに良くなっても、教師が良くなる訳ではない。教育の成否は、「教師次第」なのだ。「教育は人なり」という大原則は不動、不変なのだ。
こういう根本的な教育の原理が、国民の間で共有されていない。これこそが、教育の昏迷、不信を招いている元凶なのである。
特別の教科・道徳の不信、貧弱、無力は教師の「教育者としての責任」「使命感」の不在に起因する、というのが私の考えだ。
この打開はいかにして成るか。それは項を改めて述べたい。道徳の授業の当面の充実は、「教育で最も大切なのは道徳教育である」という根本的、実感的自覚である。入試に合格するための「学力」の向上もむろん大切だが、学力の高低は一般の人々の幸不幸にとっては殆ど無関係と言ってもよい。だが、「道徳」の高低、「徳性」の有無、強弱は重大問題である。学力の低い人が世を不安に陥れることはまず無いが、徳性の低い者が人々を不安、不幸のどん底に突き落とすのだ。「治安」を乱すのは学力の低さではない。徳性の低さである。低学力の悪人よりも、高学力の悪人の方がずっと多い。
徳性の低い人の集まりは、対立や争いや不和を生み易い。そしてお互いに不幸になる。日々は不安や怒り、憎しみや不信に囚われて暗鬱である。不幸である。
徳性の高い人の集まりでは、感謝と笑顔と思いやりと 労りに満たされて幸せである。そして、徳性は誰にでも備えられるが、学力や腕力はそうはいかない。学力の低い子供が専門職に就くことは困難であろう。だが、学力の低い子供が不幸になるとは言えない。学力が低くても、それなりに幸せに暮らしている人はいっぱいいる。
道徳教育は、どんな人をも幸せに導くことができる最も重要で、最も教え甲斐のある、最も楽しみな教科であり、教育なのである。このような教科観、教育観の、実感に支えられた認識の共有こそが肝要なのだ。
だが、指導要領の根幹となる中央教育審議会の「答申」は、私の主張とはかなり隔たりのある「この世離れ」した内容のように思われるのだが、それは次回で述べたい。

執筆/野口芳宏 イラスト/すがわらけいこ


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