「教室マルトリートメント」を防ぐために教師を追い詰めない組織づくりを
教師の不適切な指導に着目した、話題の書籍『教室マルトリートメント』(東洋館出版社)の著者である川上康則主任教諭に、出版の意図などを聞いた。
インタビュー/東京都立矢口特別支援学校主任教諭・川上康則
プロフィール
川上康則(かわかみ・やすのり)
1974年、東京都生まれ。公認心理師、臨床発達心理士、特別支援教育士スーパーバイザー。障害のある子どもたちに対する教育実践を積むとともに、小中学校の支援も行っている。『教室マルトリートメント』(東洋館出版社)など著書多数。
目次
教室マルトリートメントとは?
もともと「マルトリートメント」は家庭における不適切な養育を指す言葉です。これは大人と子どもの間で起きることですから、学校も例外ではないと思い、教室における不適切な指導を「教室マルトリートメント」と呼ぶことにしました。
具体的には、教室内で行われる指導のうち、体罰やハラスメントのような違法行為として認識されたものではないけれど、日常的によく見かけがちで、子どもの心を知らず知らずのうちに傷つけているような「適切ではない指導」を指します。例えば、事情を踏まえない頭ごなしの叱責、子どもを萎縮させるほどの威圧的・高圧的な指導などだけではなく、褒めるべきときに褒めない、「子どもにナメられるから」という理由で笑顔を見せないなどの行為も該当します。下の図表で示したのは、子どもを恐怖や不安に陥れる毒語の例です。このような言葉を使っている教師は、どこの学校にもいるのではないでしょうか。
今回、このテーマで本を書こうと思ったのは、通常の学級でも特別支援学級でも特別支援学校でも、子どもを追い詰めるような不適切な指導がわりと日常的に行われていて、とても身近な問題だと感じたからです。違法行為のように完全に黒ではない、かといって白でもない、身近にあるグレーなゾーンに踏み込まなければ学校は変われないと思っています。
子どもへの悪影響
教室マルトリートメントは、子どもたちに様々な悪影響を及ぼします。
一つ目は、子どもにネガティブな記憶を残しやすいことです。教師がよかれと思って言った一言であっても、子どもには「一生忘れられない傷」として、心の中に残る可能性があります。
二つ目は、教師に「見捨てられないように」、「叱られないように」することが、子どもの行動の判断基準になることです。これは「悪いことはやらないようにする」というモードとして働きますが、その一方で、良いことも自分で考えてやろうとはしなくなります。その結果、常に他者の顔色を窺い、主体的に行動できなくなります。
三つ目は、教室の中が監視社会になってしまうことです。例えば、「静かにしなさい」と教師が言ったとします。それでも静かにならない子がいると、努力家で頑張り屋の子どもが騒いでいる子どもたちに「静かにして」と注意し、教師はその子どもを褒めます。そうすると、他の子どもたちも褒められたいと思い、クラス全体が、マイナスの行動やミスなどに対して過剰な制裁行動を加えていくモードに変わっていきます。お互いのミスやエラーを指摘し合い、教師にネガティブな報告ばかりするようになっていきます。
四つ目は、不登校や登校しぶりにつながることです。今までは、不登校の主な原因は学力不振や親子関係、友だちとの関係などとされてきましたが、教師の不適切な指導も原因の一つである可能性があります。「学校に無理して通っても楽しめないし、気持ちよく過ごせないから、家にいた方が安全だ」と考えるからです。
<不適切な毒語の例>
●質問形式で問い詰めるような毒語
・何回言われたらわかるの?
・どうしてそういうことをするの?
・ねぇ、何やってるの?
・誰に向かってそんな口のきき方をするんだ?
●脅して動かそうとするような毒語
・早くしないと、〇〇させないから
・じゃあ、〇〇できなくなるけどいいんだね
・もうみんなとは〇〇させられない
●本当の意図を語らずに、裏を読ませるような毒語
・やる気がないんだったら、もうやらなくていいから(→本当は「やりなさい」)
・勝手にすれば(→本当は「勝手なことは許さない」)
・あなたの好きにすれば(→本当は「言うことを聞きなさい」)
●下学年の子と比較するような毒語
・そんなこと1年生でもやりません
・そんな子は1年生からやり直してください
・保育園(幼稚園)に戻りたい?
●指導者側に責任がないことを強調するような毒語
・ダメって言ったよね
・もうやらないはずだったよね
・さっき約束したばかりだよ
(出典:『教室マルトリートメント』川上康則著、東洋館出版社)
教師が不適切な指導をする要因
このように教室マルトリートメントは子どもへの様々な悪影響があり、放置してはいけない問題です。対策を講じるには、なぜ教師は、不適切な指導をしてしまうのかを考えてみる必要があります。
まず、教師の仕事は、うまくいかないときに強い恥ずかしさを感じる職業であることが挙げられます。その恥ずかしさには2種類あります。一つ目は、対外的な恥ずかしさです。研究授業や授業参観、運動会や学芸会など、発表や活動をする場面で、子どもたちがしっかりとした姿を見せていると、指導した教師が周囲から高く評価されます。逆に、思い描いた通りにできないと、周囲から指導がうまくいっていないと思われるのではないかと感じ、恥ずかしさがこみ上げてきます。
もう一つの恥ずかしさは、対内的な恥ずかしさであり、自分に向けられた恥ずかしさです。教師という仕事には、「こうありたい」という美学やこだわりがつきものであり、自分への期待値があります。その期待値に現実の自分が達しないときに、恥ずかしさを感じ、対外的な恥ずかしさと対内的な恥ずかしさの二重構造によって、恥を回避するために不適切な指導につながることが考えられます。
次に、教師には呪縛にとらわれやすい面があることも不適切な指導が起きる要因の一つとして挙げられます。恥の感覚とも絡んできますが、学校は「あるべき姿」が様々な場面で想定されていて、「こうあるべき」の連続体なのです。例えば、「子どもはこうあるべき」、「何年生だったらこうあるべき」といった目指したい姿が「枠組み」として組み込まれてしまっています。目の前の状況がそれに達していないときに、「足りていない」という焦りが出ます。それが次第に「こうあるべきだ」「ちゃんとするべきだ」「ちゃんとさせるべきだ」という呪いに変わるのです。その呪いにとらわれ、焦りが自分を追い詰め、子どもを追い込んでしまうという図式になります。
ただし、その焦りは単に教師個人の問題として生じるものだけではありません。例えば、「本校ではこういう子どもの姿を目指したいのに、まだ足りていない」と感じた管理職が、教師に一層の努力を求めることで生じることがあります。
これだけではありません。例えば、毎年、全国学力・学習状況調査の結果が公表されますが、調査であるにもかかわらず、それを自治体の学力レベルであると判断した教育行政サイドの人や議員たちが「足りていない」という恥ずかしさや呪いにとらわれ、現場に「学力向上」というスローガンをもたらすようになります。そして教師が追い詰められれば、子どもが追い込まれるという負の連鎖が生まれます。つまり、教師が不適切な指導をしてしまう原因は、個々の教師の資質だけの問題ではなく、学校現場に対して欲しがりすぎる、文部科学省を含めた教育行政にもあると言えるのではないでしょうか。
不適切な指導を表す言葉として、私が「教師のマルトリートメント」ではなく、「教室マルトリートメント」にしたのは、教師一人一人の資質、能力、個性、特性の問題で済ませてはいけないと考えたからです。「教室マルトリートメント」は、上意下達的な教育行政の影響下で起きるものであり、システムや構造の問題なのです。
求められるのは寄り添う管理職
恥の感覚や「こうあるべきだ」という呪いに加え、やるべきことに追われて時間がない、やり方が分からない、せっかちに答えを早く求めすぎる、職員室の中に理解者がいない、安全基地がない、他者の視線を感じ取りやすいなどの状況が加わったとき、教師は「追い詰められ感」を抱きます。精神的に追い詰められて不適切な指導を行ってしまう教師に対して、管理職がかけてあげてほしい言葉は、「恥の感覚や呪いなどにとらわれなくてもいいからね」です。そもそも子どもたちは失敗と挑戦を繰り返しながら成長していく存在です。子どもが失敗するたびに、教師に責任と解決を求めなくてもいいのではないでしょうか。焦る教師に対して、「こういうときは気持ちが揺らぐものだけれど、慌てなくてもいいからね」、「子どもは一人一人歩調が違うから、無理して合わせようとしなくていいよ」などと言ってもらえればどれだけ気持ちが楽になるでしょうか。そのような管理職の姿がモデルとなり、「今まで恥の感覚や呪いにとらわれすぎていたな」と教師自身に感じてもらうことが大事なのです。
今、求められるのは、教師たちに上からものを言う管理職ではなく、横にいて寄り添い、歩調を合わせて一緒に歩んでいく管理職です。校長先生には毎日、ニコニコしながら教室を見て回ってほしいと思います。教師たちの良き理解者となり、「サポートはするから、思う存分やってごらん」と後押しをしたり、「先生たちの笑顔が子どもたちを支えてくれているんだよ。いつもありがとう」と労いの言葉をかけたりしてほしいのです。逆に、不適切な指導をしていないかを、チェックして回る「マルトリートメント・ポリス」のようなことはするべきではありません。「監視されている」と教師が感じるような行動をとるのではなく、教師を温かく包み込み、学校でみんなが機嫌よく、気持ちよく過ごせる雰囲気をつくってもらえればと思います。
「不機嫌な学校」にしないために
教室マルトリートメントを防ぐには、教師たちが笑顔で過ごせる学校にすることが大事であり、それには教師たちを追い詰めない組織にする必要があります。私が提案したいのは、削減できる業務を、思い切ってなくしてみることです。これまで「行事の精選」という言葉でごまかされて、ずっと残っている業務がまだたくさんあります。例えば、〇〇教育や学校の周年行事は、子どもたちにとって今本当に必要なコンテンツでしょうか。大切なのは分かりますが、大人側の見栄や体面が優先になっていませんか。全ての子どもにとって必要な「〇〇教育」、学校行事ならば残す、その代わりに別の何かを捨てる。足許に転がっている過去の何かを捨て去らなければ、時間とエネルギーを浪費するだけで結局、子どもたちを追い込む指導しかできなくなるからです。
学校が業務を削減したとしても、今後も文部科学省→教育委員会→学校→教師へと、新たな業務が下りてくる流れを止めることはできないでしょう。そうなると、防波堤となって、教師を守るのは校長先生の役目です。教育委員会からの通知であっても「本校の子どものためになるかどうか」で判断してよいのではないでしょうか。
また、教育委員会に対して改善を求めたいこともあります。外部に業務を委託するときに、適切な業者を選んでほしいのです。例えば、特別支援学校などのスクールバスの契約は学校単位ではできないことになっています。入札の際に最も低予算を提示してきた業者と契約してしまうと、低予算の業者は、スクールバス内の何かを削って予算を抑えるわけです。運転手は社員でも、添乗員はアルバイトで予備知識などがないため、その添乗員の不適切な一言から、保護者とトラブルになるケースが目立ちます。その結果、教師は業者の担当者と話し合い、一緒に保護者に事情を説明して謝罪する、という仕事が増えるのです。低予算でまともな仕事ができない業者が入ることによって現場教師の仕事が増えるという状況は、給食でも、校内の清掃でも起きています。雑な業者の仕事に、教師が振り回されています。
最後に一つだけ付け加えたいことがあります。私は一つの結論として「教室マルトリートメント」についての本を書いたわけではありません。意識の高い読者の方がこれまでを振り返るのに少し役立ったくらいで、学校教育は何も変わっていません。ここからがスタートだと思っています。これまでグレーだった不適切な指導がワーディングされたことで、子どもが大切にされる本来の学校の在り方を見つめ直すことにつなげていきたいと願っています。そのためにも、システムや構造の再構築は欠かせません。
取材・文/林 孝美
『総合教育技術』2022年秋号より