「てびき」をキイワードに再発見する 伝説の教師 大村はまの国語授業づくり #4 代表的単元学習「花火の表現くらべ」(後編)

日本教育史上突出した実践を展開し、没後20年を経た今も伝説として語り継がれる国語教師、大村はま。現役時代の教え子であり、その逝去の二日前まで身近に寄り添った苅谷夏子さんが、今、改めて大村はまの国語授業づくりの「凄み」を語る連載です。前回に続き、具体的な単元学習の実践例を紹介します。
執筆/苅谷夏子(大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長)
目次
ことばで知的思考を進め、深める練習
1979年7月、新聞四紙に掲載された隅田川花火の記事を材料とした、「表現をくらべる」というこの単元について、前回と少し重なる点もあるが、丁寧に見ていきたい。
著作権のこともあって、実際の新聞記事をここに掲載することはしないが、記事それぞれが独立した文章で(たとえば読売新聞には合計3つの記事があるが、別個に読めるような書き方がしてある)、花火大会を報じる上で一定の読みやすさも表現力・説得力も備えている。記事の長さもそこそこある。それら一つ一つを読んでいくという作業自体は難しいことではなく、楽しく進められるはずだ。
けれどもそこに比較という視点を持ち込もうとすると、急に事情は変わってくる。それぞれ独立した材料として目の前にある複数のものから、なにをどう比べればいいか、それ自体が一筋縄ではいかない難問になる。それは子どもに限らず、大人でも脳に大きな負荷のかかる仕事だ。漠然とした全体的な印象で比べて、〇〇は××よりわかりやすい、むずかしい、好き、きらい、面白い、つまらない、詳しい、理屈っぽい、否定的だ、などといった大まかな主観的比較で用を済ませてしまうことが多いのが実情だろう。もう少し頑張って細かく比べようとすると、目に留まったこと、目立つこと、自分に関心のあることだけを取り上げて「ここがいい、悪い」などと言うこともできるが、「目に留まったことだけ」という部分に不安が残る。
なにをどう比べたら、確かに比べたことになるのか。確かに比べるとどんなことに気づけるのか。そしてそれは「ことばをしかと見つめて深く考える」ということとどうつながるか。それを中学1年生に体験させたのが、この「花火の表現くらべ」の単元だと言える。
これは、言ってみれば「知の技法」の基本に他ならない。国語科に限らず、こういう方法で観察や分類、整理、考察を行うことは、どの分野でも大事な姿勢で、少しずつ養われることが期待されている。しかし、特に国語科においては、ことばで知的思考を進め、深めるという練習・体験は「本業」とも言うべき取り組みなのではないか。
前回も紹介した大村のてびきをもう一度見てみよう。
〈てびき プリント〉
七月二十九日の隅田川の花火、同じその夜の情景を報道する朝日・毎日・読売・東京の各紙の記事。
短い時間の情景を、どんなことばを使って、どのように表現しているだろう。いろんな角度から比べてみよう。できるだけたくさん、取り上げる。
一致して、同じことばの使われているところもある。どんなことばか? 興味をかきたてられる。
同じ情景をべつのことばを使って表しているところもある。どう違うか、説明のむずかしいような小さな意味の違い、語感の違い。まず、細かく読んで、比較してみるところを見つける。次に、つっこんで考え、味わうこと。
YSIの用紙を活用して、心にひらめいたこと、友だちのちょっと言ったことをすかさず書きとめる。話の筋などとはちがって、書きとめないと、せっかく気づいたことが消えてしまいやすい。これは、書いておこうかどうしようか、などと考えていないで、とにかく素早く書きとめる。
用紙は、五つの部分に分かれている。上の左を朝日、右を毎日とし、下の左を読売、右を東京にする。中央の、けいのないところ、ここへ、まわりの四紙から考えたことを書く。
1, いろいろな角度から・比較してみるところを見つける
これは、いろいろなテーマ、カテゴリー、観点、着眼点などと言い換えることができる。
まず一つの記事を読むと、当日の天候のことから始まり、次には続々と集まる観客の様子、会場の混雑、警官の動き……、などと内容は推移していく。そのとき、その一文の流れに乗って先へ先へと読んでいくのとは別の神経を働かせて、①天候のこと ②人出 ③混雑 ④警備……というふうに一段階だけ抽象化、一般化した形で受け止め、メモしていく。角度、カテゴリー、観点、着眼点を自分で拾うわけだ。できるだけたくさん拾うことで、比較が成り立つ「ひっかかり」「とっかかり」がそれだけ増えることになる。
このように書くと、たいへん単純なことのように思われるかもしれないが、こうした観点は、あまりに自然に、当然のように流れに溶け込んでいたり、ほんのささやかな情報であったりしたとき、観点として浮かび上がってこないということがいくらでもある。観点に気づくということ自体がたいへん重要なことだ。この作業は、材料となる記事を、行ったり来たりしながら繰り返し丁寧に読むことが必要になる。資料ごとに観点の現れるタイミング、順番も同じとは限らないから、要注意だ。この段階では、観点は多く拾えたほうがいい。
新たな観点、着眼点に気づくことの価値は、すべての領域でたいへん重要なことだろう。学習に限らず、暮らしていく上でも、注視し、考えてみたいテーマを得ることは、自分の新たな一歩につながる。けれども、情報が氾濫し、効率が重視され、生成AIもますます存在感を増す世の中で、「観点」は自分で見出すものというよりは、提示されるもの、「ここを見ろ!」と指示されるものになっているのではないか。
例えば、理科で植物を観察するというような場合でも、何に注目し、何を観察するか、それは最初から決まったことになっている。また数学で言えば、図形を扱う問題でどう考えていけばいいのかわからないような時、一本の補助線を引くことで一挙に問題の本質が整理されたりする。その一本の補助線の引き方を、習い、練習し、覚えることは行われているが、自分自身で問題を注視してそれを見出すということは重視されていないのではないか。新たな生のデータ(材料)を前にして、よくよく眺めて、観点、着眼点自体を見出していくような作業は、免除されていることが多いのだ。学習効率を考えればそういうことになる。生成AIに材料を渡して質問すれば、優れた観点など、一瞬のうちに示してくれるだろう。しかし、それでいいのか。生成AIを使いこなす側に立ち立ちたいと考えるなら、ただ提供された観点を受け取るだけではいけないのではないか。
だからこそ、大村が新聞記事を子どもに与えて、そこから観点を探し出させた試みは、価値の高いものだと言えるのではないか。わたしたちは、観点を自分で見出すことを手放してはいけないのではないか。一時的な効率の良さを越えた意味合いが、そこにはある。
そして、観点を拾いだした上で、比較してみる意味がある、比較したい、少し違いはあるがあえて比べてみたい、そういう観点を選び出す。観点として成り立っても、よい比較の対象になる材料が他にないという場合もある。比較の成り立つ、比較することが意味をもつ、そういう観点を選びだしていくわけだ。「花火の表現くらべ」では、各グループで最低でも10の観点を見つけるということになっている。
2, 異同に目をつける・同じことば、別のことば
同じカテゴリーに入る表現を集めていき、同じか、違うか、判断しながら、情報を整理していく。小さな発見がここかしこにあって、この段階ですでに次の段階の助走が始まっていると言えるだろう。
こういう作業を、どれほど張り合いをもって進めることができるかどうかは、プロジェクト自体の新鮮さ、興味深さ、自分ならではの発見や気づきへの期待感などの要素が関係してくる。ただの単純な異同さがしでは、生徒を惹きつけることがじきに難しくなることもおおいに予想される。全員で単純な同じ作業をするということになると、一部の生徒以外は「やらされている感」を持ち、主体的な姿勢になることは難しいだろう。それを叱っても事態は改善されない。取り組み甲斐のある状況をどうつくり上げるかが、こういう場面で重要になってくるのだろう。
3, 次に、つっこんで考え、味わう・説明のむずかしいような小さな意味の違い、語感の違い
同じ観点に整理されたことばが並んでいる状況で、「つっこんで考え、味わい」「説明のむずかしいような小さな意味の違い、語感の違い」などを、見出し、言語化していく。この段階こそが、「花火の表現くらべ」の最も重要な部分だ。ここでこそ、ことばについて注視し、細かく突っ込んで考えるということが行われる。それはあくまで具体的な、個々の材料を前にした作業でのみ成り立ち、一般化しても意味がない。けれども、そこで磨かれる言語に対する姿勢の取り方やアンテナの立て方は、具体を越えた力として身についていくのだ。その頭の働きかた自体が、大村が子どもに味わわせたかったこと、体得させたかったことだ。
ことばは、辞書的な語義が正確に言えれば合格というようなものではない。語義を越えた味わい、顔つき、温度感、背景、手触り、硬さや柔らかさ、音としての雰囲気、そうしたものを見出す機会がこの比較の場面では目の前にある。同時に、一つの場面を伝えるのに、あることばを選ぶということ自体が表現行為であることを徐々にわかるようになっていくのだろう。
4, 用紙を活用して、心にひらめいたこと、友だちのちょっと言ったことをすかさず書きとめる。
仕事の進めやすい用紙や枠組み、環境を用意すること、そこに、心にひらめいたこと、小さな気づき、考えの片鱗、ヒントになるかもしれない連想、友だちのちょっとしたひとこと、ふと湧いた疑問、自分でも意外な発想などをすかさず書きとめる。そういうメモは、最終的な価値などを考えないで、まずは記録しておくこと。あの教室で大村から大真面目にこういう仕事の仕方を習うのは、「なんだかプロになったようでかっこいい」と思ったものだ。
考えることの練習をする大村国語教室で、こうした知の基本をささえる工夫はたいへん重視されていた。多くは大村が自分の下勉強の際に見出した工夫・スタイル・道具立てで、それを生徒に先輩として「手渡す」感覚は、伝授というような雰囲気さえ持っていた。

子どもは比べて何を見出したか ―学習記録から―
このような流れで「花火の表現くらべ」に取り組んだ中学1年生の学習記録から、彼女の気づきを見ていきたい。
(グループごとの発表会で、花火の打ち上げられる速さについて発表した時)最後になって、「気ぜわしく打ち上げられ」という表現の意味の取り方について意見が出ました。私は「気ぜわしく」という形容詞が花火の楽しさを表していない、と思っていたのですが、みんなの意見を聞いて、意見が変わりました。今は「気ぜわしく打ち上げられるということは、花火が、景気よく打ち上げられている様子がよく表現されている。あまりこういう場面には使わない表現なので、平凡でなくておもしろい」と思っています。
この生徒は、花火を打ち上げるペースについて、朝日新聞の「ポンポンと気ぜわしく打ち上げられ」という表現の「気ぜわしく」という語に違和感を持ち、最終段階までこだわったことがわかる。実際、他紙が「絶え間なく」「息もつかせず」「息つくまもなく」と伝えている中、この違和感は正しいものと思える。実際のところ、この花火大会を協賛している読売新聞が量的にも質的にも盛り上がった報道をしているのに比べれば、朝日新聞の「ポンポンと気ぜわしく」は、距離をおいた、あまり好意的とは言えない書きぶりである。大村の言う「新聞には、自分たちの作文とはちがう条件がある」という部分だろう。中学校1年生が、表現の選択への違和感からそこに気づこうとしていることがわかって興味深い。
〈生徒のまとめから〉
表現くらべ H・N
まえがき
七月二十八日は、隅田川の花火大会でした。翌日の二十九日には、どの新聞も写真入りで花火大会のようすを報じていました。そこで、朝日、毎日、読売と東京の四新聞の記事について、同じこと、同じようすを表した表現をくらべてみました。
一 花火を見ている人の様子
朝日――見とれる
毎日――忙しい、にぎわった
読売――にぎわった、ゆったり、歓声、うれしそう、声をはずます
東京――どよめき、にぎわった
「見とれる」というのは、心をうたれてとけこんで、しかもうっとり見つづけているように感じます。「忙しい」というのは、花火を見ているより観客の行動を書いたように思います。「にぎわった」というのは、毎日、読売、東京に出ていて、ここの場面には一番多く書かれています。
読売に「にぎわった」の真反対な「ゆったり」とあります。「ゆったり」とは、「にぎわう」とは別に、さかさまな表現を使っていておもしろいと思います。
「歓声」というのは、「見とれる」とはちがって心の中で感じているのではなく、口に出して花火を見ているようです。見とれる人もいれば、歓声をあげる人もいるということでいいのじゃないかと思います。
「うれしそう」は、顔に出してその様子を書いたのだと思います。
「歓声」とは、長い文を短くすっきりとひきしめたり、それ以上の観客の様子を表せていると思います。例えば、大勢の人が花火の美しさに声をあげた、という文を「歓声」という一ことにしてあるのだと思います。
この場面に合っていると思うのは、「見とれる」「歓声」「にぎわった」などです。
「どよめき」は声の表現で、またおもしろいと思います。
1 にぎわった と ゆったり
「にぎわった」と「ゆったり」は真反対、逆のように感じます。「にぎわった」はもり上がっている感じで、「ゆったり」はおちついている、おだやかという感じがします。
2 にぎわった、歓声、声をはずます どよめき
どれも声に関係し、表し方が少しずつちがっていると思います。うれしさが出ているのは、「にぎわった」とか、「声をはずます」だと思います。
「どよめき」は、声の中でも一味ちがった言い方で、初めて見たような気がします。
(略)
三 花火を見ている人の気持ち
朝日――酔う、酔った
毎日――興奮
読売――歓声、ため息がもれる
東京――酔っていた、うっとり
「酔う」は、お酒に酔ったように気がぬけて、ぼけーと花火を見学しているように思います。
「興奮」というのは、楽しさにたえきれず表情や声に出して花火を味わっているように思います。「酔う」というよりも「興奮」という方が、表情から出ているように思います。からだの中からこみ上げてくるように思います。
「歓声」というのは、様子にも使われ、はば広く使われているように思います。これも表情に表れているように思います。
「ため息がもれる」は、ほっとした感じ、すごいなあという歓声をちがった言葉で表しているように思います。しかし、歓声より表現が弱く感じられ、何か一つたりないように思います。
「酔っていた」は、酔う、酔ったとだいたい同じだと思います。気がついたことは、「酔っていた」は、花火を見ている人を見た感じですが、酔う、酔った、は、自分が経験してみないとわからないことだということです。
「うっとり」は大変よく使われていることばだと思います。
1 歓声 と ため息がもれる
両方ともどこか似ているように思います。しかし、だいぶちがうところもあります。「歓声」は声、「ため息がもれる」は息。似ていると思ったところは、両方とも心の中で感じているということです。でも、表面に出し方がちがうのだと思います。
2 興奮 と うっとり
感じ方が反対だと思います。
「興奮」は、はげしく喜んで、からだが動くように思いますが、「うっとり」は、静かな感じで、いかにも味わっているというようです。
十一 たくさんの船
朝日――埋まった
毎日――釣り船などをかき集めた
読売――屋形船など三百三十九隻
屋形船や遊覧船三百三十九隻
東京――三百三十九隻の観覧船
「埋まった」というのは、数を入れなくとも、たくさんの船で埋めつくした、という感じがし、川面が見えなくなるほどぎっしり船で埋まったという感じがしました。満員のようにも思います。
短いことばですが、鋭く、表現が強いように思います。
「釣り船などをかき集めた」というのは、「埋まった」まではいかず、船が方々から集まったように思います。よせあつめるようにも思います。
いい表現というか、意味がわかって、味わえることばだと思います。
「屋形船など三百三十九隻」というのは、数を正確に表しています。しかし、数の多さ、量がわかっても、どのくらい埋まったかが、かけているように思います。
「三百三十九隻の観覧船」というのは、数を先にもっていき、工夫してあると思います。しかしこれもどのくらい埋まったのかがわからず、しかも船は観覧船だけじゃないと思います。釣り船などもあると思います。
1 埋まった と かき集めた
「埋まった」は、ぎっしり全部満員になってしまった感じがし、「かき集めた」は、量ではなくて、船が集まった様子を表していて、ちがっている意味で、考えて、うまくそのことばがひきたっているように思います。
2 埋まった と 三百三十九隻
「埋まった」は数がわからなくても、量の多さはわかります。「三百三十九隻」は数がわかっても量が多いか少ないかはわかりません。
そこがこの二つのことばの大きなちがいだと思います。
あとがき
「表現くらべ」についてのまとめを今、完成しました。心からこみ上げてくるうれしさと喜びでいっぱいです。「表現くらべ」の発表では、たくさんの意見を出し、必死に重要なことをノートにとりました。多くの題が出た時など、頭に入れ大急ぎで、えん筆を走らせました。これが全部身につけば、どんなに大収穫なことでしょう。(略)とにかく全力をつくし、でき上ったので、大変うれしい気持ちです。これに続いて次の課題に進もうと思います。
半年前まで小学生だった自分が、「全力をつくし」丁寧に細やかにことばの現場に対することで、これだけのことに自力で気づき、整理し、言語化することができた――そういう達成感は、大村教室の単元の終わりにしばしば見られるものだ。
観点に沿ってことばを丁寧に拾い上げ、並べてみると、おのずと自分の力で気づくことがあるといううれしい事実。けれども、それをこのようなレベルまで追求するには、前提として、ことばとの接し方、ことばに向き合う精度と関心の高さなどが普段から育てられてきていること、教室の目指すレベルの高さが共有されていることなど、大村の仕事が見てとれるのではないだろうか。
生徒は辞書も活用したことだろうが、ただ語義を写し取るだけでなく、自分のことばのもちものに組み入れる感じ、自分なりに語感をしっかり把握する感覚が大事にされたはずだ。それなしでこの単元を行ったなら、単なる語義の引用・羅列になり、ことばを味わうという主体的な立場は生まれなかっただろう。「ことばの使い手としての自分」がいるからこそ、いきいきとした単元になり得た。この基本となる姿勢は、非常に重要で、そして育むことが難しいものだろう。少なくとも一朝一夕に生まれる姿勢ではない。そしてこれこそが、大村教室の単元学習を背景として支えている基盤と言えるだろう。

<大村はま略歴>
おおむら・はま。1906(明治39)年横浜市生まれ。東京女子大学卒業後、長野県諏訪市の諏訪高等女学校に赴任。その後、東京府立第八高等女学校へと転任。すぐれた生徒たちを育てるが、戦中、慰問袋や千人針を指導、学校が工場になる事態まで経験する。
敗戦後、新制中学校への転任を決め、後に国語単元学習と呼ばれるようになった実践を展開。古新聞の記事を切り抜いて、その一枚一枚に生徒への課題や誘いのことばを書き込み、100枚ほども用意し、駆け回る生徒を羽交い締めにして捕まえては、一枚ずつ渡していったと言う。1979(昭和54)年に教職を去るまで、単元計画をたて、ふさわしい教材を用意し、こどもの目をはっと開かせる「てびき」を用意して、ひたすらに教えつづけた。退職後も、90歳を超えるまで、新しい単元を創りつづけ、教える人は、常に学ぶ人でなければならない、ということを自ら貫いた。著書多数。
2005年、98歳10ヶ月で他界。その前日まで推敲を進めていた詩に、「優劣のかなたに」がある。
<筆者略歴>
かりや・なつこ。1956年東京生まれ。大田区立石川台中学校で、単元学習で知られる国語教師・大村はまに学ぶ。大村の晩年には傍らでその仕事を手伝い、その没後も、大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長として、大村はまの仕事に学び、継承しようとする活動に携わっている。東京大学国文科卒。生きものと人の暮らしを描くノンフィクション作家でもある。
主な著書に『評伝大村はま』(小学館)『大村はま 優劣のかなたに』『ことばの教育を問い直す』(鳥飼玖美子、苅谷剛彦との共著)『フクロウが来た』(筑摩書房)『タカシ 大丈夫な猫』(岩波書房)等。

ロングセラー決定版!
灯し続けることば
著/大村はま
「国語教育の神様」とまで言われた国語教師・大村はまの著作・執筆から選びだした珠玉のことば52本と、その周辺。自らを律しつつ、人を育てることに人生を賭けてきた大村はまの神髄がここに凝縮されています。子どもにかかわるすべての大人、仕事に携わるすべての職業人に、折に触れてページを開いて読んでほしい一冊です。(新書版/164頁)
大村はま先生の貴重な講演動画!「忘れ得ぬことば」大村はま先生 白寿記念講演会 5つのことばがつむぎ出す、国語教育の源泉【FAJE教育ビデオライブラリー】〈動画約60分〉がこちらでご覧いただけます。
