<永岡桂子 文部科学大臣インタビュー> 「おかあさんの底力」で子どもも先生も元気な学校をつくりたい

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52才まで専業主婦として二女の子育てをしていた永岡桂子さんが衆議院議員だった夫、故・永岡洋治さんの志を受け継ぎ、茨城7区から出馬して初当選したのは2005年のこと。以後、一度の落選もなく、当選6回。文部科学副大臣、厚生労働副大臣、農林水産大臣政務官として活動し続けてきた人はどんな子供時代、学生時代を過ごしてきたのか。夫との結婚生活で印象に残ったことや、出馬を迷っているときに背中を押したある政治家の妻のひと言。また、文部科学大臣として、ICT化などがすすむ令和の教育現場をどうとらえているのか。大きな心で子供たちを包み込む「おかあさんの底力」で実現したいことはどんなことか。意外にも顔見知りだった女性セブン(小社刊)の名物記者「オバ記者」が迫る。

【プロフィール】
永岡桂子(ながおか・けいこ)文部科学大臣
1953年東京・渋谷区生まれ。4人きょうだいの長女。小学校は公立。学習院女子中等科、高等科に通い学習院大学法学部卒。2005年、衆議院議員である夫が急死したため、直後の衆議院議員総選挙に急きょ茨城7区から出馬。中村喜四郎議員に敗れるも比例北関東ブロックで復活して初当選。以後『おかあさんの底力』をスローガンに6期当選を重ねる。2018年文部科学副大臣に就任に続き、昨年夏、文部科学大臣に就任した。

28年間の専業主婦から
大臣へ昇りつめた半生

──今日はどうぞよろしくお願いします。さっそくですが桂子先生とお呼びしてもよろしいでしょうか? 

「はい、どうぞ。オバ記者(笑)」

──実は私が2018年からお手伝いをしている茨城1区の衆議院議員、田所嘉徳議員の隣りの隣りが桂子先生の事務所でして、衆議院会館の廊下でお会いすると話しかけてくださって、とても親しみを感じていました。

「そうでしたね。女性が少ない職場ですし、年齢も近そうなのでいつの間にかお話をするようになりましたね」

──今日はインタビューの機会をいただいて、とても楽しみにして参りました。桂子先生ほど数奇な運命をたどられた女性議員もいらっしゃらないのではないかと、かねがねお話を伺いたいと思っていました。なにせ52才まで専業主婦でいらっしゃられたんですよね。大学を卒業して就職はなさらなかった?

「家が飼料会社を経営していまして、大学を卒業してそこに就職をしましたが外では働いたことがございません。昭和20年後半から昭和30年代の生まれの女性は、今から考えると驚くほど家事手伝いが多かったです」

──それからお見合いをして結婚。

「はい、憧れの専業主婦になりました。といいますのは私の家は東京に一軒だけあった飼料会社、つまり家畜のエサを製造販売する会社でして、母親はいつも忙しく働く女でした。小さい時に友だちの家に遊びに行くと、お母さんが必ず家にいて手作りのおやつを出してくれたりするわけです。憧れましたねぇ。わが家はすぐ近くに両親はいるけれど、従業員がいる会社ですから私的な話はできませんし、雨が降ると誰も学校に迎えに来ませんから濡れて帰る。そんなことから私は家にいて夫や子供の世話をしたいと強く願うようになったわけです」

──よくわかります。ところで小学校のときはどんな児童だったんですか?

「目立たない子供だったと思います。当時の渋谷区は今とはまったく違っていて私の家は飼料を作る工場がありまして、庭でニワトリを飼っていましたね。家庭菜園レベルですがニラも植わっていたことを覚えています。学校にはいろんな友だちがいました。たとえばクラスにはダウン症の子がいまして、先生からの指導もあってみんなで順番に彼のお手伝いをする。また、とてもきれいな女の子がいて彼女は毎朝、母親が車椅子を押して登校してきました。子供ですから、だからどうということはなくて、ただありのまま受け入れるだけ。そういう学校に通ったのはとてもよかったと思います」

──中高校は学習院女子に行かれました。

「ぼんやりした長女だったので祖父が心配しまして、『ちゃんと勉強をしなさい』と小学6年生のお正月に説教をされて、それで私立校を受験することになったのです。この時ばかりは落ちたら大変だと1月、2月は必死に勉強をしましたね」

──そうして入学した学習院女子はいかがでしたか。

「女子校は重いものを運ぶのに男子を呼んでこようという発想すらありません。誰ということはなくスッとやる。それから女同士の気楽さで体育の時間前の着替えが速い(笑)。思春期の6年間をそんな環境にいると、世間の常識とは少々ズレが生じるんですね。たとえば共学を卒業した人から『女子は理系を選択する子が少ない』と聞いた時にその意味がわからなかったんです。『えっ、どういうこと?』と言うと向こうもキョトンとしてしまう。私は女子は文系、男子は理系という発想がまったくなかったんですね。女子校では理系が好きな人がそちらにすすむという、個人の得意不得意でしかないと思っていました

──部活は何をしましたか?

「中高生のときはシッカリとした帰宅部でございまして(笑)。家にまっすぐ帰って冒険小説を読んだり、日当たりのいい縁側で美術書を広げたりして、それはそれは幸せな時間でした。しかし大学に入るとこれではいけないと思い立ちましてテニスサークルに入りました。これはかなり一生懸命励みましたね。ひらひらのスコートですか? はきましたよ(笑)。今思えば短パンでもよかったんですけど、あれも憧れだったんでしょうね」

──大学では法学を学ばれたのは、いずれ政治に携わるとか、何か予感めいたことがあったのでしょうか?

「まったくございません! ただ世の中の基準というか、常識を知りたいという気持ちはありましたね。帰宅部で世間が狭かったので、もっと深く大きく世の中のことを知りたいと思ったのだと思います」

憧れのサラリーマンの妻の
実態と農水官僚の夫の借金

──そして卒業して2年後に結婚なさった。新婚生活はいかがでしたか?

「商家を嫌い、専業主婦になる願いはかないましたが、すぐに一長一短があることに気づきました。夫は農水省の役人でしたが、自分で使う分を引いたお金を私に渡してくれました。それが驚くほど少なかったのです。ある日、母に愚痴ったんです。そうしましたら『いくら文句を言っても給料はすぐに高くなるものではない。もらった中でやりくりして生活をするのがサラリーマンですよ』と言われまして。それで気持ちを切り替えて頑張ろうと前を向いたのですが、実は夫は借金がありました。大学に行くための奨学金です。夫の借金は娘ふたりが幼稚園にあがる前に払い終えましたが、気が付くと私の貯金はすべてなくなっていましたね

──転勤についていきながらふたりの子育ては大変だったのでは?

「夫は毎日のように遅くまで仕事、仕事であてになりません。言葉もよくわからない外国でお手伝いをしてくれる人もいない。まさに孤軍奮闘でした。娘ふたりを私立校に通わせたのは子育てで力が尽きて、とても大学受験まではもたないと思ったからです。そのことをのちのち娘に文句を言われました。『近所の友だちと遊びたかった』って」

──永岡さんが農水省を退官して政界に打って出たのは1996年。しかし落選。次の選挙も落選して2003年に初当選なさいました。妻としてどんな活動をしたんですか。

「どなたも同じですが家族が選挙に出るというのは大変なことです。命がけで戦っている夫に迷惑がかかるような言動をしてはならないというのはまだいいんです。まったくの他人である支援者が夫を議員にするために必死で働いてくれているところを目の当たりにすると、とてもじゃないけれど家族が足を引っ張るようなことはできません」

──選挙戦の中で妻である桂子先生はマイクを握られたんですか?

「いや、それはしませんでしたね。『よろしくお願いします』と頭を下げるところまででした」

夫の急死から出馬を決意
させたある人のひと言

──ご主人の永岡洋治さんが急死なさったのは2005年の8月。桂子先生が弔い合戦で衆議院になられたのが9月。出馬を決めたのはどうしてですか?

「夫が亡くなってすぐに自民党の茨城県連から出馬の依頼がありましたが、私のように政治を志したことのない人間が出馬していいのか、ずい分と悩みました。そんなときに塩崎恭久先生(元内閣官房長官)の奥さまから『あなたはご主人が何をしてきたのか見たいでしょ。見るためには選挙に出ないと見られませんよ』と言われたんです。塩崎先生とは主人がアメリカに留学したときに家族ぐるみでお付き合いをしていた方です。このひと言で出馬の気持ちが固まりました。あと……(涙ぐんで)夫の名前も忘れてほしくなかったんです。ああ、この話をすると涙が出てくるからイヤなんですよ」

──そして昨年の衆議員選挙まで6期、落選なし。昨年の選挙では比例代表ではなく小選挙区で勝利しました。

「支援してくださった茨城7区の支持者にはほんとうに頭が下がります。私は選挙に出てみなさんが選んでくださる限り、頑張って仕事をさせていただくだけですから」

──文科大臣として特に力を入れていること、力を入れていきたいことは?

「私は元おかあさんで現在は現役のおばあちゃんですけれど、やはり母親の目線、国民の目線で、どこにでも行けるところは視察に行って現場の先生方や専門家の方々の声に耳をすませる。あくまで現場主義であることを大事にしております」

──具体的にはどんなことを考えていますか?

「1人1台、タブレット端末が子供たちに配られ、コロナ禍でもそれを使って勉強ができるようになったことはとてもよかったと思っています。しかしGIGAスクール構想の推進をうまくはかっていかないといけない。そのためには現場の先生といっしょに私自身勉強をしていかなければいけないと考えております。
それからコロナ禍で増えてきた不登校の子供たちへの対応も早急の課題です。対策プランを策定したので、具体的な対応を急いで進める必要があります。ただ今の子供たちって、私たちの頃とくらべたら数段、しっかりしていて驚くことばかりです。子供は時代の影響をまっすぐに受けるからでしょうけれど、子供の顔から笑顔が消えないように、子供を元気にするためには先生もまた楽しい学校でないと今の子供に対応できません」

──教員の働き方改革ですね。

「それだけではだめで、勤務時間の上限を決めるとか、教職員定数の改善、支援スタッフの充実、ICTを活用した先生の業務軽減の促進など、やらなければならないことを一つ一つ進めていきたい。幸いにも、文部科学委員会で教育予算の充実を話し合うと、与野党問わず大賛成です。岸田総理も『人への投資が大事』とおっしゃってくださっています。
お金といえば、私は若い頃、夫の奨学金の返済で経済的に大変な時期がありましたので、奨学金の問題も『一律いくら返済せよ』ではない、人それぞれに応じたきめ細やかな返済プランがないかとも思っています。思えば私は専業主婦のときの経験が全部、議員になって役立っています」

──本日はありがとうございました。今後のますますのご活躍を願っております。

取材・文/野原広子 撮影/浅野剛


野原広子(のはら・ひろこ)オバ記者
1957年茨城・桜川市生まれ。体当たり取材が人気。一昨年は母親を帰省介護した記録を、昨年は自身の闘病記を発表して話題に。女性セブンで「いつも心にさざ波を!」を連載中。共著に『まんがでもわかる人生ダイエット図鑑 で、やせたの?』(小社刊)。


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